もしも自分の3年後の健康状態がわかったら…
~「病気はかかる前に防ぐ」が、医療の常識になる日~
高齢化の進展や生活習慣病の増加、医師不足、医療費の増大──。今、日本の医療現場は、様々な課題を抱えている。こうした中、注目されているのが「予防医療」だ。重大な疾病に罹患(りかん)したり、重症化したりする前に予防できれば、「健康寿命」を伸ばすことができる上、医療費の増大を抑えることにもつながるからだ。ここでは倉敷中央病院の取り組みを通じて、近未来の医療の在り方を紹介したい。
救える命を救えない。医療現場で残念な状況が続く理由とは
近年、医療分野における技術が急速に進化を遂げた。だが「私たちは、その進んだ医療の効果を十分に享受できていません」と断言するのは、倉敷中央病院 院長の山形 専氏だ。
「私が専門とする脳神経外科領域を例にすると、現在でも多くの患者さんが脳卒中を発症してから病院に運ばれてきます。その中には後遺症によって不自由な生活を余儀なくされたり、残念ながら亡くなってしまう患者さんもいらっしゃいます。その一方で、診断技術にはMRIや3次元画像、AIによる画像診断支援などの革新的な技術が投入され、手術技術も大きく進化しています。その結果、脳梗塞、脳出血、クモ膜下出血といった脳卒中のほとんどが早期発見による予防が可能な時代となっています。つまり、急性期で病院に運ばれてきた患者さんが、発症の1年前、あるいは3年、5年前に脳ドックを受けていれば、脳卒中の予兆を高い確率で発見でき、元気に一生を全うできていた可能性がある。重大な疾病にかかってからではなく、疾病にならないようにするために医療技術やICTを活用することこそが重要なのです」(山形氏)
なぜ、こうした”残念な状況”が続いているのか。それは「大部分の医療従事者と国民の意識が、医療保険制度改革が行われた40年前とあまり変わっていないからです」と山形氏は指摘する。
「医療従事者の多くは、目の前にいる患者さんの命を救ってあげることが医療機関の使命だという意識が強く、予防医療へのモチベーションが低いように思います。また、患者さんも健康保険の適用外になる健康診断や人間ドックに、わざわざお金をかけたくないという意識が強いのです。もし、医療費の自己負担率がもっと高ければ、ほとんどの人は疾病を予防するために積極的に検診を受けようとするはずです。しかし日本では国民皆保険制度のもと、“症状が出てから病院を訪れる”という行動をとりがちです。その結果、手遅れになる人が増加し、国の財政を圧迫し続けることになる。これを私は、健康保険制度のトラップ(罠)と呼んでいます」(山形氏)
そこで山形氏は、「診断・治療の医療」から「予防医療の充実」へのシフトと、そのための意識変革を提言する。
「予防医療を進展させるには、現代の進歩した医療技術を活用すれば、ほとんどの病気は防げるということを啓発・周知していく必要があります。国民の皆さんが『自分の命は自分で守る』、つまり健康診断や人間ドックなどの個人負担を少し増やすことで、“病気にならず健康が維持できる”という意識変革を行えば、適切な指導のもとで生活習慣を改善したり、重症化を未然に防ぐ健康寿命の延伸が可能となります。それは増大し続ける医療費の適正化や、医師不足への対応につながるのです」(山形氏)
将来の健康状態をAIでシミュレーション
こうした考えのもと、倉敷中央病院は今後の医療提供体制の中で、疾病治療と併せて予防医療に力を入れていくべきと判断。既存の「総合保健管理センター」を新築移転する形で、健康診断や人間ドックなど、保険医療の枠外の医療を提供する「予防医療プラザ」を2019年6月にオープンさせた。
「自分のいのちの未来を見よう」をコンセプトに掲げた予防医療プラザ設立への想いを、所長である菊辻󠄀 徹氏は次のように説明する。
「この施設の前身である総合保健管理センターは、年間約3万8000名の人間ドックや各種健診を行う場として機能していました。しかし近年の高齢化に伴って、受診希望者が年々増加してきたため、より充実した設備環境を整えると同時に、倉敷中央病院が進める予防医療を推進するための機能を持たせたいと考えたのです。そこで新しくなった施設では、年間約6万名の受診体制を整備するとともに、地域住民の方々にも、各種イベントを通じて健康の大切さを学び、健康寿命の延伸につなげていただくためのスペースを設けました。これにより次世代の予防医療の啓発と実践を展開していきたいです」(菊辻󠄀氏)
こうした取り組みの一環として、予防医療プラザに導入されたのが、NECの最先端AI技術群「NEC the WISE」を活用したソフトウェア「NEC 健診結果予測シミュレーション」だ。この仕組みには、多種多様なデータ(異種混合のデータ)から自動的に規則性を発見して高精度な予測ができ、さらに予測の裏付けとなる根拠がわかるAI技術「異種混合学習技術」が活用されている。
これまで蓄積されていた過去5年間、約6万人分の健康診断データ(体重、腹囲、血圧、糖代謝、脂質代謝など)と、生活習慣データ(運動、食事、飲酒など)を分析することで、生活習慣病の判定に関係の深い9種類の検査値(体重、腹囲、収縮期血圧、拡張期血圧、HbA1c、空腹時血糖、HDLコレステロール、TG、LDLコレステロール)の予測モデルを作成。それを、受診者の検診結果と照らし合わせることで、現状の生活を続けた場合の将来予測、あるいは好ましくない生活習慣を見直した場合の将来予測を3年後まで提示することが可能となった。
このAI技術の導入を決断したのは山形氏だ。
