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コロナ禍に産声をあげた、広島発「日本版MaaS」の可能性とは

 電車・バス・タクシー・シェアサイクルなど、出発地から目的地までの移動手段をシームレスにつなぐ「MaaS(Mobility as a Service)」への注目が高まっている。そうした中、広島電鉄は、利用者の利便性と地域内の回遊性を高めるため、紙で発行されていた「電車一日乗車券」などをスマートフォン上で容易に購入・利用できる新サービス「MOBIRY(モビリー)」の提供を開始した。これによりどんなメリットが生まれるのか。開発に携わったキーパーソンたちの話を基に、日本におけるMaaSの可能性を探っていく。

現代社会が抱える移動手段の課題を解決するMaaS

 今日本では、少子高齢化や人口減少などを背景に、地方における公共交通機関に変局が訪れている。利用者の減少や公共交通を担う運転手不足も相まって、地域住民の足となっていた鉄道やバス事業者の多くが赤字経営に陥り、路線の廃止が相次いでいるのだ。これに伴い、全国各地に公共交通の空白地域が生まれており、自動車の運転が困難になった高齢者を中心に、「移動難民」「買い物難民」も増加している。

 こうした現代社会が抱える移動手段の課題の解決策として、近年注目を集めているのがMaaSだ。MaaSはもともとマイカー依存からの脱却を目指し、フィンランドで提唱された概念で、公共交通機関やタクシー、カーシェアなどの予約・支払いを1つのアプリで行えるサービスの誕生を契機に一気に広まった経緯がある。

 日本でも、CO2削減や過疎地域の移動手段の確保、都市部の渋滞解消など、さまざまな社会課題を解決できる期待から、全国でさまざまなMaaSの取り組みが行われている。そうしたMaaS事業を進める1社が広島電鉄だ。同社は国内最多の利用者数を誇る路面電車や、県内の広域エリアをカバーする路線バス事業を展開している。

 2020年3月、広島電鉄がMaaS事業の第1弾として提供を開始したのがデジタルチケットサービス「MOBIRY」である。

 MOBIRYは、観光客の利便性向上や地域内の回遊性を高めることを目的に、これまで駅窓口で“紙”でしか買えなかった乗車券を、スマートフォンやPCのWebサイトからデジタルで購入できるようにしたもの。利用する際はスマートフォンの画面に表示されたデジタルチケットを乗務員に見せ、そのままスムースに乗り降りできる。

 「決済はクレジットカードで行い、複数人分の購入にも対応します。お客さまの幅広いニーズにお応えできるよう、広島電鉄の電車・バス・宮島フェリーをご利用いただける『広島たびパス』の24時間/48時間/72時間券を中心に、空港リムジンバスや呉・岩国・三段峡といった観光エリアのフリー券、施設入場券などを割引価格で組み合わせることができるオプション券もラインアップしています」と広島電鉄の大上 明紀氏は語る。

広島電鉄株式会社
交通政策本部 交通政策部
部長
大上 明紀 氏

観光客の利便性向上と運用効率化を図りたい

 なぜ広島電鉄はMOBIRYを開発したのか。それにはさまざまな理由があった。

 1つは観光客増加への対応だ。広島を訪問する観光客は年々増加しており、2004年までは900万人台だったのが、2018年には1336万人に増加。インバウンド(外国人観光客)も2004年の20万人から、2018年には178万人へと急激に増加している。

 宮島・嚴島神社と原爆ドームという、2つの世界文化遺産があることで知られる広島県には、ほかにも海上自衛隊の町「呉エリア」、国の特別名勝三段峡を巡る「広島県北エリア」といったたくさんの見所があり、隣の山口県にも日本を代表する木造橋の錦帯橋がある「岩国エリア」がある。

 広島電鉄では観光客向けの乗車券として、電車一日乗車券や広島たびパスなどのラインアップがあり、近年では年間20万枚を販売していた。しかし、これらは紙券のため、観光客は出発前など事前には購入ができず、広島到着後に駅などの窓口で購入するしか方法がなかった。

 「特にインバウンドのお客さまからは、駅に着いても乗車券がどこで買えるのかがわからない、大きな荷物を持ちながら窓口に並ぶのが大変、乗車券の内容も日本語で書かれておりわかりづらいといった、さまざまなご指摘がありました」と大上氏は説明する。

 紙券の場合は当然ながら、印刷や配布にコストと手間がかかる。さらに“金券”でもある乗車券は、有効期間や在庫の管理を厳密に行うことが求められており、ほかの交通事業者と相互連携しているエリア券では、後々行われる売上・利益の精算作業などでも担当者に工数がかかっていた。

 こうしたさまざまな課題を解決するため、広島電鉄は2年ほど前から紙券をデジタルチケットに置き換え、利用者の利便性と乗車券運用の効率化を実現する新たな仕組みを検討。2019年7月、システム化に向けたパートナーとしてNECを選定した。

 「NECには広島県の交通系ICカード『PASPY(パスピー)』のシステム構築やPASPYの全国相互利用への対応、さらにはほかの交通事業者も含めた共通定期券の仕組みづくりでも尽力してもらっており、そうしたノウハウの蓄積を今回のシステム構築にも活かしていただけるのではないかと考えました」と同社の石井 宏明氏はNECを選定した理由を説明する。

