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1日数千万件の証券取引から「怪しい取引」を絞り込む
不公正取引監視に挑むAIの挑戦

 東証市場での株式の注文件数は、1日あたり数千万件以上、多い日には1億件程度にも達する。その中から不公正取引の疑いがある取引を絞り込む──。東京証券取引所を傘下に置く日本取引所グループ(JPX)は、2018年3月から株式取引の売買審査業務をAI(人工知能)で支援するシステムを本稼働させた。AIの基盤技術として採用されたのは、「RAPID機械学習」を中心としたNECのAIテクノロジーだ。

売買審査業務のどこにAIを活用するかで価値が変わる

 株式等の取引市場を運営する金融商品取引所では、公正・公平な取引を担保できるよう、相場操縦のような不公正な取引を見つけ出すための売買審査業務に注力している。東証市場の売買審査を行っている日本取引所自主規制法人では、すでに不公正取引の疑いがある取引を一定の基準で抽出する審査システムを使って業務をしており、これまでも業務にITを積極的に取り入れてきた。しかし「売買審査の現場ではより新しい技術を導入する強いニーズがあった」というのは、日本取引所自主規制法人 売買審査部の渡辺隆氏だ。

 「証券市場を巡る環境変化、特にITの進化もあり、証券市場への注文は増加の一途にあります。英国のEU離脱決定や米大統領選挙のような株価に大きく影響するような材料があると、日本の証券市場でも1日1億件に迫る大量の注文があります。最近では、コンピュータソフトウェアが自動的に注文を出すアルゴリズム取引も一般的になりました。テクノロジーを駆使した取引が増えてきている以上、売買審査についてもテクノロジーを駆使したシステムを用いて、より効率的に業務を行っていく必要があると感じていました」(渡辺氏)。

日本取引所自主規制法人
売買審査部
総務・企画・取引相談グループ
課長 渡辺 隆 氏

 これまでの売買審査業務は、まず既存の審査システムを利用し、膨大な取引データから一定の基準により「不公正取引に該当する可能性のある取引」を幅広く抽出する。そこから審査担当者が個別に取引状況を確認し、「初動調査」で問題がないと言い切れる取引を落とし、不公正取引の疑念の残る取引を拾い上げ「本格調査」として詳細に調査していく仕組みだ。

 「これまでの売買審査ノウハウを詰め込んでいるため、一定の基準によって抽出する既存の審査システムでも、たとえ数千万件から時に1億件に上る取引があったとしても相当な件数を絞り込むことが可能になっています。しかし、取引件数が増加すると、一定程度は抽出される件数も多くなり、審査担当者が目視で確認・分析していかなければならない負担も大きくなります。最近の取引件数の増加から、今後、一層取引件数が増加した場合には、初動調査だけでも審査担当者にとって相当な負担になることが想定されました」(渡辺氏)

 金融商品取引所には、それでも不正取引を見逃がすことはできない、という使命がある。そこで考えられたのが初動調査にAIを活用し、「疑わしさ」の評価をAIがスコアリングすることで、業務の効率化を図ることだった。

 「理想としては、本当に疑わしい取引を証券取引等監視委員会に報告するところまでAIでカバーできれば良いのですが、本格調査では初動調査より多面的に深く広範囲にわたって取引状況を把握、分析したうえで不公正取引の可能性を判断していくため、その判断がAIにできるのか懐疑的でした。また、日本の証券市場は不公正取引が横行するようなブラックマーケットではないと考えており、証券取引等監視委員会によって摘発される不公正取引の件数が多くないのも事実です。本格調査のレベルで不公正取引と判断するための学習データが少ないので、本格調査で審査担当者が行うような判断ができるまでAIに学習させることは現実的ではありませんでした。それならば発想を変えて初動調査をAIが担うことで業務を効率化できれば、審査担当者が本格調査にこれまで以上に注力できると考えたのです」(渡辺氏)

 結果、初動調査では、審査システムから抽出された取引について、AIによって「疑わしさ」を示す(例えば、不公正取引の可能性23%、87%といった)スコアを付け、審査担当者がAIのスコアを参考に審査を進めることで負担を軽減した。不公正取引を見逃さないこと、そしてできるだけ初動調査時に審査担当者の判断に近いスコアを付けることをAIの役割としたのだ。

鍵を握るデータの前処理と異なる分野の専門家の連携

 ただし、実際に業務に使えるAIができあがるまでには、もちろん多くのハードルがあった。NEC側でAIチームリーダーを務めた福田健二は、その一つが「AIの機械学習に使うデータの前処理」だったという。

