「新型コロナウイルス」のワクチン開発に乗り出したNECの新たな挑戦
新型コロナウイルスがもたらしたパンデミックにより、世界は未曾有の危機に直面している。そんな中、NECではAI創薬の一環として、新型コロナウイルスに対するワクチンの研究が草の根でスタート。2020年4月、AIによる新型コロナウイルスの遺伝子解析の結果が公開された。今回の取り組みは、同社が20年来、がんワクチンの創薬事業で培ったノウハウを転用したものだ。NECはなぜ、新型コロナウイルスのワクチン開発に乗り出したのか。その経緯と開発状況について、AI創薬のキーパーソンたちに話を聞いた。
がんワクチン開発のノウハウを感染症ワクチンに転用
2019年12月に最初の症例が確認されて以来、世界中で猛威を振るっている新型コロナウイルス。全世界の感染者数は500万人超、死者数は30万人超に及び(2020年5月22日現在)、いまだ終息の兆しを見せない。パンデミックは社会・経済に甚大な影響をもたらし、医療崩壊も深刻化。まさに、人類の存亡をかけた闘いが、地球規模で繰り広げられている。
こうした中、NECは4月23日に、新型コロナウイルスワクチンの開発の概要設計が完了したことを発表。AI創薬のノウハウを結集するとともに、開発パートナー探しを行い、新型コロナウイルスのワクチン開発に乗り出すことを明らかにした。
AI創薬事業部を率いる北村 哲は、その背景をこう説明する。
「NECは、2017年に『AI技術を活用して、がん・感染症・自己免疫疾患に特化した先進的免疫治療法を実現する』というミッションを掲げました。2018年にはフランスのTransgene社と提携して、個別化がんワクチンの共同開発・共同治験準備に着手。今年1月からは治験に患者さんが登録され始めました。このがんワクチン開発で使われているのが、当社のAIツールを用いた先進的な免疫反応予測技術です。このような免疫関連の創薬技術を転用することにより、今回の新型コロナウイルスワクチンの設計が実現したわけです」
個別化がんワクチンの開発に当たっては、NECが個々の患者のゲノムデータをAIで解析。免疫治療の標的となるがんの抗原(免疫細胞が体の異物として認識して攻撃する対象)を選び出し、ワクチンの設計図を作成する。この設計図を基に、Transgene社がワクチンを合成して患者に投与する、という流れだ。
とはいうものの、がんと感染症では病気の性質が全く異なる。なぜ、NECが感染症のワクチンを設計することができたのか。その理由について北村はこう説明する。
「NECが採用する方式は、基本的にはがんワクチンと感染症ワクチンが、同じメカニズムで成り立っているためです。両方ともT細胞(免疫細胞の一種)を活性化して、異常細胞を攻撃させます。T細胞の攻撃対象が『ウイルスに感染した細胞か、がん細胞か』という違いがあるだけなのです」
つまり、NECが個別化がんワクチンの開発を通じて、抗原選択の技術を磨いてきたことが今回、ダイレクトに活用できたわけだ。
「当社は個別化がんワクチンの治験を通じて、『患者さんごとにゲノム解析を行い、一人ひとりに最適な抗原を選び出す』という課題に取り組んできました。そこで得たノウハウは、新型コロナウイルスのワクチン開発でもフルに活用されています。感染症ワクチンでは、『ゲノム解析の対象が、人ではなくウイルスになる』という違いはありますが、抗原選択の技術自体は転用することができる。がんと感染症の違いはあっても、『AIを活用したゲノム解析と抗原選択』という免疫関連の創薬のノウハウは横展開できるということを、今回の取り組みで検証できたと考えています」と北村は話す。
国境を越え、草の根で各分野のスペシャリストが結集
NECの中で新型コロナウイルスについての議論が始まったのは、3月にさかのぼる。
3月初め、北村は、前年7月に買収したノルウェーのバイオテクノロジー企業、OncoImmunity AS社のオスロ本社を訪れていた。同社は生物学に関する豊富な知識をベースにNECと同様の免疫反応予測技術を有している企業で、現在、NECの保有する先進AI技術を含めて技術統合を行っている。今回の新型コロナワクチン開発の中心メンバーだ。
現地では、それまでも「新型コロナウイルスのワクチン設計はしないのか」という話が雑談の中で出ていたが、当時、NECのAI創薬はがんに特化しており、感染症は専門外。感染症ワクチンの開発は、理論的には実現可能であったとしても、アイデアの域を超えるものではなかった。
