1人でも多くの子どもが5歳の誕生日を迎えるために~指紋認証技術~
ワクチン接種を受けられない。ただそれだけで、5歳の誕生日を迎えられず、人生を終えてしまう子どもたちがいる。
適切な予防接種を受けていない子供は1990万人もいて、助かるはずの命は年間150万人にも及ぶ。
予防接種は命を守る最も大切な手段のひとつ。感染症に対する免疫がない子どもたちは、ひとたび発症すると重篤化し、死に至ってしまうことが少なくない。しかし、ワクチンさえあればよいわけではない。「どの子どもが」「どのワクチンを」「いつ接種したのか」本人確認を適切に行い、履歴管理をしなければ、接種間隔や摂取量を誤る可能性もあるからだ。NECは途上国のワクチン普及に取り組むGaviワクチンアライアンスに賛同し、指紋認証による新しい挑戦を始めている。
- (※1) https://www.gavi.org/vaccineswork/value-vaccination/health-equity
途上国に根深く残る子どものIdentity Crisisとは?
開発途上国では、今なお2000万人もの子どもが標準的なワクチンすら受けられず、命の危険にさらされている。世界中の子どもが公平にワクチンを接種できるようにしたい──。この実現に向けて活動する国際組織の1つが、Gaviワクチンアライアンス(以下 Gavi)である。
Gaviは世界の子どもたちの命と人々の健康を守ることを目的として、2000年の世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)で設立された世界同盟。各国政府、世界保健機関(WHO)、国連児童基金(UNICEF)、世界銀行、ワクチン業界、研究機関などが参画する。
Gaviの活動は着実な成果を上げつつある。活動の中心を開発途上国に据えて、設立から現在まで7億人の子どもたちに予防接種を行い、1000万人の命を救った。支援する73カ国での3種混合ワクチン(ジフテリア、破傷風、百日ぜき)の接種率は2014年に80%に達している(※2)。
- (※2) Gavi Japan partnership.P3
こうした成果の一方で課題も残されている。命を落とす5歳以下の幼児は、依然として年間560万人(※3)を数えるからだ。その大きな要因の1つが、途上国に根深く残るIdentity Crisis問題である。途上国全体の子どもの3人に1人は、IDがなく存在すら認識されていないのだ。各国・地域では、出生登録や母子手帳の整備を進めているが、その整備がなかなか追い付かない。アフリカのサハラ砂漠以南の「サブサハラアフリカ」と呼ばれる地域では、5歳未満の子どもの半分は出生届が出されていないという。
- (※3) UNICEF, ”Levels & Trends in Child Mortality Report 2017” P1, October 2017
この課題解決のために、Gaviが注目したのが指紋認証だ。指紋という生体認証を本人確認手段として使うことで、取り残されてワクチンを受けられないという状況を大幅に改善できると考えたわけだ。指紋は生涯変わることがなく、登録や照合の手順も比較的容易だ。
「途上国では数百万人の子どもが出生届すら出されていません。きちんとした記録なしには、予防接種を受けさせることは難しい。適切な時期でなければ、効果が出にくくなる上、既に接種したワクチンをもう一度打ってしまえば、リスクが生じます。『どの子どもが』『どのワクチンを』『いつ接種したのか』──この把握のために世界No.1の精度を誇るNECの指紋認証を活用したい」とNEC グローバル事業推進本部 国際機関グループの椿野 沙織は説明する。
世界No.1の精度を誇る指紋認証技術を提案
正確な本人確認のため、Gaviが採用したのは英Simprints Technology Ltd.(以下、シムプリンツ社)の指紋認証ソリューションである。シムプリンツ社はイギリスのケンブリッジ大学からスピンオフしたスタートアップ企業で、専用のアプリケーションをスマートフォンに組み込み、Bluetoothで接続したスキャナで指紋を照合するソリューションを提供。スマートフォンさえあればオフラインでも使える仕組みであり、ネット環境が整わない途上国での使い勝手が優れている。