広島電鉄株式会社
交通政策本部 交通政策部
石井 宏明 氏

デジタルチケットならではのメリットを活かす

 ただし、MaaSへの対応は新しい取り組みとなるだけに、両社はMOBIRYのサービス設計に当たり、さまざまな工夫をこらした。

 例えば、これまでになかった時間券の発行である。広島電鉄の電車全線が乗り放題となる「広電電車 乗車券」は“1日”という曖昧な区切りではなく、観光客の旅行プランや利用開始時間によって8時間と24時間の2つのパターンを選べるようにした。実際の利用開始時から残り時間がカウントされる仕組みは、紙券では実現できないデジタルならではのメリットだ。

スマートフォンだけでデジタルチケットの購入・利用ができるMOBIRY。従来の紙券では実現できなかった「24時間券」などの時間券もラインアップし、利用者のさまざまなニーズに応える

 また電車に加えて宮島へのフェリーにも乗船可能な「広電電車 乗車乗船券(24時間)」、バスも利用できる「広島たびパス(Visit Hiroshima Tourist Pass)(24時間/48時間/72時間)」なども提供される。時間単位のフリー券のほか、高速バス路線や空港リムジン線では、片道券や往復券などの回数券も購入可能である。

 さらにスマートフォンに表示されるデジタルチケットは、常に一部のイメージ画像が動く仕様となっており、デジタルコピーによる不正利用が防止できるのも特長だ。文字表記も日本語と英語に対応し、インバウンドの利便性向上にも寄与している。

バックエンドシステムはクラウドで構築

NEC
交通・物流ソリューション事業部
主任
原田 智之

 「利用者目線に立ったユーザビリティのデザイン設計に加え、さまざまな乗車券とオプション券の組み合わせ、一部のオプションを払い戻しする際はどうするか、ほかの事業者との売上・利益配分の仕組みはどうするかなど、膨大な条件を整理するだけでもNECには大変な苦労があったと思います」と大上氏は振り返る。

 一方、システム開発を担当したNECの原田 智之は、「これまでPASPYの運用で培ってきた複数事業者間での精算ノウハウやサービスレベルの把握など、業務に対する長年の理解もあり、システム開発は想像以上にスムースに進めることができました」と語る。

 スピーディーなサービスインとアジャイルな機能改善、サービス稼働後の柔軟なスケーラビリティを確保するため、バックエンドシステムはクラウドで構築された。

MOBIRYシステムイメージ
広島電鉄のMaaSサービスは、クラウド環境にバックエンドシステムを構築し、Webアプリケーションを活用することで開発期間を短縮。検討開始からわずか9カ月でサービスインにつなげた

 「MaaSという新たな取り組みを、いち早く実現するにはクラウドベースでの開発とWebアプリケーションの組み合わせが最適だと判断しました。オンプレミスに比べて開発期間も大幅に短縮でき、検討開始から9カ月でサービスを提供することができました」とNEC の西 高宏は語る。

 サービス検討段階から、両社には将来的に利用者の動線データや観光施設の利用状況などを分析し、新たな施策やサービス開発につなげていきたいという想いがあった。最新の分析環境やほかの事業者とのシステム連携を図る上でも、クラウドの活用は当初から欠かせないポイントの1つとなっていたのである。

NEC
交通・物流ソリューション事業部
シニアエキスパート
西 高宏

マルチモーダルなMaaSソリューションの実装を目指す

 MOBIRYがサービスインした2020年3月は、折しも世界中で新型コロナウイルスの問題が顕在化したタイミングと重なってしまった。このためインバウンドの急速な減少も含め、観光客の本格的な利用には時間がかかる状況となったが、最近では徐々に利用件数が上昇傾向に転じている。

 その一方、広島電鉄以外の交通事業者や観光事業者からは、MOBIRYへの問い合わせが増えてきているという。

 「MOBIRYなら、ほかの事業者のサービスを柔軟に組み合わせたデジタルチケットを短いスパンで発売することができます。そのため当社の交通網と組みあわせた“こんなチケットを作ってもらえないか”といった要望が多く寄せられるようになりました。新規チケットの発売にかかわるコストや手間も、紙券に比べればはるかに少なく済みますので、その意味ではほかの事業者も参入しやすいオープンなプラットフォームになっていくのではないかと期待しています」(石井氏)

 広島市もMOBIRYのサービスに強い関心を持ち始めており、「今後はこのプラットフォームを活用して、地域産業や商店街なども巻き込んだ“地域おこし”の施策などにもつなげていきたい」と大上氏は期待を寄せる。

 コロナ禍においては、人手を介さずデジタルで購入・利用できるMOBIRYの特長は、そのまま「コンタクトレス・タッチレス」という新たなメリットも生み出している。利用者だけでなく窓口担当者、乗務員などの三密・非接触対策でも大きな効果を発揮していくことになるはずだ。

 さらに今後も、MOBIRYは新たなサービスの拡張を計画しているという。

 「今回のデジタルチケットサービスは、我々が構想しているMaaSの第一段階にすぎません。今後はより多くの事業者との相互連携を進めながら、経路検索やAIを活用したオンデマンド交通、シェアサイクルなど、さまざまな商業サービスとのAPI連携も推進していきます。そして観光客や地域住民の皆様のさらなる利便性向上と、交通空白地帯を埋めるマルチモーダルなMaaSソリューションの実装を目指していきます」(大上氏)

 移動に関するさまざまなサービスを、使いやすい形で一体化して提供するMaaSには、Webからの予約やキャッシュレス決済などの統合も含めた高度なシステム基盤が必要になる。また日本版MaaSでは交通だけに留まらず、日常的な買い物支援や高齢者の見守りサービスといった、地方に求められている施策も含まれていくことになるだろう。NECは今後も、広島電鉄との共創をベースに日本版MaaSのさらなる普及を推進していく。