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2017年01月23日

巨大損保グループが大規模な改革に成功した理由とは
──東京海上日動火災保険の「抜本改革」とその後の動きを追う

 東京海上日動火災保険が商品、事務、システムの根本的な変革を目指した「抜本改革」をスタートさせたのは2004年のことである。損害保険業界の雄は、その改革によって何を目指したのか。また、全社を巻き込んだこの大規模な改革に成功した要因とは何か──。巨大損保グループの変革の足跡と、「改革後」の動きを追う。

「三位一体」の根本的な変革を目指す

 「金融ビッグバン」と呼ばれる大規模な金融制度改革が始まったのは1996年のことである。その後2001年まで続いたこの改革によって、損害保険業界は大きな変化を余儀なくされることとなった。最も大きなインパクトの一つは、保険料の自由化だった。それまでほぼ横並びに近かった保険商品の価格を自由に設定することが可能になり、各社とも価格競争と新商品開発にしのぎを削ることとなった。

 「結果として、商品のラインナップや保険料の払い込みの仕組みが非常に複雑化することになりました。お客さまもご自身が加入している商品の内容がよくわからないということも珍しくありませんでした」

 そう振り返るのは、東京海上日動火災保険のビジネスプロセス改革部長、桑原茂雄氏である。当時、同社の商品の種類は約300、保険契約料の払い込みの方法は50パターンにも上ったという。

 「加えて、システムも老朽化していました。1982年に開発してから“増改築”を繰り返してきた結果、建て増しを重ねた老舗旅館のように、元の形がまったくわからない状態になっていました」

東京海上日動火災保険
ビジネスプロセス改革部長
桑原 茂雄氏

 最大の問題は、商品や払い込み方法の複雑さやシステムの使い勝手の悪さが、事務オペレーションの非効率化に直結していたことだ。仕事の効率が悪化し、ミスが増え、社内にも、顧客との直接の窓口となる保険代理店側にも疲弊感が蔓延していた。何らかの改革が必要なのは誰の目にも明らかだった。

 商品、事務、システムの三位一体の大幅な変革を目指す「抜本改革」と呼ばれる全社的なプロジェクトが立ち上がったのは、2003年12月のことだ。組織横断的な機能をもつ「抜本改革推進部」も新たに立ち上げられ、翌年の頭から本格的な改革がスタートした。

 しかし、改革を進めるのは簡単ではなかった。組織構成はもとより縦割りで、商品ごとに取り扱いのルールも異なる。現場の社員たちは、そのルールに慣れてしまっている。改革を進めるには、各部門の社員たちを個別に説得していくほかなかったが、改革の費用対効果が必ずしもプラスになると明言できないケースも少なくはなかった。

 「最初は喧嘩ばかりだった」(桑原氏)コミュニケーションが、徐々にうまくいきはじめたのは、「部分最適ではなく、全体最適を徹底する。改革全体の方向性がすべてに優先される」という方針を明確にしてからだ。

キーワードは「シンプル」と「代理店中心」

 改革全体の方向性を示すキーワードの一つが「シンプル」だった。商品や事務作業をあくまでシンプルでわかりやすい形に変える。それが、社員のためになり、代理店のためになり、顧客のためになり、結果的に契約の伸びにつながる──。その方針を貫くことで、徐々に改革への理解が広まっていった。

 一方、システム改革のキーワードは「代理店中心」だった。顧客に最も近い代理店が使いやすいシステムをつくることで顧客満足度を上げることができると考えたからだ。そのために必要とされたのは、プロジェクトマネジメントへの本格的な取り組みだった。代理店が何に困っていて、どのような仕組みがあれば効率が上がるかといったポイントを徹底的に洗い出し、要件定義を行う。それをもとに、システムの構想を練り、計画を立て、設計を行う──。

 「各部門とのコミュニケーションとプロジェクトマネジメント。今振り返れば、その2つが抜本改革における最も重要なポイントであり、また最も困難な作業だったと思います」

 社内に経験の蓄積があまりなかったプロジェクトマネジメントが結果的にうまくいったのは、「アプリケーションオーナー制度」、つまり、システムのユーザーである各部門の社員が自らシステム開発に取り組む仕組みをつくったのが功を奏したからだ。自分たちにとって最も使いやすいシステムをユーザー自身が考え、それに必要とされるコストも管理する。コストがかかりすぎるなら、削減方法を自ら考案する。そのようにして、システム改革を社員たちが「我が事化」したことが、改革の強力な推進力となった。

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