その折も折、イタリアで感染爆発が発生。コロナ禍は、瞬く間に全世界を席巻しつつあった。「自分たちにも、新型コロナウイルス対策に何か貢献できないだろうか」。危機感を強めたOncoImmunity AS社のメンバーから「こういう技術を使えば新型コロナウイルスのワクチンは作れる」という提案があり、北村も「やろうじゃないか」と覚悟を決めた。
プロジェクト開始時には、ノルウェーをはじめとして多くのヨーロッパの都市がロックダウンに入っていた。このため、プロジェクトの調整やコミュニケーションにいくつもの課題があったが、プロジェクトの成果を共有・議論し、次のステップや活動を計画するために、ビデオ会議ソフトを使った定期的なプロジェクトミーティングを実施。長時間の勤務の中、プロジェクトを軌道に乗せる努力を惜しまなかったという。
たまたま時期を同じくして、ドイツ・ハイデルベルクのNEC欧州研究所でも、西原 基夫CTOの肝煎りで、AIによる新型コロナウイルスのゲノムデータ解析が始まっていた。こうして、NECグループの世界3拠点がつながり、有志による新型コロナウイルス研究チームが発足。現地のメンバーから、「この病気から人々を守るためのお手伝いをしたい」という並々ならぬ強い熱意が伝わってきたという。免疫学や生命情報科学、AI、ゲノム解析など各分野のスペシャリストが結集し、国境を越えた草の根プロジェクトが始動したのである。
とはいえ、感染症ワクチンという未知の領域に踏み出すためには、莫大な投資が必要となる。当初は、「NEC本来の特化領域である、がんワクチンにリソースを集中させるべきではないか」との懸念の声も上がった。
だが、「新型コロナウイルスに対する免疫活性化の手法は、がん免疫の世界にも通じるものがある。新型コロナウイルスワクチンの開発を通じて設計思想を確立し、実績として示すことができれば、がんワクチンの事業にも必ずやプラスに働くはずです」。北村は、こう経営層に熱弁した上で、製薬企業などパートナーとの共創により、コストを最適化する道筋も示した。技術・コストの両面で実現可能性が担保されれば、もとより「NECの技術を通じて世界に貢献する」ことに異論などあろうはずがない。
北村らの訴えは、経営層にも響いた。話を聞いた、会長・社長をはじめとした経営陣は「ぜひ、やろう!」とプロジェクトの推進を即断。NECは全社を挙げて、新型コロナウイルスのワクチン開発に乗り出す方針を固めたのである。
こうして、草の根で始まったプロジェクトは会社公認のプロジェクトとなり、Web経由で24時間体制で議論が続けられた。新型コロナウイルスワクチンの設計に向けて、AI予測技術を活用した遺伝子解析が行われ、その研究成果は4月下旬、生物医学専門の論文Webサイト「bioRxiv」で公開された。
今般の研究を事業化の観点から支援してきた山形 尚子は、こう振り返る。
「私はNECに来て2年になるのですが、正直、驚きました。この会社がグローバルに一体化して、アイデアを持ち寄り、互いに補完し合えば、こんなにすごいことが短期間で成し遂げられるのか、と。研究者がコンセプト的な論文を発表する機会は多いのですが、ワクチン開発という具体的な目標ができた途端、皆の目の色が変わってきた。臨床に近いところにかかわれるというのは、私たちにとっては大きなやりがいですから」
後発の強みを活かし、より有効なワクチンの開発を目指す
今回、NECが設計した新型コロナウイルスワクチンとは、どのようなものなのか。
ワクチンとは、免疫の仕組みを利用して感染症を予防する医薬品だ。ウイルスの一部もしくは毒性を弱めたウイルスを「抗原」として投与することで、あらかじめウイルスに対する免疫反応を作り出しておき、体外から侵入したウイルスに対して即座に対応させる仕組みである。
人間の体内にある抗原提示細胞(APC)は、体内に侵入した異物を食べて分解し、抗原として提示する。いわば、「こいつは敵だ」とマーキングして指名手配をかけ、体内をパトロールする免疫システムに対して攻撃命令を下すわけだ。すると、キラーT細胞は即座に抗原を“敵”とみなし、徹底的に破壊してしまう。
したがって、「ワクチン開発に当たっては、『キラーT細胞の攻撃目標となる目印を、いかに確実に抗原提示細胞に提示させるか』が重要なポイントです。そのために必要な特殊技術を持っていることも、NECの強みの1つといえます」と山形は語る。
とはいえ、一口にワクチン開発といっても、有効性と安全性を兼ね備えたワクチンを作ることは容易ではない。そのためには、クリアしなければならないいくつもの関門がある。そこで、NECはワクチン開発に当たり、克服すべき4つの課題をリストアップ。効果的で安全なワクチンを作るための設計手法を編み出した。
