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2019年05月17日

インド13億人の「生体認証」国民IDに、知られざる日本企業の貢献

 <インド社会を変える──。そう期待されているのが、2009年から導入された国民IDシステム「Aadhaar(以下アドハー)」。既に12.3億人以上が登録し、公共福祉サービスが効率的に支払われるようになり、不正行為も激減した。この制度を支えるのが日本の技術ということは、あまり知られていない>

 インド東部ビハール州ガヤに暮らすシャーシ・ランジャン(27)は、先祖代々、米や穀物、玉ねぎなどを扱う小さな農場を経営してきた。貧しいが、家族6人でなんとかギリギリ食べていけるような暮らしぶりだった。

 ところが昨年、深刻な干ばつが発生。ビハール州政府は、ガヤなどを干ばつ被害地域に宣言し、同時に支援金を農家などに支払うと発表した。

 「これまでなら、私の家族も近所の農家たちも、支援金を出すと言われても時間の無駄だと思って申請すらしなかった」と、ランジャンは言う。

 だが「今、そんな懸念はもうない」。インド政府が2009年から、生体認証を使って国民1人ひとりに固有のIDを発行する「アドハー」と呼ばれるシステムを導入したからだ。この国民IDシステムの管理によって透明性が格段に向上したことで、支援金や補助金など公共福祉サービスが効率的に支払われるようになり、不正行為も激減した。

 「自分が生きている間にこうした支援を受け取れるようになるとは想像すらできなかった。オンラインで申請すると干ばつの支援金はすぐに支払われたし、今までは夢の話だと思っていた、政府によるミミズ堆肥のための農業支援金なども受け取れるようになったのです」と、ランジャンは嬉々として話した。

 現在、13億人が暮らすインドで、実に12.3億人以上の国民が、強制ではないこのアドハーに登録を済ませている(2018年12月31日現在)。この制度がインドの社会を劇的に変える可能性があると期待されている証左だ。

 実は、そんな野心的なアドハーのシステムを、日本の技術が支えていることはあまり知られていない。その技術を提供しているのは、生体認証技術で世界的に高い評価を受けているNECだ。

 NECの技術が基盤となっているアドハーは、インドの固有識別番号庁(UIDAI)によって登録が進められている生体認証IDシステムで、国民の名前や住所、生体情報を収集して管理する。システムに登録された国民1人ひとりに12桁の数字からなるIDを発行し、役所などの公共機関や銀行はこの固有のIDを使って社会保障の受け取りや銀行口座開設の本人確認をスムーズに行うことができる。

 この「デジタル化」されたIDシステムによって、冒頭のランジャンのような国民が、公共サービスや福祉支援、金融サービスを公平に享受できるようになっている。またインドの成長の足かせとも言われ、長年にわたって深刻な問題となっていた汚職や不正が減ったことで、政府はこれまでに124億ドル(約1.37兆円)の不正支出をなくすことに成功している。

 アドハーにより国民のみならず政府も恩恵を受けている現状は、世界的にも評価されている。2018年にノーベル経済学賞を受賞した、世界銀行の元チーフエコノミストで、ニューヨーク大学の教授であるポール・ローマーはアドハーの効果についてこう言及している。

 「インドのこのシステムは、私がこれまで見てきた中で最も高度なものだ。金融取引などを伴うすべてのやりとりの基盤になっている。これが広く導入されることになれば、世界にも有益となるはずだ」

指紋、顔、虹彩認証を組み合わせ、1日最大200万件を登録

 そんなアドハーの肝となるのは、本人確認のための高い認証技術。公共サービスや銀行などで使われるため、IDが重複して発行されるようなことがあってはならないからだ。そこで、アドハーでは大規模な生体認証システムの導入を決定した。そのシステムを提供しているのが日本のNECなのだ。

 同社は指紋、顔、および虹彩認証を組み合わせた、超高精度なマルチモーダル生体認証でアドハーを支えている。アドハー制度の入り口として活用されているNECの技術は、正確なIDシステム構築に欠かせないものとなっているのである。

 インド政府がNECを採用した理由は、同社が開発するそれぞれの生体認証技術が世界最高レベルにあるという点にある。NECは、米国国立標準技術研究所(NIST)が実施した指紋認証技術と顔認証技術のベンチマークテストで、世界1位の照合精度を有するとの評価を獲得している(顔認証技術は、2009年以来、4回連続1位を獲得)。虹彩認証においても、精度評価テスト(IREX IX)で第1位の照合精度であると評されている。