 「売買審査のデータは、リレーショナル・データベースに格納されています。このデータに対して集約演算などの手法を用いて加工し、学習用データをつくる必要がありました。どの項目を、どのように加工して学習用データをつくり出せばいいのか、ここには高度な判断が求められるのです」(福田)

日本電気株式会社
金融システム開発本部
金融デジタルイノベーション技術開発室
プロジェクトディレクター/AIチームリーダー
福田 健二

 特に機械学習で用いる重要な項目である「説明変数」を設計する作業には苦労が多かった。NECのAIデータ分析エンジニア藤井俊彦も「生のデータをどのように組み合わせ、対象として予測したい値によく相関する値をつくるかには苦労がありました。ディープラーニングを活用しても、現実には学習のための前処理を完全に自動化できる訳ではないからです」という。

日本電気株式会社
金融システム開発本部
金融デジタルイノベーション技術開発室
AIデータ分析エンジニア
藤井 俊彦

 福田も「ディープラーニングのエンジンはたくさん出ています。ですが、AIの特性をわかっている人間が『どのように学習させるか』をうまく設計しないとAIは育たない」と語る。業務で蓄積されたデータを何も考えずに機械学習に放り込めば勝手に学習してくれるという訳にはいかない。コンサルティングとデータサイエンスの両方の領域にまたがるような高度な知識を連携させなければならないのだ。

 その点では、ベンダーと現場の異なる分野の専門家同士をうまく連携させることも重要だったと語るのは東京証券取引所 IT開発部の鹿島 裕氏だ。
「業務部門と技術者では、それぞれの文化や用語が大きく違います。業務部門である売買審査部と、技術力を持っているベンダーの担当者をつなげるには、用語を合わせるところから始めなければなりませんでした。例えば、AIの有効性を示す指標を設定する仕事一つをとっても、“AIで何ができれば業務に有効なのか”という基本的な点で業務と技術、それぞれの意見をうまく噛み合わせないとAI活用は前に進みません」(鹿島氏)。

株式会社東京証券取引所
IT開発部 情報システム担当
調査役 鹿島 裕 氏

 業務部門の立場で参加した渡辺氏も、「仲介役になる鹿島氏がいなければ、『AIは使えないね』で終わっていたかもしれない」と振り返る。昨今、多くの企業でAI 活用が進められているが、失敗事例も多いようだ。そこには、「AI はなんでもできる。AIが自動的に学習して賢くなっていく」という誤解が一つの原因であることが多い。AIの得意不得意をプロジェクトメンバーで共有する。地道なことであるが、ここがAIを活用したシステム構築の成功と失敗の一つの分かれ目となる。

今後は「説明可能なAI」も視野に

 今回構築したAIは2018年3月より本稼働に入り、現場の業務に活用している。さらに、渡辺氏は今後より精緻な売買審査の実現を図りたいとする。
「これまでのAIへの学習成果もあり、現在でも、初動調査でAI が出したスコアは、熟練した審査担当者が分析した結果と乖離はありません。ただ、AIが出すスコアにはまだ幅があるので、引き続き、AIへの学習を継続していくことで、例えばAIが不公正取引の可能性が10%以下の場合、段階的に20%以下、30%以下……はもう担当者による確認は不要といった形にまで持っていければと思います」(渡辺氏)。

AIの使い方については「業務にいかに溶け込ませるかがポイント」と福田も説明する。人間と一緒に仕事をしながらAIがだんだん賢くなっていき、人間をより良く支援できるようになっていく──そのようにイメージするとわかりやすいだろう。

AIを活用した売買審査業務の様子

 また逆に、AI が導き出した結果の中には、人がこれまで気が付かなかった観点もあるかもしれない。そうした新たな観点を業務にフィードバックしていくことも視野に入れていきたいとする。そのために期待しているのがNECのホワイトボックス型AI「異種混合学習」のテクノロジーだ。

 「今のディープラーニングには、AIが下した判断の理由を説明できないという課題があります。ホワイトボックス型AIは、『そのスコアをどのような計算式で導いたのか』がわかるので判断の根拠を確認するには適しています」(福田)。このような取り組みにより、「公平公正な社会をつくるためにAIを活用することに貢献できれば嬉しい」と福田は語る。

 日本取引所グループでのAI導入は、業務部門、IT部門、ITベンダーのそれぞれにとって大きな挑戦だったが、異なる分野の専門家の知識を組み合わせることで本稼働に至ることができた。人間を支援するAIを、人間の知恵でつくる──これが実社会で使われつつあるAIの実際の姿といえるだろう。

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