2019年03月26日
Next Generation Bank and Beyond Event Report
India Stack - インドが取り組む新しい公共の姿を、日本はいかに学ぶか?
黒鳥社の若林恵氏が責任編集を務めたムック「Next Generation Bank 〜次世代銀行は世界をこう変える〜」を発展させたイベント、「Next Generation Bank and Beyond」が、2月23日、東京・原宿にあるコワーキングスペースWeWork Icebergで開催された。
最後のセッションでは、インドが取り組む新しい公共インフラである「India Stack」について議論が交わされた。若林 恵氏をモデレーターに、経済産業省デジタル戦略担当企画官の瀧島 勇樹氏と、日本電気株式会社FinTech事業開発室長の岩田 太地氏がディスカッションを行った。
India Stackとは?
まず瀧島氏から、India Stackについてのプレゼンテーションが行われた。India Stackはデジタル時代に誰もがオンラインでサービスを受けられるようにするための公共インフラだ。デジタルIDや、本人確認を行う仕組み、小口決済の基盤などからなり、政府主導でインフラ構築が行われた。整備のきっかけとなったのは、特に貧困層を中心として、広い国土に分散して住む全ての国民に、政府の補助金をきちんと届けるインフラ整備が求められたからだった。国民の銀行口座取得の促進、最も素早く人々がオンラインにアクセスできる携帯電話の普及があわせて進められた。
2014年に本格的な取り組みが始まり、2018年までに12億人がデジタルIDを取得、認証は月間10億件、決済は1日に3億件行われるまでになった。短期間のうちに、例を見ない爆発的な普及を遂げている。India Stackの出発点は、「広い国土に分散して住む全ての国民、特に貧困層に政府の補助金をきちんと届ける」という点にあった。不正や非効率によって各人が実際に手にできる金額は予算額の半分に過ぎなかったところ、Stackを通じて政府がダイレクトに受給資格がある個人に確実に届けることで問題解決を目指した。
India Stackでは、デジタルIDの付与、個人の認証、決済、データ共有など複数のレイヤーから構成されるシステム構造全体の設計図(アーキテクチャ)を整理し、サービス提供のプロセスを整えた。多くの人に設計図やプロセスを理解し共有することで、中央政府に限らず各州政府、各省、ITベンダーなどさまざまなアクターが協働し、誰もが使えるプラットフォームとすることができた。
同時に、India Stackは民間のビジネスにも開放された。特に、本人確認のプロセスは非常に煩雑であり、金融・通信等の民間サービスを個人に届けるにあたって大きなコストとなっていたが、こうしたプロセスが公的な仕組みで安価にできるようにしたことで民間サービスの供給の限界費用を下げた。貧困層にサービスが広がるきっかけとなり、新たな成長基盤となった点が画期的である
「India Stackを軸にして、さまざまなプレイヤーが新しいサービスを始めています。India Stackは米Googleも、中国アリペイも、地元の金融機関も、スタートアップも等しく利用する基盤となり、特定のプラットフォーマーに依存しない自由かつ公平なデジタルビジネス環境を整備し、新しいイノベーションのエコシステムを実現しました。政府の側でサービスデザインをしている視点で見ると、これまでリアルの世界で行われてきた補助金の提供というある種の再分配政策をデジタル世界で再構築したことで、GtoC(Goverment to Consumer)のサービス変革に成功し、これを解放することで、さらにはGtoBtoC(Government to Business to Consumer)のサービスなど民間の世界にも広がっています。インドは自分たちなりの新しいデジタル公共財を通じて、新しいオープンで民主的なガバナンスモデルを作り上げようとしています」(瀧島氏)
社会をバグ修正しながら創る
若林氏は、India Stackの成立について、「もともとインフラや制度が整っていなかったから成立したのではないか」と疑問を投げかけた。その上で、いかにして日本の公共が、India Stackから学びを得るかと問いかけた。
瀧島氏は、「まず重要なこととして、公共財の提供が、政府によって独占されるものだ」というのはデジタル時代において間違った概念だと釘を刺した。
「社会課題の解決だからといって、政府自ら事業主体となることではないのです。まず、このプロジェクトは政府がデジタルインディアというイニシアティブに基づいて後押ししながら、プロボノからなる民間の非営利団体iSpirt(アイスピリット)によってその多くが設計されています。また、”全国民13億人にサービスを届け、社会的弱者も含むあらゆる人を巻き込んで国全体が成長する”、”このために、社会で必要だがマーケットで供給されていないサービスの供給がなされるよう、IDや決済基盤といったデジタル公共財を提供し、それによって民間のサービス供給を増やす”という哲学があり、こうした思想に基づいて一貫してITシステムがデザインされているのです」(瀧島氏)