 とはいえ、どの認証技術にも課題はある。指紋は広く使われる認証技術だが、高齢者や乾燥指紋の人などには不向きだと言える。顔認証は利便性が高い反面、精度面で指紋や虹彩に劣る。虹彩は精度が高いが、指紋や顔ほど普及していない。

 だからこそ「これらを組み合わせることで、それぞれの弱みを補完し、精度の高い照合を実現することができるのです」と、NECのセーファーシティソリューション事業部で主席事業主幹を務める伊藤正人氏は話す。「指紋と顔、虹彩のマルチモーダル生体認証を採用した背景には、超大規模データベースで二重登録を防ぐために、より高い精度が求められたことがあります」

 しかも世界第2の人口を誇るインドでは、登録作業のスピードも重要になってくる。アドハーでは、登録済みの生体情報と新規登録希望者の生体情報の照合を、迅速に行う必要がある。NECの技術では、その照合を高精度かつ効率的に行い、なりすましの防止や手続きの簡素化を実現している。

 「ピーク時には1日に200万件の登録を処理することもあります。現在まで、速度や精度の面で、実運用に耐えうる二重登録防止を達成しています」と、伊藤氏は語る。

 このように、NECは世界に誇る生体認証技術を結集させることで、アドハーの登録プロセスを支えているのである。

 実は、NECの生体認証技術における開発の歴史は古い。例えば、指紋認証技術なら約半世紀も前から研究開発を行ってきた。伊藤氏によれば、「生体認証を用いた公共サービス分野でのNECの取り組みは四半世紀前から行っています。古いところでは、南アフリカの国民IDやボリビアの選挙民IDでも、NECの生体認証が採用されています」という。

 現在では、犯罪捜査から出入国管理、コンサート会場の本人確認まで、世界70カ国以上で700カ所を超えるシステム導入の実績がある。

 ただし、そんなNECにとっても、インドほどの大規模な生体認証登録──そして、マルチモーダルの複合認証──は前代未聞だったという。

社会の効率・公平にも寄与、「世界に自慢できるシステムだ」

 野心的なプロジェクトであるアドハーは、冒頭のケースのように、現在までにインド国民に直接的に多大な恩恵を与えている。

 インドの経済都市ムンバイで事務の仕事をしているサンジェイ・チャーバン(46)は、アドハーをIDとして使えるようになって生活が一変した。

 「食料の配給ですら、いろいろな書類を出しても、配給の審査が通る人とそうでない人がいて、その違いすら分かりませんでした。たくさんの書類を求められ、毎回手数料を取られる。文字が読めない知り合いなどは、中間業者から補助金などを搾取されていたのです」と、チャーバンは語る。そんなことから、役所でも揉め事は絶えなかったが、アドハーによって不正や搾取は「激減した」と実感しているという。

写真はイメージです ASphotowed-iStock.

 同じくムンバイでフィットネスジムに勤めるプラノブ・マンドルカー(31)も、アドハーを評価している1人だ。「インドにはこれまでこうした、すべての国民のためのIDシステムは存在しなかった。やっとインドが国際標準の政策を進めてくれている。世界に自慢できるシステムだ。社会に大きな変化をもたらすはずだと期待しているよ」と、マンドルカーは言う。

 そんな評価の一方で、国民監視やプライバシー侵害につながるのではないかと懸念する声も出ている。2018年には、インド最高裁でもこの問題が争われた。だが結局、9月にアドハーの正当性を支持する判決が出され、UIDAIの初代総裁でアドハー推進の責任者だったIT起業家のナンダン・ニレカニはこうツイートした。

 「アドハーは大成功している......最高裁は、アドハーを合憲と認めただけでなく、明白にアドハーの創立の理念に妥当性を与えた。アドハーはインドという国家が目指す開発目標にとって、重要で唯一無二のIDプロジェクトなのです」

 そんなインドの未来を背負ったアドハーを、NECが支えているのである。

 もともと世界各地の犯罪捜査や出入国管理などで「安全」「安心」に貢献してきたNECの生体認証技術は、インドでは社会の「効率」「公平」にも寄与している。NECが誇る生体認証という最先端のテクノロジーには、人々の暮らしを変える力があるのだ。

(制作:ニューズウィーク日本版)

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