2017年11月28日
次世代中国 一歩先の大市場を読む
中国全土に6万店。世界最大の外食集団に見る商売の流儀
~中国社会に横たわる地縁血縁の論理を考える~
「沙県小吃」成長3つの要因
「沙県小吃」の商売は全国が舞台ではあるが、実のところ徹頭徹尾「沙県の地元民による、地元民のための生業」である。その特徴をまとめると以下の3つになる。
- (1) 地元政府の主導
- (2) 地縁血縁が基本
- (3) 故郷との利益のつながり
順を追って説明しよう。
(1) 地元政府の主導
「中国版無尽講」の破綻がきっかけ
「沙県小吃」は福建省沙県に古くからあった軽食類の総称で、1990年頃から提供する店が登場し、全国展開が本格的に始まったのは2000年代に入ってからである。そのきっかけとなったのは「標会(biaohui)」と呼ばれる民間金融の崩壊だった。
「標会」とは日本でいう無尽講のようなもので、各地に伝わる民間投資の仕組みである。個人が一定金額ずつを出し合い、まとまったおカネを資金が必要な地元民や企業に貸し付ける。金融商品や不動産などに投資する場合もある。福建省や浙江省南部、広東省一帯はこの習慣が特に強い地域である。無茶な投資がたたって、90年代後半から沙県ではこの仕組みが次々と破綻、多くの庶民が多額の損失を負い、夜逃げが頻発する事態となった。
地元政府としてはなんとかしなければならない。そこで考え出したのが、政府が支援して地元民に「小吃」の店を出させるという方策である。
ロゴマークを県政府が商標登録
沙県はもともと山間の小都市でたいした産業もない。当時、農村部には多量の余剰労働力があった。全国各地に出店させることで地元の「口減らし」をする狙いもあった。沙県政府は1997年、「沙県小吃弁公室」を設立、地元民の生業を支援すると同時に「小吃」を町の基幹産業に育成するべく活動に乗り出す。
もともとのロゴマーク(左)と新しいロゴマーク(右)。女性客も入りやすいよう、積極的に店舗のリニューアルを進めており、ロゴマークも洗練されたデザインに刷新されている。
最初に手がけたのは商標の制定である。まずはブランドをつくらねばならない。画像にある丸い顔をモチーフにした統一の商標を制定、2004年には商標登録した。そして、これを地元民は低額の登録料のみで使用できるようにした。さらに「沙県小吃」の代表的な料理を選定し、標準メニューをつくった。そして地元民を対象に調理や店舗経営の講座を開き、とりあえず店が開けるようにした。かくして、にわか仕立ての店主となった多くの沙県人民が地元政府のお墨付きを背に、新たな生業を営むべく全国に散って行ったのである。
当時、沙県政府の役人200人が政府の指示で役人を辞め、自ら「沙県小吃」の店主として隊列に加わったという話が伝えられている。本人は驚いたに違いないが、県政府の不退転の決意が感じられる話だと思う。
政府は経営に関与せず、店主に任せる
このように「沙県小吃」の出発点はビジネスというより地元民のための政府の授産事業、失業対策みたいなものだった。金銭的利益が直接の狙いではなく、まずは地元民の生活手段を確保すること、そして地元の経済を建て直し、上級機関に対して県政府が提示できる実績を上げることが主要な目的であった。
そうした背景に加え、県政府も商売の経験があるわけではないから、可能な限り事業環境を整える支援はしても、具体的な商売の管理までは手が及ばなかった。「沙県小吃の看板を使ってうまく商売してくれたらいい」というスタンスで、事業主の自由な経営を許容した。この姿勢が、全国に散った店主たちの柔軟な「現地化」を促し、各地の食習慣に合ったメニューへの変化が進んで日常の食堂となる大きな背景となった。
(2) 地縁血縁が基本
一つの村や町が、一つの都市を担当する
まさに徒手空拳、落下傘部隊で外地に赴いた沙県の人々をサポートしたのが地縁血縁だった。地元民どうしが助け合いやすいように、県政府は全国の主要都市を区分けし、県内の町や村が一つの都市を独占的に担当する仕組みにした。「一郷一城一組織」政策という。「一つの村が、一つの都市に、一つの組織をつくる」という意味である。