結果として、農村の人にまで、携帯電話や銀行口座が行き渡り、さまざまなファイナンシャルインクルージョンが実現し、携帯電話を使った小口決済は日本よりも頻繁に使われている。岩田氏もNECとしてIndia Stackに関わっており、その開発手法に驚かされているという。
「最初からキレイなモノを作るのではなく、まず作って、システムも精度もどんどんバグ修正をしているのです。個人データ活用への同意についてが最も新しい部分になりますが、発想は人間がもっと関与して、データに向き合うべきという思想です。しかし農村で難しい事も分かっているため、そのバグを潰そうと取り組んでいます。例えばヘルスケアでは、電子カルテは自分のもので、合意すれば公共セクターが活用して良いことになります。国は、どうすれば国民の同意を取れるかを考えながら、地域ごとに投資をし、国全体のウェルネス向上の目的を達成できるかを考えるのです」(岩田氏)
瀧島氏は、日本の場合、社会課題に対して解決をしようという制度をつくろうとしても、問題点が指摘されるとこれがすべて解決するまで物事が動かないということがありがちだが、インドでは、問題があることを前提に、解決策を走らせてから修正して行くという全く異なるスタイルだ、と指摘する。例えば、インドではIndia Stackが生活の基本サービスに活用されている中、「個人のプライバシーが侵害されている」との異議を唱える声もあった。これを受け、インド最高裁は「プライバシー権は基本的権利である」「国家による干渉から個人を保護し自立した人生選択を認める権利がある」といった判断を示し、これは個人情報保護法案の検討を後押しする契機の一つになった。
「最高裁で判決を受けて対応する、バグを修正するようにより良い制度にしていくというプロセスこそ民主主義だ、社会の統治自体をアジャイルの発想でやっている、という見方もできると思います」(瀧島氏)
いかに日本にインストールするか?
若林氏は、India Stackの議論を受けて、いかに日本にインストールするか?という具体的な方策へと踏み込んだ。
日本において人口減少が今後さらに深刻化する中、公共サービスに限らずあらゆるサービスの維持が危うくなるという懸念を、瀧島氏は指摘する。銀行や医療などの我々の日常に欠かせないサービスが維持されるには、ある程度の人口規模が必要だ。例えば、国土交通省の調査によると、銀行の支店は地域の人口6500人を下回ると、維持できず消滅してしまう。介護施設は2500人、学習塾は4500人が限界値だ。要は、ある程度のサービス利用者が存在しなければ、コストばかりが嵩み、供給を維持できなくなるのだ。人口減少により、生活関連サービスを維持できなくなる地域が今後増えるという調査結果も出ている。
India Stackのようなデジタル時代の公共インフラに、解決の糸口を見出せるかもしれない。India Stackは、政府から国民へのサービスのみならず、民間サービスにおいても広く利用されているが、ポイントは民間企業がサービスを提供する際のコスト構造が変わったことだ。サービス提供に必要な認証や決済などが共通の基盤で行えるようになったことで、従来サービス供給の枠外にいた個人へのサービス供給コストが共通的に軽減され、サービスが成立するようになったのである。
過去、豊臣 秀吉も、秦の始皇帝も、戸籍や度量衡、道路や電気などの共通インフラを利用しさまざまなサービス・産業が発展したように、デジタル時代においては、デジタルIDや認証、データを活用するための制度といったデジタル公共財を整備し、サービス構造を一変することが、今後日本が直面する社会問題解決のカギになるだろう。
瀧島氏は、India Stackで展開されている民間と共働した取り組みを挙げ、日本企業がIndia Stackに参加して学びを得ることがきっかけになるとの考えを示した。あるいは日本企業が、India Stackの国際展開を目指すインドとともに、アフリカで協業する事を通じて、経験値を積むこともできるかもしれない。瀧島氏は、日本の地方でも、みんなでサービスを創り合うような領域を選んで、スモールスタートをしていきたい、と意欲的だ。
岩田氏は、NECのようなネットワーク&デジタルテクノロジーの会社が強みを生かす局面が訪れるとみている。そのときに日本の技術を生かしながら、インドとともに次世代の公共作りに役割を発揮できると考えている。
「今のインターネットはウェブで完結しているが、これからは場所や時間の管理が必要になってくる。また、政府がやらない公共を、いかに成立させるかが鍵となっていく」(岩田氏)
若林氏は最後に、日本の地方行政の危機を指摘し、今まで公共サービスは官が全てを行ってきたが、それを手放さなければならない可能性を指摘した。その上で、どんな主体が、どんな役割を担うのか、アイディアが必要になると締めくくった。官民で設計するプラットフォームの上で、やはり官民が知恵を出し合って役割分担していく。そうした環境作りからして、これからの日本に必要な要素について、インドに学ぶことが多い。India Stackの発展に注目すべき理由が、そこにあるのだ。
Text by 松村 太郎 @taromatsumura
Photographs by YURI MANABE