生活習慣病に悩む人々を救いたい!インドで芽吹く健康への道
1990年代以降の経済成長により、インドはアジア第3位の経済大国となった。その一方で、経済発展とともに生活習慣病が急増し、ヘルスケア施策の充実が喫緊の課題となっている。
こうした中、インドのビハール州はNEC、NEC Technologies Indiaとともに、予防医療分野での協業をスタート。生活習慣病の予防を目的とした健康診断サービスの本格展開に向けて、実証実験を行った。その取り組みの概要やそこに懸ける想いについて、今回のプロジェクトを率いた日印両国のキーパーソンから話を聞いた。
経済の急成長により世界第2位の「糖尿病大国」に
13.5億人という世界第2位の人口を背景に、急速な経済成長を遂げつつある新興国インド。世界有数の巨大市場として、国際社会での存在感は高まる一方だ。
一方で、健康という側面に目を転じると、経済成長の負の側面ともいえる事態が進行している。世界全体でみると、糖尿病患者の伸び率は北米が33%、欧州が15%の割合で増加するといわれている。一方、インドは74%と伸び率が非常に高く、世界第2位の糖尿病人口8800万人を抱えているのが実情だ。
なぜ、インドでは糖尿病患者が爆発的に増えているのか。その理由は、経済成長に伴うライフスタイルの急激な変化にある。
「インドは農村地帯の人口が多く、かつては畑仕事のような“カロリー消費型”のライフスタイルが中心でした。その後、都市化とともにライフスタイルは変化しましたが、人々は糖尿病や高血圧についての知識もないまま、カロリー過多の食生活を続けている。それが、インドで生活習慣病が増えた理由です」と、NEC Technologies India(以下、NECインディア)のPiyush Sinhaは解説する。
さらに、健康の基礎知識や予防医療という概念が普及していなかったことも、生活習慣病の増加に拍車をかけた。戦後70年をかけて経済を発展させた日本とは異なり、インドはここ10~20年で一気に経済成長を遂げた。このため、GDPこそ拡大したものの、医療や健康のインフラ整備は全く追いついていないのが実態だ。
「インドの中でも特に農村地帯は、都市と比べて、健康教育が浸透していません。軽い症状なら診療所に行かずに済ませる傾向がありますし、病気を予防するために健康診断を受けようという意識も希薄です。農村でも健康診断を受けようと思えば、ヘルスケアセンターで、ASHA(アシャ:Accredited Social Health Activists)と呼ばれる女性の公認ヘルスワーカーのサポートを受けられるのですが、一般の人々の間に『健康診断が重要だ』という基本的な知識がない、これが最大の問題です」とPiyushは言う。
このまま経済成長を続ければ、インド農村部の人々は、健康とは程遠い生活を強いられることになる。こうした現状を変えるために、何かNECとして貢献することはできないか――そうした想いを抱いたのが、後にインドで事業リーダーを務めることになるNECの安川 展之だった。
自分を成長させてくれたインドの社会課題を解決したい
安川とインドとのかかわりは、2013年に遡る。AIの研究開発に携わっていた安川は、会社の留職プログラムを利用して渡印。インドのとある社会企業で半年間を過ごした。
農村に1軒しかない日用品店に生活必需品を卸しながら、目の前で苦しむ人々を助けるため、社会課題の解決に取り組む日々。そうした日常を送るうち、周りにいる人たちの利他的な精神と情熱に徐々に心酔していき、帰国後は新規事業部門への異動を希望した。2014年にNECが「社会価値創造型」企業への転換を掲げたことも追い風となって、安川は社会課題を起点とした新規事業の立ち上げに携わることとなった。
何をテーマにしてビジネスを立ち上げようか――そう考えた時、安川の脳裏に、インドで目の当たりにした数々の忘れがたい光景がよみがえった。自分を社会人として大きく成長させてくれた、インドの社会課題を解決したい――安川はそうした想いに突き動かされたのだった。
「インド社会は人口が多くて活気がある反面、貧富の差が激しく、中間層・貧困層は苦しい生活を強いられています。インド滞在中に親しくなった友人たちは中間層が多かったのですが、彼らのご両親のほぼ全員が糖尿病などを患い、友人たちは莫大な通院費や薬代の負担に苦しんでいました。インドの人たちが健康を維持できれば、日常生活をもっと謳歌できるのに――このプロジェクトを企画したのは、そうした歯痒い想いがきっかけでした」