例えば沙県の有力な鎮(町)の一つである夏茂鎮は北京市と西安市を受け持つ。この鎮の住民はもっぱら北京や西安に店を出し、その際には地元、夏茂鎮の政府が支援する。各種行政手続や資金計画、店舗物件の交渉、地元の反社会勢力とのトラブル対応などもやる。地方の小県とはいえ、やはり公的機関であるからその存在は心強いものがあるであろう。まさに官民一体の背水の陣である。
商標が使えるのは同県出身者だけ
にわか店主にしてみれば、近隣に出店しているのは同じ村や鎮の出身者なので協力しやすい。地縁血縁が背後にあるので信用できる。人材の採用や定着にも有利というメリットがあった。その後、店舗数の拡大にともなって同郷人以外が経営する例も増えたが、近年に至るまで「沙県小吃」の看板を掲げて商売ができるのは事実上、同県出身者に限られていた。現在でも6万店のうち2~3万店は同県出身者が経営しているという。人口が25万人の県だから、その比率は非常に高い。
また「沙県小吃」の味や調理技術を伝える講座や教室も最近まで同県出身者しか受講できなかった。ある外地の人がどうしても「沙県小吃」の店を開きたいと考えたが、地元民でないため、どこも修行をさせてくれない。最後は沙県出身の女性と結婚し、ようやく参加が認められたという話がある。さすがに今はそんなことはなくなったが、現在でも上海市内の店に行くと、厨房などでの会話は沙県の方言で私には全く聞き取れない。
そして出店先都市での経営が軌道に乗ると、沙県出身者は自らが元締めとなり、その地で培った自前のノウハウを活用し、「のれん分け」して傘下の店を増やしていく。そうやって全国に6万店という巨大な集団ができあがっていったのである。
(3) 故郷との利益のつながり
郷里を支える素材供給網
沙県政府には別のメリットもある。それは原材料や調味料などの供給だ。「沙県小吃」の味の秘訣は、素材調達や調味料の製法にある。例えば看板料理の一つであるワンタンは皮に独特の小麦粉を使い、特殊なこね方でつくられる。さらに料理の味に不可欠な醤油や花生醤(ピーナツペースト)、辣醤(とうがらしペースト)といった調味料は独自の製法があり、これがないと本来の味が出ない。
これらは沙県にある製造元が一手に供給しており、全国に散った店主は基本的にそこから仕入れる。店舗数の増加後は主要都市の周辺に供給拠点を設け、直接配送する仕組みが構築されている。これによって沙県自体にも雇用が生まれ、税収も上がる。当然、これらの製造元も地縁血縁で成り立っており、フランチャイズ契約等の強い縛りがなくても店は故郷の供給元と取引をするのが普通である。
「地元民による、地元民のための生業」
先に述べたように、「沙県小吃」の出発点は「地元社会の維持」にある。政府という公的機関が商標を握り、いわば本家として理念的中核にいることで「社会のため、人々のため」という大義名分が維持されている。これが通常の企業と最も異なる点である。そのため個々の店主の間におのずと「身勝手な行動は許されない」「全体の利益が大事だ」という観念が生まれ、ゆるやかな運命共同体意識が漂っている。
その上で県政府はメニュー構成や料理の味、値段などは店主の判断に任せ、柔軟な経営を許容している。成功した店主が自分で新たなフランチャイズを始めることすら規制しない。
そのため「沙県小吃」の統一感は失われ、ブランドイメージは混乱するが、それは裏を返せばルールに縛られない現地化した経営につながる。このあたりの鷹揚さ、「ゆるさ」、良い意味での「いいかげんさ」が中国人の真骨頂であり、それが独立志向の強さ、収益機会への敏感さ、家族や親類の結びつきの強さなどとあいまって、「沙県小吃」6万店のパワーになっている。
この「沙県小吃」の成長パターンは、かつて18世紀後半から19世紀、中国を出て海外に渡り、華僑と呼ばれるようになった人々と共通点が多い。故郷を離れ、新天地を目指して見知らぬ地に飛び込む。地縁血縁を頼りに個人が力を合わせて活路を切り開く。今でも東南アジアでは「あの街は広東系、この地域は潮洲系、あそこは福建系……」などと出身地による色分けが鮮明にある。地縁血縁が一定の秩序を生み出し、信用を担保するのも同じである。そして何十年経っても、その心の中には常に故郷が存在している。