2016年09月23日
深層中国 ~巨大市場の底流を読む
「個」の自立を阻む中国社会 ~ますます強まる同調圧力
「すごい人間」を演じてみせる
そして、その根底にあるのが、ここでも「あらまほしき姿」が世の中全体で共有されていて、誰もがそれを目指して行動する傾向が強いという中国社会の意識である。
「朋友圏」に高級レストランや高価な買い物、世界の絶景など「ハレ」の場面をアップしている人でも、普段から豪華な料理ばかり食べているわけではない。美しい景色ばかり見ているわけでもない。普段の生活は普通の暮らしであって、誰もが感じるようなことを感じながら生きている。自分なりの思いも、世の中に対する不満もある。ただ中国の人たちは、そういうことをあまり言いたがらない。人に対して発信するのは、あくまで「こうありたい」と世の中が考える姿に沿った晴れがましいことが中心になる。
自分が書きたいことを書くのではない。書いたら「社会から“すごい”と思われるであろうこと」を書くのである。そして周囲の友人たちは、そんなことは当然のことと知りつつも、そういう「すごい」場面を演じられる友人を称賛し、自分たちもそうなろうとする。これが中国社会のお約束である。つまりここでもタイムラインにどんな内容をアップするかの判断基準は自分の内にではなく、「世間」の側に存在している。
全員が単一の基準で判断されるレース
だいぶ以前になるが、この連載の第17回「ほとんどの人が負ける競争社会~中国で広まる不満情緒の源泉とは」という文章で以下のように書いた。
(日本社会と比べて)中国社会の勤労観は大きく異なる。ざっくり言ってしまえば、社会で尊重される価値観の尺度がひとつしかない。社会から「尊重される仕事」とそうでない仕事が人々の間で明らかに認識されていて、誰もがそういう立場に立とうとする。尊重される仕事に就いている人こそが能力のある立派な人、尊敬すべき人であって、そうではない仕事をしている人はそうではない――という単純な二元論が人々の観念を今でも強く支配している。(中略)言い方を変えると、中国社会では全員が単一の基準で判断されるレースに参加しているようなものだ。
これはつまり、中国社会では多くの人たちが自分自身の価値基準ではなく、「こう生きるのが社会で価値のある人間だ」という社会の側の観念に従って生きようとしているという意味である。どんな職業に就くのか、どんな大学に進学して何を学ぶのか。どこでどんな家に住んで、どんな車に乗るのか。それらの全てにおいて「これが尊敬される人間である」という共通のモデルがあり、多くの人が競うようにそのパターンを演じようとする。
もちろんゼロか100かという話ではないが、こうした感覚は中国の社会では広く定着している。「こうしたい」という自分の価値観や個性、信念に従って、自分自身の判断基準で独自の行動をする人は高い評価を受けにくく、「これが素晴らしいことなのだ」という世の中の観念に従って行動し、それを実現した人が称賛される。「個性」の価値が認められる余地が少ない。強力な同調圧力のようなものが存在している。
「自立した個」は生まれるか
社会が豊かになり、都市化が進むにつれてこうした傾向は弱まるものと私は考えていたが、どうもそういう様子は感じられない。上海のような大都会ですら、「こういう人になりなさい」的な観念は依然として非常に強い。社会の富裕化で価値観が多様化するどころか、金銭至上主義と結合した「立身出世」志向への同調圧力はますます強まっている感すらある。そのような社会の体質に甘んじたくない人は、海外に出る。そんな感じである。
歴史的に言えば、これが儒教的社会ということなのかもしれない。自分の生き方を評価する軸が自分の外(社会、世間)にあり、誰もが競うようにそれを目指す。そういう社会は、時の権力者にとっては非常に都合の良いものだろう。個人として自立した思考を持つ人が育ちにくく、「こうするのが立派な生き方なのだ」という規範を一度、打ち立ててしまえば、大半の人がそのレールに乗って社会で成功しようとしてくれるからである。
中学・高校の時代から、若者が自分の趣味やスポーツ、社会活動といったものにほとんど関心を寄せず、ひたすら世間が決めた「出世コース」に乗るための試験勉強に明け暮れる姿を見ていると、まさに「判断基準が自分の外にある」社会の典型的現象と感じざるを得ない。親は世間の基準で「出世」を判断し、子供は「親が喜ぶように」という基準で自分の行動を決める。こういう循環が出来上がっている。こういう状況が続けば、世の中に役立つ人は育っても、社会を変えられる人間は育たない。権力者は高笑いしていることであろう。
話はやや飛躍するが、「自立した個」の存在が西欧的な民主社会の基礎だとするならば、中国社会の状況はそことは大きな距離がある。人々は豊かになり、都市化が進み、生活は便利になり、大都市では多くの面で世界の先端水準に近づいている。しかし自立した「個」という概念の成長は驚くほどスローである。
そこには歴史的要因に加え、当然、政治体制の問題が深く関わっている。経済的、物質的な面で先進国並みに成長した中国の社会が、価値観や人生観の面では既存の西欧型先進国の社会とはまったく異質なものになることは間違いないように思う。
中国の人々は確かにソフィスティケートされていない部分はあるにせよ、天真爛漫で人情味の厚い人たちで、「個」どうしの付き合いを私はまったく悲観していない。問題は「個」の集合体としての「中国」である。
自立した「個」の存在を前提としない先進国。「個」の集合体ではない超大国。中国はそういう性質のものになる可能性が高い。その異質な存在とどう向き合うのか。これはかなりタフな問題になりそうで、本気で考えねばならない時に来ている。