コンパクトシティ富山市が取り組む次の挑戦 顔認証でつくる新しい社会価値
北陸新幹線富山駅の改札を出ると、すぐ正面には路面電車の停留場が待ち構えている。駅のコンコースからフラットにつながる「LRT(次世代型路面電車システム)」は、2002年からコンパクトシティ政策を推進してきた富山市を象徴する風景だ。LRTは低騒音・バリアフリー化を実現した低床車両の交通システムで、富山駅を中心に全長約15.2kmにも及ぶネットワークが形成されている。富山市では公設民営の考え方に基づいて導入が進み、2020年3月には市が長年目標としてかかげてきた富山駅の南北をつなぐ直通運転がついに開通した。
コンパクトシティとは、来たるべき高齢化と人口減少に伴い、車社会を中心とした拡散型の発展を脱却して中心部への機能集中をめざす施策だ。富山市では公共交通沿線の住居取得時には補助金を出すなどして積極的な策を打ち続けてきた。
公共交通網をはじめとしたフィジカルなインフラ整備を一定程度達成した富山市では現在、ネクストステージとしてICTを活かしたスマートシティ化に取り組んでいる。将来的な行政機能の人材不足を見据えた効率化と先進技術による街の魅力づくりが目的だ。市全域にLPWAネットワークを構築してデータをオープン化するほか、自動運転車の走行を見据えて市道の白線を引き直すなどの先駆的な対応を積極的に進めている。
そんな富山市が新たな施策として2020年10月1日から取り組んでいるのが顔認証システムの社会実験だ。ユーザーがスマートフォンで顔写真とクレジットカード情報を登録すると、駅に設置されたサイネージでウェルカムメッセージが表示されるほか、専用端末が設置された市内の30店舗で顔認証決済を行うことができる。市の観光政策課が中心となって、昨年度から準備を進めてきた。しかし、なぜ市の観光政策課が主体となって顔認証決済の導入に取り組むのか。その理由とねらいについて詳しく話を聞いた。
地元に愛される店舗と連携して「暮らし」の魅力を発信
「金沢や高山などの近隣観光都市と比べると、富山市の中心部は空襲を受けたため歴史的な街並みが少ないのです。先進的で新しい魅力を打ち出していくことは、市の対外的な魅力を高めていくためにも、市内で暮らす住民の誇りや愛着を培うためにも重要なことだと考えています。」と語るのは、富山市観光政策課で戦略係長を務める土田 香織氏だ。顔認証決済端末の導入店舗との交渉にも第一線で取り組んできた。
「そのためにも日本国内でも珍しい顔認証システムの導入は市の魅力づくりの一つとして有効であると考えました。顔認証を軸とした先進的な市民生活やおもてなしを確立することで、近隣の観光地をめざしていた観光客が面白そうだからということで足を運んでくれるかもしれない。そういう誘客効果も見込んでいます。」
事実、この社会実験開始時にはテレビや新聞などのマスコミでも取り上げられて大きな注目を浴びた。「しかし」と土田氏はつづける。
「もちろん顔認証決済という物珍しさだけで観光の魅力を格段に引き上げることができるとは思っていません。そこで、顔認証決済を市内の魅力的な店舗に導入していただき、広く紹介するという施策を講じています。
私は、以前から観光とは暮らしのお裾分けだと考えてきました。観光用に目を引く名物を整備するテーマパークのような観光推進も良いですが、観光で訪れて本当に感動するのは、その土地の暮らし方や考え方に触れたときではないでしょうか。嬉しいことに、富山市は「住み続けたい街ランキング2020(注1)」で1位に輝くことができました。やはり富山市に来てくださる方には、地元の方にも愛されている個性豊かなお店をご利用いただきたい。そこでのコミュニケーションや地元の暮らしや考え方を感じることこそが、富山市らしい大きな観光資源になると考えています。」
富山市が発行した顔認証システムのパンフレットには端末を導入した店舗紹介が並び、魅力的な料理や物産の写真、ホテルや水上ライン・美術館といった観光のモデルコースが掲載されている。顔認証システムというトピックを入口として、観光と店舗の周遊を促進する構造をつくりあげていた。
- 注1: 生活ガイド.comによる調査「全国住み続けたい街ランキング2020」
決済データの可視化によって、観光施策を合理化
本プロジェクトの立ち上げに取り組んできた観光政策課 副主幹の石黒 智一氏は「データによる観光実態の可視化も大きな目的です」と語る。
「顔認証システムを市が率先して導入することで、どれだけの人が、どの店舗でどれだけの金額をお支払いされたかというデータが見えてきます。これによって、従来は経験や勘で推定していた観光客の動線や心理を検証することができます。データの可視化によって、もしかしたら全く新しい知見が得られるかもしれません。観光のモデルコースをより効果的に組み直すこともできるでしょうし、まったく新しい発想での施策が必要になる可能性さえあります。データに基づいた合理的な施策を図れることは、大きなメリットですね。」
データの可視化といっても、個人情報をそのまま利用するわけではない。顔認証で取得したデータはNECのクラウドデータセンターによって国内最高レベルのセキュアな環境で厳重に保持・管理され、個人を特定できない形に変換される。そのうえで、利用者の周遊動向分析などの目的に限り富山市とNECが協力してデータを検証していく仕組みだ。石黒氏はさらに続ける。