2018年10月にプロジェクトの構想を立ち上げ、NECインディアと連携して課題定義やソリューションの検証をスタート。安川をはじめとする日本のメンバーと、PiyushをはじめとするNECインディアのメンバーは、州政府や各機関、農村でヒアリングを重ね、現地ニーズの把握に努めた。
「私たちは農村に足を運んで、健康診断の現状や州民のニーズ、ASHAに提供できるベネフィットなどを調査し、現地の状況をしっかりと理解して提案に臨みました。また、バラナシでパイロット・プロジェクトを行い、『健康診断を行うことでどのようなデータが収集できるのか』、『住民とASHAの両方からサービスに対して良い評価が得られたこと』、『オペレーションをきちんと回すことができること』を提示。そのデータを活用することで、州政府の意思決定や保険制度にどう活かせるかという将来ビジョンも盛り込みました」と安川は振り返る。
単に健康診断というソリューションを売るだけでなく、現地調査を尽くしてニーズをしっかりと理解し、パイロットで実績を積み上げ、将来のビジョンを示す――その努力が共感を呼び、ビハール州政府はNECグループと協業して、州民の健康増進プロジェクトを発足させることを決定。こうして2020年2月10日、同州で予防医療の実証実験がスタートしたのである。
すべてのステークホルダーと対話を重ね、目標を共有するために各地を行脚
今回の実証実験の内容は、ビハール州のASHAが約5000人の家庭を訪問し、無料で健康診断を行うというもの。身長・体重・ウエスト・BMIを計測し、生活習慣についてヒアリング。そのデータを基に、糖尿病の予備軍を見つけ出し、生活習慣を改善するためのアドバイスや看護士への訪問手配、血圧・血糖値の追加測定の手配を行うなど予防医療を施すわけだ。
NECは、健康診断サービスで使うタブレットや測定機器を提供し、入力データに基づいて健康アドバイスを画面に表示するアプリケーションを開発。また、ASHAがツールを使いこなせるよう操作研修も行った。
公認ヘルスワーカーのASHAにタブレットの操作と健康診断のトレーニングを行った
「このプロジェクトの目的は2つあります。1つはインドの方々に健康になっていただくこと、そしてもう1つは社会的に苦しい状況にある農村部の女性たちに職能教育を行い、ASHAとして社会的・経済的に自立していただくことです。これまで、営利企業として社会課題に貢献しようとしても、CSR(企業の社会的責任:Corporate Social Responsibility)の域を出ない間接的な貢献にとどまり、十分なインパクトやサステナビリティを事業として生み出せないもどかしさを感じていました。そこで、このプロジェクトでは、2つの社会課題を直接的に解決し、大きなインパクトで貢献することを目指しました。それと同時に、NECとしてもデータ利活用のビジネスで経済的価値を生み出し、サステナブルなビジネスとして回していくことを重視しています」と安川は語る。
だが、新興国インドには、日本とはまた違った「お国の事情」がある。異文化の真っただ中で、国をまたがっての実証実験は、チャレンジの連続だったという。
「特に難しさを感じたのは、ステークホルダーの多さでした。今回のプロジェクトには、州政府のヘルスケア部門のトップや幹部の方、ASHAを管理する部門のリーダー、診療所の医師や看護師、健診を担当するASHA、健診を受ける州民、現地のパートナー企業など、膨大な数のステークホルダーがかかわっていました」と安川は話す。
またNECサイドでも、プロジェクトにかかわる組織は日印両国と各部署にまたがり、メンバーはその調整に奔走することとなった。ステークホルダーを訪ねては、彼らの課題感や想いを聞き取り、プロジェクトの目的を根気よく説明する。全員が同じ目標を共有できるよう、各地を行脚する日々が続いた。
女性たちの活躍により 地域で健康診断への関心が高まる
もう1つのハードルとなったのが、ヘルスケアワーカーのデジタルリテラシーの問題だった。
「健診を担当するASHAのほとんどが、デジタル教育を受けたこともなければ、スマートフォンも持っていない。訪問先では健康診断の結果をタブレットに入力するのですが、タブレットが使えなければデータ収集もできないわけです。この問題をどう克服するかが、最大のチャレンジでした」(Piyush)
そこでNECでは、デジタルリテラシーに乏しい人でも簡単に使えるよう、画像を多用したユーザフレンドリーなアプリを開発。その甲斐あって、健康診断は順調に進み、農村の人々の意識も変わり始めた。
