

「農業ビッグデータ」を実現するための課題は何か?
デジタルトランスフォーメーションでビジネスチャンスをつかめ!
「農業ICTで重要なのはケーシング」と語るのは、農業領域におけるICT活用を専門とする深津時広博士です。農業ICTに対する期待は2000年代前半からありましたが、思いのほか進んできませんでした。ソリューションを提供しようとするITベンダと、課題を抱える農家の間を分かつものは何なのでしょうか。農業ICTを進める難しさや、農業ビッグデータ活用の好例を深津先生に伺いました。


鈴木 良介(すずき りょうすけ)氏
株式会社野村総合研究所
ICT・メディア産業コンサルティング部 上級コンサルタント
株式会社野村総合研究所ICT・メディア産業コンサルティング部所属。情報・通信業界に係る市場調査、コンサルティング、政策立案支援に従事。近年では、ビッグデータの活用について検討をしている。近著に『データ活用仮説量産 フレームワークDIVA』(日経BP、2015年12月)。総務省「ビッグデータの活用に関するアドホックグループ」構成員(2012年5月まで)、科学技術振興機構 戦略的創造研究推進事業CRESTビッグデータ応用領域領域アドバイザー(2013年6月~)。
温度と気温は違う
農業・教育・医療は、長らくIT業界の鬼門でした。これらの領域でのICT活用は行政やITベンダなどによって大きな期待が寄せられているにもかかわらず、思ったような進展がなかったり、実証実験止まりになってしまうことが少なくありません。一方で、近年のビッグデータ・IoT・人工知能といった新しい技術活用は、これらの領域に大きな変化をもたらすと、再度期待が高まっています。
本稿では、農業におけるICT活用の可能性と課題について、国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構農業技術革新工学研究センター上級研究員の深津時広博士へのインタビュー内容を紹介します。深津氏は農業領域におけるデータ活用を専門としています。また、深津氏は、科学技術振興機構戦略的創造研究推進事業CRESTにおける農業ビッグデータプログラムの主たる共同研究者です。
「農業研究には120年の歴史があり、そのなかでさまざまなモデルが培われてきた。それを無視して、最新の方式を用いて単に圃場の計測ができても施策に反映することができない」(深津氏、以下同様)
モデルとは、例えば桜の開花予想です。毎日の平均気温を積算し、その積算予測値から開花時期を予測する。このようなモデルはさまざまな作物・品種・環境・目的に対して長い年月をかけて求められてきました。農業のデータ収集には時間がかかるためです。例えば、気温と開花の関係を確認しようとすれば、一年にひとつの組み合わせしかデータが取れません。台風などで作物が被害に遭おうものならば、その年はデータが求められないこともあります。結果、ひとつのモデルを作ろうとすれば、すぐに5年10年といった時間がかかります。いま使われているさまざまなモデルは、いずれもこのような苦難を乗り越え、長い年月をかけて作られたものなのです。
また、モデルがどのように構築されたかという背景を把握せず、新しい計測機器でデータを集められるようになったからといって、データを収集するための計測方法を頻繁に変えるわけにはいきません。
例えば、ある種の虫の発生を計測する際には、農業試験場の普及員が「虫取り網を水平に5回振って収集された数とする」といった方法を用いています。古式ゆかしい方法ですが、これが過年度との比較をする際の標準的な方法となっています。もっと良い方法があるかもしれませんが、いきなり最新の方式で計測しても、過去100年間の蓄積データとの整合が取れません。モデルと整合が取れなければ、その計測値がどういう意味を持つデータであるのか解釈できない。そうすると、どのような施策を講じればよいのかがわからず、データが使いものにならないのです。
このような事情を無視した新しい手法の提案や、外部データの連携が的はずれなものとなることは当然です。
例えば、農業と気象は不可分なものですが、気象庁が運用するアメダスのデータは農業での利用を主たる目的としてないため、そのままで農業に使えるものは多くありません。アメダスでは農業現場で重要な指標のひとつである湿度は計測されていません。また日照時間は計測されていますが、これは光合成につながる日射量を意味するものではないため使えません。
一方、気温についても約20キロ四方に1ポイントでの計測であるため、現場で用いるには誤差が大きくなります。
「ある圃場について、近隣2地点のアメダス気温とその圃場で計測した気温を比較したことがあるが、月平均で0.5~0.8度違った。0.5度の違いであったとしても積算気温で考えれば大きな誤差となってしまう」
0.5度という気温の差が影響のない業界もあるかもしれませんが、それを積算して活用する農業現場においては、深刻な誤差となるのです。
現場の農作業に則したICT活用
農業現場は営利業務です。そのため「正しいデータを取る」ことが第一目的にはなりえず、業務を邪魔するようなデータ収集は成立しません。測定側としては、圃場・畑の中に測定機器を設置し、データの収集を行いたいと思っても、それが常に許されるわけではありません。
例えば、稲作においては水温と水深が、稲の病気と密接な関係にあります。水深が増すと「風邪を引きにくい」といって、病気になりにくい。水温が低い東北は、「風邪をひきやすい」環境であるため、多少邪魔であっても、水温・水深を測るためのセンサーの設置に前向きとなります。一方で、関東は水温が高く「風邪をひきにくい」ため、作業の邪魔になるセンサーの設置には消極的となり、「現場の農作業を邪魔しないで利用できることが重要」となるのです。
また、作業の邪魔になるほど大きな測定機器は論外ですが、小さいものはそれはそれで嫌がられます。見失うほど小さな測定機器は、農作業の中で壊れて、農作物に混入してしまう恐れがあるためです。食品を取り扱っているため、異物は嫌われるのです。
「農業センサーネットワークでは、現場で農家の作業を邪魔しないで利用できるということも重要」と深津氏は言います。
農業分野におけるIoT活用の成否の鍵は「ケーシング」
さらに、深津氏は「農業ICTで重要なのはケーシング」と言います。ケーシングとは、ケース(容器)にセンサーなどの機器を納めることです。
なぜケーシングが大切なのでしょうか。農業の現場は実験室の中のような安定した環境ではなく、雨・風・日射・埃・虫など、さまざまな影響要因が入り乱れる屋外であり、正しく測定しつつも測定機器を守る必要があるためです。例えば、測定機器にとって虫は大敵です。ケースを布で覆っても、電子機器の熱に誘われて小さな虫が来る。虫が内部に侵入すると電子機器がショートするリスクが高まります。さらに虫をエサとする生物が布を破って侵入して来ます。「ケーシングの工夫が確立していなかった十年以上前には、測定機器の中からヤモリが5匹出てきたこともあった」と言います。もちろん、もっと大きな野生の鳥獣から機器を壊されることも防がなければなりません。
そうかといって完全密閉にしては熱がこもってしまい、内部の電子機器に悪影響が及びます。また、ケーブル類の取り回しや、メンテナンス性の観点からも完全密閉は難しい。
このようなケーシング上の工夫を経てはじめて、連続的なデータ収集とそのデータの業務への活用が可能となるのです。
どのように施策に活かすか?
作物や圃場の状態を測定できても、施策につながらなければ意味がありません。例えば、水を散布する設備のない広大なレタス畑では、仮に土壌水分が少ないとわかったとしても手を打つことができません。手が打てないのであれば、測定しても意味がない。データを収集し、分析し、その分析結果を施策に生かす必要があります。施策に生かすということは、経済活動として農業を行っているならば、経済的効用を得るということです。データを施策と効用につなげる事例を2つ見てみましょう。
事例1.薬剤散布時期の予測
小麦がかかる病気の一つに赤かび病があります。赤かび病には予防薬がありますが、これは防除に適した時期に散布する必要があります。
赤かび病の場合、小麦の花が開花した時に散布するのが効果的であり、開花日から防除日までずれるほど発病度合いが高まります。1週間ずれると発病度は2倍になるという報告もあります。この薬剤散布に際しては、小麦の状態の測定と、それに基づく開花時期を予測することは経済的効用につながります。
なぜなら、専門の薬剤散布事業者に依頼するための費用が、事前予約の時期に応じて大きく変動するためです。開花の時期を見越して早くから予約をしておけば、割安料金で利用することができますが、直前に依頼すると高くつく。逆に開花時期、つまり薬剤散布時期の予測を行うことができれば、割安でサービスを利用することができます。状態測定とその予測が、薬剤散布という施策に生かされ、経済的効用をもたらすことが期待されるのです。
事例2.最適な灌漑・施肥
薬剤だけではなく、水撒きも最適化の対象となる施策です。みかんなどを育てる際、枯れてしまわないギリギリまで水やりを制限することによって、果物が甘くなります。木の根元にビニールを敷き、その下に点滴灌水チューブを敷いて必要に応じて水やりをすることによって果物の糖度が上がる。このような水やりを点滴灌漑といいますが、土壌の状態を測定し、水やりという施策にフィードバックしている事例と位置付けられます。
水撒きと同様に、施肥(肥料をやること)も最適化の対象です。例えば、トラクタにセンサーを付け土壌中の窒素量を細かく測定し、翌年には窒素含有量が少ない所にだけ施肥をするという研究があります。肥料はたくさん撒きすぎると土壌を傷めてしまうため、このような必要な所に必要な分だけ施肥を行うという施策が求められるのです。

