2017年01月13日
AIによる社会価値創造
脳の「ゆらぎ」を応用した超低消費電力のコンピュータで「おもろい社会」を実現
将来のICTにはエネルギー効率に優れた新しいコンピューティング技術が求められていますが、これを解決するカギが脳の「ゆらぎ」にあるといわれています。
今回、同分野の碩学である大阪大学大学院特任教授の柳田敏雄氏と、NEC 中央研究所 主席技術主幹の加納敏行が、脳の振る舞いがAIの発展に与えるヒントについて意見を交わしました。
大阪大学大学院情報科学研究科
NECブレイン・インスパイヤード・コンピューティング協働研究所 所長
大阪大学大学院生命機能研究科 特任教授
蛍光顕微鏡、レーザートラップ顕微鏡などを用いた一分子計測の先駆者。理化学研究所生命システム研究センター センター長、脳情報通信融合研究センター 研究センター長。2016年4月より、大阪大学とNECが開設したNECブレイン・インスパイヤード・コンピューティング協働研究所の研究所長も務める。
NEC 中央研究所 主席技術主幹
専門分野は情報ネットワーク・クラウドコンピューティング。現在、技術戦略の策定に従事し、NECブレイン・インスパイヤード・コンピューティング協働研究所の副研究所長を務める。
異なる分野の研究者が連携することに意義がある
加納氏:
まずは柳田先生が所長を務める「脳情報通信融合研究センター(CiNet)」についてご紹介くださいますか。
柳田氏:
CiNetは独立行政法人 情報通信研究機構(NICT)と大阪大学に所属する研究センターで、人間の脳機能への理解を高め、知的機能を持った先端技術を開発することを目的に、2011年に活動を開始しました。2013年にCiNetの研究棟を開所して正式な組織として創設し、脳の機能に関する基礎研究を進めるとともに、情報通信技術、ブレイン・マシン・インタフェース、脳機能計測、ロボット工学などの応用研究も行っています。ここでは、約200人の研究者・大学院生が研究しています。
加納氏:
2013年の冬に、大阪大学大学院情報科学研究科の村田正幸教授から「柳田先生が脳チップを作りたいと言っているんだけど、相談に乗ってくれないか」と声を掛けられたのが、最初の接点でしたね。2016年4月には、大阪大学とNECで「NECブレイン・インスパイヤード・コンピューティング協働研究所」をCiNetの研究棟内に開設。脳型コンピューティング技術に関する共同研究を開始しました。
ちなみに、先生が脳型チップを作りたいと思ったきっかけは何だったのですか。
柳田氏:
僕はかつて大学の工学部の電気工学科に在籍し、半導体物理について勉強していました。そして一度は電子部品メーカーに就職したのですが、それから生物学の研究に移った経緯があります。というのも、当時既に半導体の基本概念が明らかにされていて、あとはいかに応用するかという段階に来ていました。だったら別の未開拓な分野の研究をしたいと考え、生物らしい働きをする脳型チップを作りたいと思ったんですね。
加納氏:
脳チップを作るのに、なぜNECをパートナーに選ばれたのでしょうか。
柳田氏:
実は僕が大学4年生のとき、インターンシップでNECの中央研究所にお世話になっておりまして、かねてより親近感があったのです。
加納氏:
でも結局、NECには入社されなかったわけですよね。
柳田氏:
そうなんです。中央研究所には非常に優秀な方が多かったのですが、淡々としていて遊びがないというか、大阪でいうなら「おもろなさそう」な感じで気が進まなかったんです(笑)。結局は僕がついていけなかっただけだったんですが、今考えてみればこれが生物学に移るきっかけになったような気もします。
加納氏:
先生から共同研究をやりませんかとお声掛けいただいたタイミングは、私も当時担当していた研究が一段落つき、さて次は何にチャレンジしようかと考えていたところでした。あのとき先生から脳チップの話を聞き、「もしかしたら脳の仕組みをコンピュータに応用できるかも」と思い、詳しくお話を伺ってみると「これはおもしろい」と。
ところで先生は、「理化学研究所生命システム研究センター(QBiC)」のセンター長でもあり、NECとの共同研究にはQBiCも参加しています。このように、CiNet、QBiC、大阪大学、NECの4者が共同で研究を進めることについて、先生はどのようにお考えですか。
柳田氏:
生物は脳や分子などで細かく分けて考えるのでなく、共通で働いている基本原理を究明する点に意味があります。それゆえ、CiNetは人間の脳、QBiCは分子や細胞、大阪大学は情報系、NECは半導体やITといったように、それぞれ研究分野が異なる研究者が連携しながらイノベーションを進めていくことに、大いに意義があると思います。
「ゆらぎ」を応用し超低消費電力のコンピュータを作る
加納氏:
先生は脳の「ゆらぎ」を前提とした生体システムを研究されていますが、半導体技術が生体に学べる点があるとしたら、どのようなことが挙げられるのでしょうか。
柳田氏:
