ここから本文です。

2016年09月23日

深層中国 ~巨大市場の底流を読む

「個」の自立を阻む中国社会 ~ますます強まる同調圧力

「自分のパンを相手に押しつける」

 30数年前の話だが、私が学生時代に中国語の勉強を始めた頃、北京大学に留学した先輩からこんな話を聞いたことがある。当時まだ留学生は少なかったので、大学の宿舎で中国人学生と外国人の留学生が同室になって暮らすケースがあった。そんな状況下で中国人、日本人、米国人の学生が同じ部屋でパンを食べるとする。その時の行動が国によって違う。

 米国人学生はパンを手に部屋に戻ると、1人でさっさと食べ始める。日本人学生はパンを持って部屋に戻ると、とりあえず「パンがあるけど、キミも食べない?」とルームメイトに聞くが、そこでは相手が遠慮して辞退することが前提になっている。中国人学生は、部屋に入るや相手の意向も聞かず、パンをちぎって友人に押しつける――。

 実際にこういうことがあったのか、先輩の創作なのかはわからないが、この話はその後の経験からしてもよく出来ていて、今でも鮮明に覚えている。

 ここで語られる米国人学生の行動は、個人主義的で冷たく、自分のことしか考えていないとも受け取れるが、逆に言えば「自分のことは自分でやる」「人に頼らない」「他人の自由を尊重する」といった態度の表れでもある。日本人の学生はまず周囲との調和を考えて意向を聞く。ただし言葉に表さない暗黙の前提が存在している。

 そして中国人の学生は、とにかくまず相手のことを考える。仮に自分はお腹が減っていてパンを全部食べたいと思ったとしても、そのパンを相手と分ける。そこにあるのは、自分のことはさて置いて、まず大切な人のことを考えるという姿勢だ。中国人には確かにそういうところがあって、これは大いなる美徳である。時にこういう中国人に出会うと、感動して涙が出そうになることがある。

判断基準が自分の外にある社会

 しかしこの美徳の背景には、あえて冷たく言えば「そうしなければならない」社会の圧力が存在する。こういう場面で仮に中国人が1人でさっさとパンを食べたとすれば、その人間は中国社会においては「身勝手だ」「人間味がない」「思いやりがない人間」と非難の対象になる。「人間はこうあるべきだ」という社会の観念が明確に存在して、その期待通りに行動することを求められる。「人はそれぞれだから」という寛容性が低い。

 つまり中国社会では「自分がどうしたいか」よりも「人から認められる行動とは何か」を考えて行動する傾向が強い。言い方を変えると、自分の行動を決める判断基準が自分の中にあるのではなく、自分の外にある。何か決断したり、選択したりする際に、その判断の基準を「自らの考え」よりも「周囲の意向」「社会の観念」に置く傾向が強いということである。

 これは「自分で決めて自分で責任を取る」という「個の論理」が根底にある、先の例で言うところの米国人学生の行動とは大きく違う。中国人社会では、自分の行動は「自分はこうしたい」というだけでは決められない。「立派な人間」と認められるには、必ず周囲のことを考え、社会が期待する行動を取らなければならない。中国の人たちはそのように行動することが長い間に習慣化しているといえる。

関連キーワードで検索

さらに読む

本文ここまで。
ページトップ