「医療では、画像診断などの領域でのAI技術の導入が注目されていますが、それを予防医療にも使うことはできないかと考えたのが始まりです。電子カルテシステムでお付き合いのあったNECに相談したところ、社内実証の事例があるとお聞きし興味を持ちました。そこで、新たに企画を進めていた予防医療プラザで、受診者や地域住民の方々に、ご自身の健康寿命延伸に興味を持っていただくためのきっかけにできないかと考えました」(山形氏)
NECは2014年から「健康経営」を目的に、NECグループ社員の定期検診データをAIで分析し、将来の健康状態を可視化する「健診結果予測シミュレーション」を開発していた。現在はNEC本社を含む複数の健康管理センターで実際に活用し、生活習慣改善に向けた保健指導やWeb経由の自己管理などで、社員の健康維持・増進に役立てている。
予防医療プラザでは同システムを、医師と保健師が活用しているという。
医師の場合は健康診断や人間ドックの受診者に、AI予測モデルをベースとした将来予測データを対面で示しながら結果説明を行う。モニターにはAIから導き出された自分の健康状態とその推移が、単なる数値ではなくビジュアルなグラフとして示されるため、保健指導の説得力とインパクトが大きく増したと好評だ。
また保健師は、メタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)の可能性が高い受診者への特定保健指導で、個人の健康リスクに応じた改善指導を行う際に活用している。
端末に受診者のデータを呼び出してAI予測が完了するまでの時間は、わずか1分程度。事前に特別な準備をしなくても、すぐにシミュレーション結果を示すことができる。
「”今”の自分の健康状態だけでなく、“将来”どうなる可能性が高いのか、生活習慣を改善するとどう変化するか、わかりやすいグラフで見せることで、その方の行動変容を今まで以上に促すことができます。これまでなら専門的な知見や経験で行ってきた保健指導に、客観的なデータがプラスされることで、一人ひとりに、より適切なアドバイスを行えるようになりました」と菊辻󠄀氏は語る。
AIが受診者と対話を深める非常に有効なツールに
現場の保健師からも評価は高い。
「個人で健康診断を申し込まれている方は、健康への意識がかなり高いのですが、企業健診などで受診される方は、あまり切実さがないせいか、保健指導を熱心に聞いてくださらない傾向がありました。今、元気な人は、病気になった状態を想像することが難しいのです。しかしグラフを示しながら『このままだと3年後には体重や血圧の数値がこんなに上昇する可能性が高いです。でもお酒の量を控えれば、これだけ数値の低下が期待できます』と具体的に説明することで自分ごと化されやすく、非常に熱心に話を聞いていただけるようになりました」と予防医療プラザ 保健師の中川 佳奈氏は語る。
同じく保健師の井上 帆澄氏も、「このAIは受診者の方々との対話を深める、非常に有効なツールになると思います。これから自分はどうなる可能性が高いのか、何を努力すれば未来の自分を変えられるのかを、画面を通してリアルに伝えやすくなりました。例えば、定年後の生活を楽しみにしておられる方に、『今のままでは血圧が心配です。毎日少しずつでも運動量を増やし、脂質を抑える食事を心がければ、定年後には元気に旅行できる日々が期待できますよ』と、ポジティブな会話につなげられるようになりました。受診者の方からも、グラフだとわかりやすいと好評です。若い人はAIということで特に関心を持っていただき、『写真を撮っていいですか』と聞かれることもあります」と笑顔を見せる。
さらに予防医療プラザ1階に設けられた「健康広場」には、画面上で簡単な問診に答えるだけで、将来の健康を予測できる「簡易シミュレーション」も設置される。受診者以外の地域住民にも、ふと立ち寄った際に健康の大切さに気付いてもらい、将来に向けた健康管理のモチベーションを向上させることが狙いだ。
生活習慣と診療データを組み合わせ10年~20年先の未来の予測を目指す
倉敷中央病院と予防医療プラザでは、これからも予防医療や健康増進に向けた幅広い取り組みを通じて、地域住民の健康維持に貢献することを目指していく。そのために検討しているのが、倉敷中央病院に蓄積されている診療データも組み合わせたAI分析だ。
「現在のシミュレーションでは、健診データを基に、3年後までの健康予測を行っています。今後はこれに病院が持つ膨大な診療データも組み合わせることで、生活習慣と診療データの関連性を検証し、対象者が5年、10年、20年先に何%の確率で、どのような疾病を発症する可能性があるという予測を行えないかと考えています。もしそれが実現できれば、予防医療から急性期医療まで一貫した体制で住民の方々の健康に寄り添い、将来を見越した行動変容と早めの医療対策につなげることができます」(菊辻󠄀氏)
膨大な診療データから、AIの力によって将来の疾患予備群を確実に拾い上げ、悪化させないための適切な介入時期、実施すべき検査の組み合わせ、適切な予防方法を割り出し、実践していく。「”マイヘルスケアプラン”といったものを作り、普及させる。そうした地域レベルでの取り組みが全国へと広がることによって、今以上に効果的な予防医療の在り方を確立していけるはずです」と山形氏は期待を込める。
生活習慣病の抑制や医療費の適正化が大きな社会課題となる中で、健康寿命を延ばすことは、医療費の適正化だけでなく、個人のQOL向上にもつながる重要なテーマだ。これからもNECは、倉敷中央病院の取り組みを、「NEC 健診結果予測シミュレーション」をはじめとする幅広い医療ICTとソリューションで支援していく。