「ASHAが戸別訪問して健康診断をしながら、食事や運動などのアドバイスをするのですが、訪問先ではとても歓迎され、ライフスタイルを変えることの重要性もよく理解してもらうことができました。一般に農村部の方々は、自分の病気のことは言いたがらないのですが、ASHAが地域の人々とよい関係を作り、親身になってアドバイスをするうちに、自分から心を開いて話してくれるようになったのです。ASHAの役割は大変重要で、彼女らは、地域の人々のマインドセットを変えていく力を持っている。定量的な効果が出るまでには、あと1~2年はかかると思いますが、非常によい結果が得られるのではないかと思っています」とPiyushは期待を込める。
一方、今回の実証実験は、ASHAの女性たちにとっても、スキルと自信を高める貴重な機会となった。「この仕事を通じて、ITスキルと生活習慣病の知識が身についた」「仕事に対するモチベーションが大いに向上した」「この仕事を通じて、地域の人々に気付きを与えることができ、自分の仕事をリスペクトすることができた」など、喜びの声が数多く寄せられた。
新型コロナウイルスの感染拡大で実証実験は中断する事態に
だが、プロジェクトの前途には思わぬ伏兵が待ち構えていた。新型コロナウイルスの影響がついにインドにも及び、本格的な感染拡大が始まったのである。インドでは今年1月に初めて感染例が報告され、3月25日にロックダウンが宣言された。ASHAが各戸を訪問することも禁じられ、実証実験は中断を余儀なくされた。
このため、当初は、4月5日までに5000人の健康診断を行う予定だったが、既に4200人の診断を終えていたこともあり、実証実験の第1段階は完了の運びとなった。6月15日に州政府に実証実験の報告を行い、レポートの最終版を納めたのは6月末のことだ。
世界最先端のヘルスケアをインドで実現したい
今回の実証実験を通じて、「州民の健康増進」と「女性の活性化」という所期の目的は達成され、その成果は州政府からも高く評価された。
「我々は、高血圧&糖尿病患者のデータベースを持っていませんが、様々な機関によって行われた研究により、ビハール州では高血圧と糖尿病の発生率が高いことがわかっています。本プロジェクトはデジタルプラットフォーム上で、これらの病気に関連したデータを収集・分析する方法を確立させてくれただけでなく、ASHAのデジタルリテラシーをたかめてくれました」(ビハール州保健局)。
それだけではない。健康診断で収集したデータを分析したところ、これまでヴェールに閉ざされていたビハール州の健康実態が、白日の下にさらされることとなった。例えば、BMI25を超えた「肥満」の人口比率はどうか、年齢や家族構成と糖尿病の発症率との関係はどうか、健康意識が特に低いと考えられる地域はどこか、住居やトイレの構造と健康状態との相関関係はどうか――多岐にわたる分析結果がダッシュボード上で可視化され、健康増進のための「傾向と対策」がくっきりと見えてきたのである。
州政府からは、「今後もNECグループとコラボレーションを行い、健康診断サービスをさらに拡大していきたい」「このデータをどのような施策に活かしていくか、これからもっと詰めていきたい」というコメントを得た。州民、ASHA、州政府、NECグループ――ステークホルダーの誰もが、今回の実証実験の結果に希望を見出し、手応えを感じている。それは、1年半にわたり奮闘を重ねたメンバーにとって、まさに望外の成果だった。
「今後は、実証実験で得たデータの利活用を進め、引き続きインド社会に貢献をしていきたい」と安川。続けて、Piyushも「現在のシステムに改善を加え、デジタルヘルスケアを人々に届けるためのデリバリーシステムを構築したい」と今後の抱負を語る。
もちろんその道のりはまだまだはるか先だが、健康データの質があがり、セキュリティやプライバシーに配慮したデリバリーシステムが実現すれば、健康データを民間の医療保険や健康食品、インドで普及が進むテレメディスン(遠隔医療)に活用していくことも可能になるだろう。
「例えば、『健康データが正常な人は保険料が安くなる』『この人にはこの健康食品が合う』『この人はこのタイミングでテレメディスンを受けるのがベスト』といった具合に、社会システムとして最適化していくことが可能です。まだ世界中のどの国も実現できていないような最新のヘルスケアを、インドで実現したいと思っています」(安川)
CSRの枠を踏み越えて、社会課題とがっぷり四つに組み、大きなインパクトを与えるような貢献がしたい――7年前、安川の心に芽吹いた想いは、インドの地で美しい蕾(つぼみ)をつけた。これから、それは大地にしっかりと根を広げ、インドの社会を一隅から変えることになるかも知れない。