生体システムが現在の半導体技術を使ったデジタルシステムと異なる点は、桁違いに省エネであることですね。最近話題になったコンピュータ囲碁プログラム「AlphaGO」は、25万Wの電力を使って人間に勝ちました。一方、人間の脳は20Wを消費していると言われています。これには、神経細胞を生かしておくエネルギーも含まれているので、僕らは、脳の温度をMRIを使って高分解能で計測する技術を開発し、人間の脳が休んでいるときと、ものを考えているときの消費エネルギーの差を求めました。結果は、たったの1Wでした。細胞レベルになると、わずか1pW(ピコワット)で約3万の遺伝子情報を制御して人間を成り立たせています。このように、非常に複雑なシステムを、少ないエネルギーで制御している脳や細胞のメカニズムを知ることができれば、超低消費電力のコンピュータを作る際に応用できる可能性があります。
加納氏:
そのヒントが「ゆらぎ」にあるというわけですね。
柳田氏:
そうです。コンピュータが膨大なエネルギーを必要とする1つの原因は、ノイズを遮断する必要があるためですね。1〜20Wで働く脳、1pWで働く細胞は、ノイズを遮断せずうまく利用しているのではと考えています。そもそもノイズは人間が勝手に邪魔者扱いしているだけで、生物からすれば邪魔な存在ではないのかもしれない。そこで僕らは、タンパク質1分子の動きが直接観察できる1分子ナノ計測技術を開発し、筋収縮を担うミオシンというモータータンパク質分子を観察してみました。すると、ミオシンは熱運動のゆらぎを利用して、集団で自立的に協働して働いていることが分かったんです。
加納氏:
先生が言うところの「ふらふらしている状態」ということですか。
柳田氏:
「ふらふらしている」の意味は、ある状態の中を遷移しているということです。工学的に表現すると、ゆらぎを使ってアトラクター選択を行っていると見ることができます。現在のコンピュータはすべてのデータを正確に処理して答えを出しますので、複雑になるとものすごい計算量になり、膨大なエネルギーが必要になる。
一方、生物は、脳にしても細胞にしても、要素反応はものすごく複雑です。これら要素反応を、例えばコンピュータですべて正確に制御しようとすれば、膨大な計算が必要です。例えば、大脳の神経細胞をつなぐシナプスの数は100兆くらいですから、これを01で制御するとしても、組み合わせの数は少なくとも2の100兆個となり、この組み合わせをスパコンで計算すると、原子力発電機が何百億基あっても足りません。でも、脳は1〜20Wしか使いません。要素反応のすべてを制御しているとは考えられません。ではどうしているかですが、要素反応は独立して起こっているのではなく、熱ノイズと大差ないエネルギーで起こる反応なので、ゆらぎで干渉し合い自立的に準安定な状態(アトラクター)ができる。すなわち、自発的に自由度のリダクションが起こる。この数が限られた状態をゆらぎで選択するという考えです。実際に脳の活動を計測してみると、無意識の状態からさまざまな状態を巡っていることが分かります。つまり、何もしてないときでも次の行動をする可能性があるアトラクターを準備しておき、その間をふらふらしながらフィットするアトラクターを選んでいるということです。
加納氏:
CiNetでは、こうした生体の「ゆらぎ」を利用したネットワークやロボットの応用研究も行っていますね。
柳田氏:
村田正幸教授がネットワークを制御したり、石黒浩教授が人間に近いロボットを開発したりしています。こうしたネットワークやロボットをデジタルシステムで制御しようとすると、大量の要素を制御するために10の何十乗という計算が必要になり、組み合わせ爆発が起こります。しかし、個々の要素ではなく状態を「ゆらぎ」を用いてふらふらしながらどの選択肢が正解かを考えるようになれば、少ないエネルギーでも複雑なネットワークやシステムを制御できるようになるのです。
加納氏:
大阪大学とNECが「NECブレイン・インスパイヤード・コンピューティング協働研究所」を立ち上げ、柳田先生に所長をお願いしてから数カ月が経ちました。この研究所では、先生に多くのことを勉強させていただきながら、「ゆらぎ」のメカニズムを使った新しいコンピュータシステムを作ろうとしています。ここで視野を広げるために、先生からアドバイスをいただけたら嬉しいのですが。
柳田氏:
先ほど述べましたように、素子レベルですべてを制御しようとすると、どうしても組み合わせ爆発が起こってしまうため、うまくいきません。ヒントは各素子にノイズを入れて自由にし、かつ素子間の相互作用を働かせ、限られた数の可能性(状態)を浮かび上がらせ、それを選択する仕組みです。
卑近な例で恐縮ですが、味噌汁を置いておくと対流現象でパターンができますよね。このパターンを分子レベルですべて正確に記述して制御するのではなく、境界条件や温度といったマクロなパラメータで制御しようということです。分子レベルの詳細を知らなくても、マクロな熱力学パラメータでエンジンをデザイン、制御できるというようなことですかね。
加納氏:
既存の技術では、先生が言う味噌汁をシミュレーションしようとすると、味噌の粒1つ1つに64ビットくらいのアドレスを割り当て、どこの分子が1個ぶつかったなど、理論的に計算していくしかありませんでした。そうではなくて、自律的に動いているものが群になることによって、新しい秩序が生まれるというイメージでしょうか。
柳田氏:
そうですね。更に言えば、新しい秩序が生まれる過程もまた「ゆらぎ」なのです。温度が0.1℃変わっても味噌汁のパターンが変わるように、人間がいろいろな環境変化に応じてうまく行動したり、意思決定したりしながら答えを出すことも考慮しなければなりません。ただし、脳にそれほど美しいアルゴリズムがあるとは思えないので、ディープラーニングのように意外と単純な仕組みでできる可能性もあるのではと思っています。