ただし、同ソリューションは大人の指紋は認証できるものの、ワクチンの主な対象となる5歳以下の幼児の認証は精度の点で課題を抱えていた。途上国の過酷な環境でも使える耐久性に優れた指紋スキャナだったが、幼児の本人確認は親などと紐付けするしか方法がなかったのだ。
そこでNECの生体認証『Bio-IDiom』の活用をGaviに申し出ることになったのです。NECの生体認証「Bio-IDiom」は米国政府機関主催のベンチマークテストで高い評価を受けている。正確性とスピードに優れ、指紋認証は過去8回にわたり1位を獲得した。「シムプリンツ社の耐久性に優れた指紋スキャナと使いやすいアプリケーション、そこにNECの世界No.1(※)の精度を誇る指紋認証技術を組み合わせれば、Gaviの活動を支える大きな力になると考えました」とNEC 第二官公ソリューション事業部 マネージャーの島原 達也は振り返る。
- (※) 米国政府機関主催のベンチマークテストの結果
社会価値創造企業として「安全・安心・効率・公平」な社会の実現を目指すNECは、多様なステークホルダーとともに、ICTの可能性を最大限に活かしSDGs達成に貢献している。Gaviの活動はSDGsの一環であり、NECも取り組みを強化している「ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)」の実現にもつながる。
想定外の苦労の連続。サンプルデータの入手もままならず
こうして3者の共創プロジェクトが動き出した。しかしプロジェクトが進む中では、想定外な出来事が次々に起こったという。例えば、開発を進めるためのサンプルデータの入手もその1つ。共創パートナーとなったシムプリンツ社は幼児の指紋データを豊富に持っている。依頼すれば、すぐに提供してくれるだろう。そう読んでいたがそれすらままならなかったという。「欧州の域外に個人情報を送付する場合、個人情報の保護を目的としたGDPR(一般データ保護規則)に準拠した手続きが必要だったのです」と椿野は話す。GDPRは日本の個人保護法以上に厳格なルールで、罰則も厳しい。
「これまでGDPRを意識して仕事をしたことなんてありませんでした。そこでまずGDPRとは何なのか。社内でどういった手続きを踏むのか、受領するデータはGDPR上のどの条項にあてはまるのか、どうやって提供者の同意の確認方法や当局対応が必要なのかなど、わからないことだらけでした。NEC社内でもGDPR対応は始まったばかりで、あえて欧州からデータを取得する事例がほぼなく、試行錯誤でした。社内の人脈を頼って欧州拠点のリーガル部門を紹介してもらい、GDPRについて手取り足取り教えてもらいました。いろいろと苦労を重ねましたが、おかげでGDPRに対応することができ、シムプリンツ社から5歳以下の幼児150人分の指紋サンプルの提供を受けることができたのです。もう1つ良かった点は、シムプリンツ社がGDPRを順守している旨の情報開示を対外的に実施しており、データ授受のための契約を通して、信頼できる会社であることが確認できたことです」(椿野)
サンプルデータが揃えば、あとは開発の出番だ。しかし、この作業も一筋縄でいくものではなかった。幼児の指紋には、成人にはない難しさがあるからだ。
世界に類を見ない幼児指紋の認証率99%を達成
NECの指紋認証の研究開発は40年の歴史を持つ。犯罪捜査への活用を目指し、警察組織と研究開発に取り組んだのが始まりだ。目的は現場に残る遺留指紋の解析と照合である。いろいろな制約の中で技術を磨き、多くの技術者の試行錯誤と知見を積み上げた結果、世界No.1の精度を発揮できるようになった。現在は国内のみならず、海外の警察・捜査機関にも採用されている。
ただしこの技術を幼児向けに転用するためには、いくつもの壁を乗り越える必要があった。「当社の指紋認証は、幼児の指紋照合は想定しておらず、成人と同じように高い精度で照合できる仕組みが必要でした。ただし、幼児指紋認証の開発は、これまでにない新しい仕組みづくりを目指すチャレンジの連続でした」と島原は振り返る。