地に足の着いたICT活用
近年のICTの進歩により、さまざまなデータが簡単に測れるようになってきました。しかし、何のためにデータを測るのかということが明らかでなければ意味がありません。例えば、新しく収集することができるデータを予測モデルに利用するのであれば、そのモデルを導き出すために用いられてきたデータがどのように計測されてきたのかを明らかにしなければ問題が生じます。
「安くて使い勝手のよいテクノロジーが登場していることは農業ICTにとっても追い風。しかし、農作物を十把一絡げに考え、ありもしない課題を解決しようとするICT活用ではいけない。現場に足の付いた研究・施策とする必要がある。そのためには、現場現場に応じた形でのチューニングをしやすいシステムの提供なども重要なテーマである」と深津氏は言います。深津氏は現在、チューニングをしやすいシステムとして、メーカーに依存しないオープンハードウェアの開発や、その運用方法の共有なども進めています。
以上、深津博士へのインタビュー内容を紹介しました。
同じ製造業だからといって、半導体と造船が同じ課題を抱えていると考えている人はいないでしょう。農業も同じです。取扱品目、事業主体の規模や地域性に応じて異なる課題を抱えています。それぞれの事業主体が直面する具体的で、効用につながる課題を解決しなくてはなりません。
農業従事者の高齢化、労働力不足、生産コストや流通コストの高止まりなど、農業を取り巻く課題は多くあります。「安くて使い勝手の良いテクノロジー」をこれらの課題解決のために活用することが求められるでしょう。
出典
- 本稿におけるインタビューは2017年8月21日に実施しました。
- 「農業分野におけるセンサネットワーク技術の利用と課題」、深津時広、電子情報通信学会誌(vol.97, No.8, 2014)
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