「この社会実験を通じて、民間の事業者様のなかでも新たな活用方法などのイノベーションが生まれることを期待しています。また、図らずもCOVID-19の感染拡大によりタッチレス化への需要が増しています。昨年度から先んじて顔認証決済に取り組んできたことは他の都市をリードするという意味でも功を奏したといえるかもしれません。もし今後、国際会議などの各種コンベンション開催が回復していくようなことがあれば、来場者の皆様には駅から降りたあとは財布もクレジットカードも出さず、海外からのお客様には外貨両替さえもせずに顔認証だけで快適に滞在できるという体験をご提供できれば面白いですよね。他の土地ではできない新しい価値を創っていきたいと思っています。」
決済端末導入店舗との共創で生み出す新しい価値
富山城と向かい合い、富山国際会議場の隣に建つANAクラウンプラザホテル富山は、今回の顔認証決済社会実験に参加した事業者の一つだ。皇室の方々もご宿泊されるほどの高い信頼と格式を誇る。
「地域をリードするホテルとして、さらに新しいことに挑戦していきたいと考えていたところに富山市様からご提案をいただきました。COVID-19の感染拡大も始まっていた時期だったので、ちょうど良いタイミングでした。」と語るのは、経理支配人の川尻 康司氏だ。
「建物などのハード面での刷新には大規模な投資が必要となりますが、顔認証決済などのソフト面であれば比較的簡単に導入ができます。顔認証決済は、お客様に利便性を提供できるということはもちろん、当ホテルの先進性の訴求や感染症対策にもつながります。特に、私たちのホテルではブライダルも行っています。COVID-19が広がった現在、挙式をあげる皆様は本当に悩まれていらっしゃいますから、お客様の不安を少しでも軽減するためにも役立てられればと考えています。」
さらに、広報支配人の大塚 友美子氏は決済スピードについて語る。
「決済スピードの速さには驚いています。時間を短縮できるので、お客様とのコミュニケーションに時間を割けるのはありがたいですね。たとえば1分でご対応しなくてはいけないときに、決済に10秒かかれば50秒しかお客様とお話ができません。ところが、決済が5秒に短縮できればプラス5秒間お客様とコミュニケーションをとることができます。」
富山市における社会実験はまだ1カ月ほどしか経過していないが、顔認証決済は副次的にサービス向上という面でも効果を発揮し始めているようだ。
富山市の中心部からLRTや運河を走る水上ラインで北へ7kmほど向かうと、江戸中期から明治時代にかけての美しい街並みが残る岩瀬地区にたどりつく。当時隆盛を極めた廻船問屋の家屋や蔵は、近年では新進気鋭の食やサービスを提供する店に生まれ変わり、賑わっている。今回の社会実験では、富山市中心部とこの岩瀬地区で顔認証端末が導入された。市中心部から岩瀬地区への周遊性の向上と観光客の動線検証が目的だ。
国登録有形文化財の土蔵を改修してつくられたブルーワリー「KOBO Brew Pub」も岩瀬地区から社会実験に参加した事業者の一つだ。チェコ出身の醸造家がつくりだすクラフトビールを併設されたパブで飲むことができる。店長のボリス・プリソエル氏は決済フローの手軽さについて言及した。
「顔だけでスムーズに決済ができるのが良いですね。当店は一杯購入されるごとにお会計が必要なキャッシュオンスタイルなので、決済がスムーズにできないと支払いに行列ができてしまいますから。カードに比べると、まったく手間がかからないので便利ですね。」
また、自身も顔認証決済を使っていると答えたのは醸造家のジリ・コティネック氏だ。
「家が近いので、休日には手ぶらでビールを飲みに来ています。私はスマートフォンを使っていないので、QRコード決済もできませんから。顔認証登録にはスマートフォンが必要ですが、妻にスマートフォンで登録してもらいました。」と言って笑う。
「カウンターに置かれた顔認証の端末を見て、これ何?と聞いてくるお客さんもいます。教えてあげると、その場で登録して次のお酒は顔認証決済で支払ってくれたりする。便利ですよ。」
富山市ではいま、市が示す力強いビジョンのもとに地元事業者が積極的に参画し、官民が一体となって市民や観光客へ他では体験できない新しい価値を創り上げようとしている。現在は社会実験として30店舗に絞って実証を開始したばかりだが、市には早くも複数の事業者から新たに参加できないかという問い合わせがきているという。
水上ラインが走る運河沿いを案内をしながら、富山市の土田氏はこう話した。
「じつは、水上ラインもはじめは富山市の社会実験として始まりました。私が携わった仕事です。いまでは本数も増えて観光に欠かせない存在になっていますが、実験開始当初はここまでになるとは思っていませんでした。いつか子どもが大きくなったときには、顔認証決済が当たり前になっていて、お母さんが立ち上げに携わったんだよと言いたいなと思っているんです。」
残りの実験期間を経て、今後どのような価値や課題が見えていくのか。今後の展開が期待される。