

「人生100年時代」を元気で過ごすカギは「脳」にあり!
脳の働きを知り、若々しく保てば、人生危うからず
脳への過大なストレスから、心の病を抱える人が急増している。「人間関係でのストレスが多くて、気持ちが沈んでしまって、仕事に集中できない…」「最近、仕事に追われてしまって、いつも疲れてる」──。こうした感覚を多くの人が一度や二度、感じたことがあることだろう。その一方で、高齢化に伴う認知機能の低下は、様々な問題を引き起こしている。こうした、脳や心に関わる問題を解決するために、世界トップレベルの研究者が結集して最先端の研究開発を進めている。そのプログラムマネージャーとして全体の指揮をとる、山川義徳氏にその狙いや研究内容、将来の利用方法などについて話を聞いた。

プログラムマネージャー
山川 義徳 氏
現代社会をハッピーに生きるために、重要なカギを握る「脳」
「将来に対する唯ぼんやりとした不安」──この言葉を遺書にしたためて命を絶った、作家・芥川龍之介。この「将来に対する唯ぼんやりとした不安」を、誰もが多かれ少なかれ感じているのではないだろうか。戦後、日本はモノの豊かさを実現したが、近年はいつ起こるとわからない未曾有の災害や人口減少による先行きの見えない経済状況への不安など、心の豊かさが満たされにくい状況にある。
この不安感を払しょくし、どうハッピーに生きるか。その重要なカギを握っているのが「脳」である。というのも、心と脳は密接な関係があるからだ。将来への不安、ハードワーク、人間関係の悩みなどを脳はすべて「ストレス」として受け取る。その強いストレスが長い期間続くと、脳が正常に機能しなくなり、心が平穏を保てなくなってしまうわけだ。
脳が深く関係する問題は、心に関する話ばかりはない。2025年には国内の認知症患者が700万人を超えるといわれており、超高齢化の進行に伴う医療・介護の歪みも顕在化しつつある。
このように脳や心に起因する社会問題は、深刻化の一途をたどっている。もちろん研究者たちも、手をこまねいているだけではない。現在、日本では、世界トップレベルの脳情報研究やロボット研究が行われている。その研究成果をいち早く民生分野に応用できれば、こうした様々な問題を解決できるのではないか。こうした発想のもと、2014年、官民を挙げた大規模なプロジェクトが始動した。
それが「内閣府 革新的研究開発推進プログラム(以下、ImPACT)※」に採択された、「脳情報の可視化と制御による活力溢れる生活の実現」である。
- ※ImPACT: 革新的研究開発推進プログラム(ImPACT)とは、日本を「世界で最もイノベーションに適した国」にすることを目指し、国家プログラムとして内閣府が創設したもの。ハイリスク・ハイインパクトな研究開発をオールジャパンで推進し、産業や社会に変革をもたらすことを目的としている。
「現在、欧米では10年単位の長期間、大規模な予算を投入し、医療・軍事分野で、脳の基礎研究に取り組んでいます。これに対して、日本では脳情報をいち早く民生に応用し、世界に先駆けて産業化を実現しよう、というのがこのプログラムの狙いです」。
こう語るのは、プログラムマネージャーとして全体の指揮をとる、山川義徳氏だ。現在ImPACTでは、このアイデアを実現すべく 研究開発の推進とプラットフォーム構築に着手。日本発の脳情報産業の創出に向けてインフラ整備を進め、ベンチャーや新規事業の支援を行っていく計画だ。
「脳を生き生きと健康に保つ」ために研究開発を推進
この研究開発の目的──。それを端的に表現すれば、「脳を生き生きと健康に保つ」ことだと言えるだろう。従来、脳情報の研究は、脳や精神疾患の治療を目的として行われてきた。一方、グローバルなIT企業は、IoTやAIを駆使して脳機能を代替・補完したり、認知症患者の家族を支援したりするための研究開発を行ってきた。しかし、これらはいずれも、病気になってからのケアが目的であり、「いつまでも元気で暮らすために、脳を若々しく健康に保ちたい」という人々のニーズに応えるものではない。
そこで、山川氏は「脳の健康」をメインターゲットに設定。AI技術やロボット技術と脳科学を融合した研究開発を通じて、「脳情報の見える化とコンディショニング(制御)」を実現し、脳の健康の維持・増進に役立てることを、この研究の眼目に据えた。
現在進めている研究開発の項目は3つ。まず1つ目が、「携帯型BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)」を用いた認知機能の維持・向上だ。
携帯型BMIとは、いつでもどこでも自分の脳の状態を計測することができる、簡易型の計測器を指す。その計測結果をユーザーにリアルタイムにフィードバックすれば、脳を制御して、精神疾患の治療だけでなく、認知機能の回復にも役立てることが可能だという(ニューロフィードバック)。
「認知機能の程度を明らかにするためには、脳の状態を可視化する技術が必要です。近年の研究成果から、認知機能が高い人と低い人では脳の活動のパターンが異なることがわかってきました。また、脳の活動パターンは、1人の中でもゆらぎがあることもわかっています。そこで、実験協力者の脳の活動パターンが、高い認知機能の人と似ているときは、『今はいい状態』と教え、低い認知機能の人と似ているときには『今はよくない状態』とフィードバックする。すると、実験協力者の脳の活動パターンが、徐々に高い認知機能の人と似てきて、認知機能が向上することがわかりつつあるのです」

