2016年09月23日
深層中国 ~巨大市場の底流を読む
「個」の自立を阻む中国社会 ~ますます強まる同調圧力
「まず他人の面倒を見る」という文化
先日、中国の東北地方(旧満洲)に出かけて、帰りに黒龍江省の牡丹江という街から北京まで国内線の飛行機に乗った。夏休みの旅行シーズンで飛行機は混んでいて、先に搭乗した私が席に座って待っていると7~8人の中高年男女のグループが乗り込んできた。この人たちは機内前方にまとまって席を割り振られていたようなのだが、機内に入るや、通路に立ったまま
「あなたの座席はどこ?」
「私が見てあげる。搭乗券見せて」
「私は大丈夫。あんたはどこ?」
「○○さん、席は見つかった?」
「○番Bね、こっちこっち」
「あんた先に座りなさいよ」
「あなたこそ先に入ってよ」
などと大声でやりとりを始め、なかなか席に座らない。要するに、誰もが自分が座るより先に他人の心配をするのである。当たり前のことだが、こんな時、8人なら8人のメンバーが自分で搭乗券の座席番号を見て、さっさと席を探して座ればことはそれでカタがつく。もしわからない人がいたら、その時点で手伝えばよい話である。ところが全員が全員、誰も自分の席を探しもせず、まず他人の面倒をみようとするものだから収拾がつかない。その間、通路はふさがれたままで後ろの人が通れない。
この手の状況は中国ではしばしば発生するが、その理由は先ほどの「自分だけでパンを食べることはできない」のと同じである。中国の人たちは何か行動をする時、先に述べたように「自分がどうしたいか」よりも「周囲から納得を得られる行動とは何か」をまず考えるという習慣がついている。この場合、座席につくスピードや効率より、「自分は他人のことを慮る姿勢、気持ちを持っている人間であると周囲に認められること」が重要なのである。
つまりここでも判断の軸は自分の中にではなく、「他人の受け止め方」「周囲からの評価」に置かれている。これは中国人の美徳には違いないし、そのメリットは大いに理解しているつもりではあるが、やはり傍から見ていると「まず自分のことを確実にやりなよ」と思ってしまうのである。
誰も嫌がらない「自慢話」
最近、電話や電子メールに代わって中国での通信手段の主役になった感のあるSNSのWeChat(ウィチャット、微信)が中国でここまで急速に普及したのも、この「周囲からの見え方を重視する」という点と大いに関係している。
もちろんSNSが急速に広がったのは中国だけではない。日本でもLINEは日常生活と切り離せないものになっているし、世界的にはさまざまなSNSがある。その便利さは世界共通だろう。しかし中国での日常的なWeChatの使われ方を見ていると、そこには大きな特徴がある。
日本でのLINEと同様に、親しい人間どうしの普段の連絡にももちろん使う。しかし日常使用の大きな部分は「朋友圏(モーメンツ)」と呼ばれるフェイスブックのタイムラインに相当するソーシャル機能にある。多くの人が何十、時には何百もの「朋友圏」に参加していて、自分で投稿した画像や発言を友人間で共有する。
私もたくさんの「朋友圏」に参加していて、友人の中国人たちから連日さまざまな画像や発言がアップされてくる。気がつくのは、投稿される内容に「自慢話」が非常に多いことである。「自慢話」と書いたが、それは日本人的な受け止め方であって、当事者の感覚はそうではない。日本語の「自慢話」にはネガティブな色彩が強いが、WeChatの「朋友圏」で飛び交っている自慢話に否定的な見方をする人はあまりいない。
日本ではフェイスブックのタイムラインなどで、「こんな高級な店に行った」とか「最新の○○を買った」など、華々しい話ばかり書いていたら好感を持たれない可能性が高い。それよりは家族の心温まる話とか、ペットのこと、日常生活でふと気がついたこと、時には社会的な出来事に関する意見とか、自分の感性に基づいた身辺の話を発信することが多い。
しかし中国の「朋友圏」では、「どうだ、すごいだろう」という華々しい話がどんどん出てくる。豪華なレストランの料理、著名人と会った記念写真、海外旅行にでも行こうものなら、美しい風景、誰も行かない秘境、二つ星、三つ星の料理店だの、挙げればキリがないが、とにかく「自慢話」のオンパレードである。
そして読み手のほうもそれを楽しみにしている。自分の友人は平凡な人間より「すごい人」のほうがいいし、愛すべき友人たちが誰もできないような体験をするのは嬉しいことである。中国人はそう考える。友人たちの自慢話を否定的に受け取らないのである。