指紋そのものは生涯変わらないといわれるが、成長とともにサイズは変わる。指紋のサイズの変化に対応できるものでなければならない(図1)。また幼児は指先が柔らかい。センサーに指を押し当てるだけで、形が歪む。デリケートな幼児の皮膚は肌荒れがあることも多い。指紋が曲がっていたり、一部がかすれたりしていても、きちんと照合できることが求められる。
指紋を認証するためには、まずスキャンして読み込んだ指紋を画像データ化し、照合可能な特徴量を抽出。それを登録してある指紋と照合する仕組みだ。画像の補正技術や照合技術にはさまざまな方式があり、組み合わせパターンは何万通りにもなる。
「考え得るパターンを洗い出し、一つひとつ試して検証する。精度は高いが、処理に時間がかかったり、その逆の組み合わせもあったりする。要件を満たす精度とスピードの向上を目指し、地道な作業を根気強く続けました」と話す島原。インフラが十分に整備されておらず、通信が不安定な途上国でも配信がスムーズにいくよう、アプリケーションの軽量化にも取り組んでいるという。
さらに子どもが成長して指紋のサイズが変わっても正確に読み取れるように、既存の技術にも改良を加えた。「歪みやかすれを補正したり、ノイズを除去する仕組みも開発しました。こうした取り組みの結果、幼児指紋でも認証率99%という非常に高い精度を実現することができたのです」と島原は語る。
幼児指紋を途上国の身分証明の基盤に発展させたい
これらのハードルを1つずつ乗り越えていったことで、NECの幼児指紋認証エンジンの採用が決まり、3者の覚書締結に至った(図2)。Gavi理事長のンゴジ・オコンジョ=イウェアラ氏、シムプリンツ社CEOのトビー・ノーマン氏、NEC代表取締役会長の遠藤 信博が出席した調印式は、メディアも高い関心を持って報じた。
「いろんな部署のいろんな人たちのサポートが、このプロジェクトに力を与えてくれました。おかげでGDPRや指紋認証の技術にも詳しくなりました。覚書締結に向けては、プロジェクトの意義やその中でNECが果たす役割、将来ビジョンなどもメディア向けに説明しなければなりません。プレゼン資料やメディア対応のQ&A作りには大勢の人に手伝ってもらい、有意義なアドバイスもたくさんいただきました。この取り組みを支えたのは、NECの技術を活用して途上国のワクチン普及に貢献したいという強い想い。周囲のサポートも含め、ビジョンの実現に向けてみんなが想いをひとつにできたことが原動力となりました」と椿野は振り返る。
今後の展望も開けつつある。2020年1月からバングラデシュで1~5歳までの幼児約5000人を対象に、同3月からタンザニアでも同じく約1万5000人の幼児を対象に、それぞれ1年ほどかけて実証実験を行う。幼児指紋認証が過酷な環境でも実用に耐えうるかを検証するのが狙いだ。「これが成功した時、幼児指紋認証は世界初の実用化に向けて大きな足がかりとなります」と島原は前を向く。
この技術の意義はそれだけにとどまらない。世界には身分証明書を持たない人が10億人に上るともいわれている。誰もが平等・公平に医療や教育、金融サービスを受けるためには、身分証明書による本人確認が不可欠だ。幼児指紋認証が実用化できれば、これまで取り残されていた子どもへ直接身分証明書を付与することができる。そして、子どもたちは、必要な支援を得て健やかに成長し、その国の発展を支える存在となり、継続して国の社会保障へアクセスできることになる。「子どもの本人確認ができて身分を証明できれば、ワクチン支援のみならず、飢えに苦しむ子どもに確実に食糧を届けたり、内戦などで家を追われた子どもに対し、直接救いの手を伸べやすくなる。幼児指紋認証が広がりを見せ、途上国でも国民一人ひとりが取り残されることなく安心して社会保障を受けられるよう貢献したいです」と椿野は先を見据える。
プロジェクトはまだ始まったばかり。本当の正念場はこれからだ。ただし、かつてない新しい基盤の実現に向け、力強い一歩を踏み出したこともまた事実なのである。
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