現在、脳情報の可視化にはMRIが用いられているが、MRIは1台当たり数億円と高価な上、利用料金も高額なため、まだまだ普及していない国も多い。しかも認知機能を向上させるためには何度となく計測する必要があるため、大掛かりな装置は不向きだ。
もし、安価かつ手軽に使える携帯BMIが実用化されれば、近い将来、血圧を測るような気軽さで脳の状態を計測できるようになる日が来るかもしれない。その意味で、携帯BMIは、脳情報産業化の鍵を握るのみならず、国際的な社会貢献という点でも有望なツールとなりそうだ。
”個性あるAI”ブレインロイドが拓く無限の可能性とは
2つ目の研究開発テーマは、「脳ロボティクス」。その目的は、脳情報とロボット技術を融合し、運動支援やストレス調節、マルチタスク能力の強化などを目指す点にある。
現在、研究開発チームが取り組んでいるのが、追加肢を使ってマルチタスク訓練を行うロボットの研究だ。脳が3本以上の手を制御する際の神経活動を明らかにし、人間がマルチタスク能力を磨くための効率的なトレーニング手法の開発を目指すという。
「近年の研究で、パソコンやテレビを見ながら長時間スマホを操作するようなマルチタスクが、脳を委縮させることが報告されています。こうしたマルチタスクと脳の委縮との因果関係は不明ですが、人間の脳が今日のIT環境の進化に追い付いていない可能性は十分にある。そこで、本来は2本の腕を制御している脳に、あえて3本の腕を制御するという負荷を与えます。こうして脳を訓練することで、効率的にマルチタスク脳を鍛え、高度化するIT環境に負けない脳を作ろう、というのが研究の目的です」(山川氏)
3つ目の研究開発テーマは、「脳ビッグデータ」だ。これは、膨大なMRIデータを用いて脳内イメージを解読する技術を確立し、”個性のあるAI”を開発しようというもの。
例えば、ある人が1枚の写真を見ながらMRIで脳の状態を計測すると、脳が一定の活動パターンを示す。そのデータを大量に収集すれば、類似した印象を与える写真を探し出すことができる。あるいは、「きれいだ」「心地よい」などの形容詞を写真に付けてデータを蓄積すると、別の写真を見たときのMRIデータから適切な形容詞を抽出することができる。
この研究成果を応用して、現在、神谷研究室では「ブレインロイド」、すなわち「自分の代わりに働いてくれる脳」の開発が進められている。
「従来のAI技術は、囲碁に勝つや売上を上げるなど明確な目的を持っているものが多いように思います。しかし、多様な個性を考えたときは、目的はもちろん、正解が1つではないケースが多い。そこで、AIにMRIデータを用いて個性を導入することを試みています。そうすることで、私がその場にいなくても、『山川ならこれを見てこう思う』というように、個人の脳を模倣したAIを作ることができる。これをヘルスケアの領域に応用すれば、私にとって『居心地がいい空間』や『リラックスできる話し相手』をブレインロイドに検索してもらうことも可能になるわけです」(山川氏)
その用途は、ストレスの予防や解消にとどまらない。例えば、偉大な故人経営者のブレインロイドに経営のアドバイスを受けたり、亡きプロ野球の名将に野球指導を受けたり、といったことも夢ではなくなる。活用の可能性はまさに無限大だが、ブレインロイドの技術はいわば両刃の剣。悪用されるリスクを回避するためにも、「どのような世界観を作って活用するかが鍵」と山川氏は言う。
民間企業と連携し、新ビジネス創出の可能性を模索
一方で、課題もないわけではない。その1つが、「脳の健康」をどう定義するかという問題だ。冒頭に触れたように、脳は心と密接なつながりを持つ。それだけに病気にならなければそれでよいというわけにはいかないのだ。
「『認知症にならない』とか『脳卒中ではない』ということはもちろん、社会科学を専門とする研究者、多くの民間企業や個人の方とお話していく中で、脳の健康に対しては、『意欲が持てる』とか『創造性が発揮できる』とか、よりポジティブな期待があることがわかってきました」と山川氏。そこで研究成果を広く民生利用することも検討しているという。
「例えば、高齢者の利用が増えつつあるフィットネスクラブに携帯型BMIを導入して身体だけでなく脳も鍛える、自動運転によって運転技能の訓練の効率化が進む自動車教習所にマルチタスク訓練ロボットを導入して運転技能に加えて脳機能のトレーニングを提供するなど、様々な利用方法が考えられます。
ただし、脳科学を使って脳の機能を高めることはエンハンスメント問題とも呼ばれ、世界的にも倫理上の課題が議論されている領域でもあります。私たちが開発した技術を使って、倫理的な課題を超えて、ぜひ新しいビジネスを一緒に作っていきたい。そして、世界に先駆けて研究開発とサービス開発を進めている日本がグローバルなリーダーシップを取っていけるようにしたいですね」(山川氏)
新規ビジネスに限らず、企業内でも様々な活用法が考えられる。例えば、社員の脳情報のパターンと実績との関係を見える化し、仕事の質を高めるための施策を考える、あるいは部署や業務内容とのマッチングを行うなど、活力ある組織を作るための参考データとすることもできるだろう。
「このプログラムを通じて脳の健康を追求し、誰もが生き生きと暮らせる社会の実現に貢献したい。高齢者のみならず、40代50代の働き盛りに向けたサービスも提供できれば、と考えています。幸い、日本は多くの場所でMRIを試せる環境があり、日本の脳情報やロボットの研究も世界トップレベルにある。この恵まれた環境を活かし、世界に先駆けて日本発の脳情報産業化を実現したい」と最後に山川氏はその意気込みを語った。

過去の経験に学び、スタートアップによる試行錯誤を自らが先導し、それを支えるオープン・プラットフォームの構築に着手。日本発で産業化を進めることにより、脳情報活用の分野で世界をリードする狙いだ。