1つ目の課題は、「十分な免疫活性が期待できるかどうか」という点だ。ワクチンを開発する以上、それはウイルス感染を確実に予防できるものでなければならない。そこで、NECは、AIの予測技術を活用して「ホットスポット分析(Hotspot Analysis)」を行った。
これは、全世界で時々刻々と公開される新型コロナウイルスの膨大なゲノムデータを解析して、高い免疫活性能を持つと考えられる抗原部位(ホットスポット)を見つけ出し、より有効なワクチンを作り出す手法だ。一般に新型コロナウイルスワクチンの開発では、ウイルスの一部である「スパイクたんぱく質」が抗原として使われる。一方、NECは、新型コロナウイルスの全タンパク情報を解析することにより、ほかのたんぱく質からも複数の有望な抗原を見つけ出した。同社では、従来のスパイクたんぱく質に加えて、複数の部位を抗原として使うことで、より免疫活性の高いワクチンの開発につなげていく考えだ。
2つ目は「ウイルスの変異にどう対応するか」という点だ。ウイルスは免疫細胞からの攻撃をかわすため、常に変異と増殖を繰り返している。「地球上には既に、多くの新型コロナウイルスの亜種が存在するといわれています。もし、変異しやすい部分を抗原として使えば、免疫が作用しなくなり、ワクチンが効かなくなる恐れがあります」と山形は指摘する。
3つ目の懸念は「ワクチンが正常な細胞を攻撃しないか」という点だ。免疫反応を引き起こす抗原は、ウイルスなどの病原体だけでなく、体内の組織にも含まれている。仮に、ワクチンで採用した抗原が、脳や心臓などの重要臓器に含まれる抗原と同じような配列を持っていれば、免疫系が暴走して重篤な自己免疫疾患を引き起こしかねない。
これらの課題を解決するため、NECではワクチン設計に当たり、フィルタリング(Filtering)を実施。ウイルスの変異が多発する部位や、正常な臓器に似ている配列を洗い出し、抗原から除外した。
「この方法なら、ウイルスの変異の影響を最小限にとどめ、副作用も少ないワクチンをつくれる可能性があります。抗原をフィルターにかけることで、できるだけ長く効果が持続するワクチンをつくりたいと考えています」(北村)
そして最後の4つ目は「世界中で適用できる、十分な人口カバー率があるのか」という点だ。
NECが開発しようとするタイプのワクチンは、「白血球の型が合わないと機能しない」という特徴を持つ。そこで、NECでは、全人類の主要100種の白血球型をカバーできるようにワクチンを設計。高度な計算手法による人口分析(Population Analysis)を行うことで、複数の有望なホットスポットの中から、最も人口カバー率の高い組み合わせを割り出した。
「NECの新型コロナウイルスワクチンの特徴は、効果的に免疫を獲得できるだけでなく、ウイルスの変異に強くて長く効き、自分自身を攻撃する可能性が低く、人口カバー率を最大化できるという点にあります。当社では数千種類の新型コロナウイルスのゲノムデータを解析した結果、ウイルスのどの部分が変異しやすいのか、あるいは変異しにくいのか、おおよその目途はついています。NECは、新型コロナウイルスのワクチン開発では後発ですが、その分、先行メーカーにはない強みもある。それは、パンデミック後に発生した膨大な変異の情報を、ワクチンの設計にふんだんに取り込めるということです。この後発ならではの強みを活かし、より有効なワクチンを開発していきたいと考えています」(北村)
感染症の克服という世界的な課題解決に貢献したい
今後は、論文で提示した抗原の有効性について検証を重ねつつ、パートナー候補の探索を進め、協業の可能性を模索。「国内外の製薬会社に対して提案活動をしています。一日も早いワクチンの実用化に向けて全力を尽くしたい」と、北村は抱負を述べる。
現在、米国や中国を筆頭に、世界的な製薬企業や研究機関が新型コロナウイルスワクチン開発にしのぎを削っている。そんな中、NECはこの分野で、どのような存在感を発揮していくのか。
「世界人口の7割が、新型コロナウイルスに感染する可能性があるといわれています。海外主導のワクチンに頼っていては、日本にいつ、どれだけのワクチンが割り当てられるかは保証の限りではありません。『日本の優先順位を落とさない』ことも、NECの重要な使命だと考えています」
新型コロナウイルスが猛威を振るい続ける中、世界の誰もが有効なワクチンの開発を待ち望んでいる。その本丸に切り込めるような、挑戦しがいのある仕事はそうはない、と北村は言う。
「地球上には膨大な種類の感染症があります。その中には、今なおワクチンが存在しないものも多い。その意味でも、今後は新型コロナウイルス以外の感染症ワクチンにも研究を広げていきたいですね。NECの力を結集して、感染症の克服という世界的な課題解決のために、ぜひ貢献していきたいと思います」