2019年06月26日
がんは「治らない」から「治る」病気へ
~創薬事業に乗り出したNECが見据える「個別化がん免疫療法」の未来~
日本人の死因の第1位である「悪性新生物(がん)」。厚生労働省の調査(※1)によれば、日本人の3人に1人が、がんで亡くなっているのが現状だ。こうした中、2019年5月、NECはAIを活用した創薬事業への本格参入を発表した。フランスのバイオテクノロジー企業Transgene(トランスジーン)とパートナーシップを締結、 個々の患者に対応した治療薬を投与する「ネオアンチゲン(※2)個別化がん免疫療法」の共同開発に取り組んでいるのだ。NECはなぜ創薬事業に参入し、ネオアンチゲン個別化がん免疫療法の開発に乗り出したのか。その背景や想いについて話を聞いた。
※1 厚生労働省調査「平成29年(2017)人口動態統計(確定数)」
※2 がんの遺伝子変異にともなって新たに生まれた「新しいがん抗原」のこと
がんの第4の治療法「免疫療法」が注目される理由とは
人間の体は、約数十兆個にもおよぶたくさんの細胞からできている。不要になった細胞は失われ、新しい細胞に入れ替えて生命を維持させる。これが新陳代謝だ。
正常な細胞は、体や周囲の状態に応じて増えたり、増えることをやめる。一方で、遺伝子に何らかの理由で傷がつき、その結果、異常な細胞が増えることがある。これは、実は健康な人間でも毎日起こっていることだ。しかし私たちの体内では、遺伝子を修復したり、異常な細胞がふえることを抑えたり、取り除いたりすることで、正常な状態を保つ。
ところが、異常な細胞がこの監視の網の目をすり抜け、あるいは抑制させ、さらに異常なスピードで増殖してしまうことがある。これが、がんだ。
がんは、悪化するとその一部は血液やリンパの流れに乗って、ほかの臓器や器官に広がっていく。このため、病状が進行して次々と転移が起これば、根治がきわめて困難となってしまう。また、治ったと思っても別の部位で再発することも少なくない。
こうした状況を打開しようと、がんの撲滅を目指して世界中で研究が続けられている。現在は「手術」「放射線治療」「化学療法」ががんの3大療法とされているが、近年、「第4のがん療法」として世界的な注目を集めている治療法がある。人間に本来備わっている免疫の力を利用してがん細胞を攻撃する「免疫療法」である。
この療法は古くから行われてきたが、そのほとんどは治療効果が不明確であった。だが、近年、「がん細胞が免疫にブレーキをかける」仕組みを応用した「免疫チェックポイント阻害薬」が登場。これが臨床研究で有効と認められ、開発に貢献した本庶 佑・京都大学名誉教授らがノーベル生理学・医学賞を受賞したことで、免疫療法は一躍脚光を浴びることとなった。
ネオアンチゲン個別化がん免疫療法を共同開発
そもそも免疫療法とは、どのような治療法なのか。がん細胞の表面には、「抗原」と呼ばれるたんぱく質の分子があり、これががんの目印となる。この抗原をターゲットにしたワクチンを作って患者に投与すれば、正常な細胞を傷つけることなく、免疫力を活性化してがん細胞だけを攻撃することができるわけだ。
がんは極めて多様性に満ちた病気で、がんの抗原は、がんの種類によって異なるだけでなく、個々の患者によっても異なる。この問題を克服するためには、「 個々の患者さんごとにがんの抗原を見つけ出し、短期間に薬を作って患者さんに投与する」ことが必要になる。
そこで、NECは、AIを中心とした先進的なデジタル技術を駆使して創薬事業に参入。「ネオアンチゲン個別化がん免疫療法」という未踏の領域に乗り出した。今年5月27日に大手町で行われた記者会見で、NECの藤川 修はこう宣言した。
「患者さんとご家族に希望にあふれる未来を届けるために、私たちはAIを用いた免疫治療領域のイノベーション・ファームになる──これがNECの創薬事業のビジョンです。このビジョンのもと、まずはがんをメインに創薬事業を進めていきます。そして今年、世界で開発が進むネオアンチゲンワクチンの治験を、NECが日本企業として初めて行います」
具体的には、フランスのバイオテクノロジー企業Transgeneと協業し、ネオアンチゲン個別化がん免疫療法を共同開発することを発表。自ら創薬事業に本格参入し、世界のがん医療のトップランナーとなる意志を鮮明にしたのである。
100年以上の歴史あるバイオ企業がNECをパートナーに選んだ理由とは
NECのネオアンチゲン個別化がん免疫療法は、次のようなプロセスで行われる。
まず、患者ごとに正常な細胞とがん細胞の検体を採取し、ゲノム分析を行って遺伝子の変異を検出する。これらをNECのネオアンチゲン予測システムにかけ、薬として有効性の高い抗原をリストアップし、効果の高い順にワクチンに組み込む。これを患者さんに投与して、免疫を活性化させ、がんへの攻撃力を高めるという仕組みだ。将来的には、検体採取からワクチン投与までの期間を約1カ月で行うことを目指していきたいと考えているという。
このプロセスを可能にしたのが、前出のTransgeneとの戦略パートナーシップである。
Transgeneは1998年に上場し、ウイルスベクター技術(※3)に強みを持つフランスのバイオテクノロジー企業。今回のプロジェクトでは、Transgeneは、個別化ネオアンチゲンワクチンの合成を担当している。
欧州で100年以上の歴史を誇る企業が、なぜNECを協業先に選んだのか。その理由について、同社のエリック・ケメナー氏はこう語る。
「NECと協業した理由は、その高度な技術力にあります。人間のDNAは約30億塩基対ものゲノム情報から成り立っています。この膨大な数のゲノム情報の中から必要な抗原を抽出すること自体が困難な作業を伴います。それをがん種ごと、患者さんごとに優先順位をつけて予測することは、さらに途方もない挑戦となります」
こうした不可能と思えるような挑戦をNECの技術なら可能にできると感じたのだという。
「NECのアメリカ法人やドイツ法人で実際に見せてもらったのですが、多様な抗原の中から重要なものを検出していく技術や、データマイニング、AIの予測能力の高さには素晴らしいものがありました。また、NECと当社が互いにビジョンを共有しており、グローバルかつ長期にわたって協業できると判断したことも、大きな理由です」(ケメナー氏)
※3 ウイルスベクター技術:がんの治療や難病を治す遺伝子治療において、遺伝子などを細胞の中に運ぶため、安全な形にしたウイルスを用いる技術
長年にわたって行われてきた創薬事業への挑戦
ケメナー氏が語ったように、NECの創薬事業における最大の強みは、技術力と独自に蓄積してきたデータにある。
現在も少なからぬIT企業が、AIやITツールを活用して、予防・診断・創薬支援などのサービスを提供しようとしている。だが、NECが目指しているのは、単なるITによるサービス提供ではなく、創薬事業そのものを発展させること。そのために、長年にわたりがんの創薬研究に取り組んできたのである。
そのきっかけは、NECのAIエンジンに注目した1人の研究者の存在がある。免疫学の研究に取り組んでいた高知大学の宇高 恵子教授だ。宇高教授は、がんの治療に有効な抗原を高精度に予測するために、NECの最先端AI技術群に注目。これをきっかけとして、NECと高知大学との共同研究がスタートしたのである。
NECはこの共同研究にあたり、予測システムを構築することになったが、この予測精度を高めるには質の高いデータが必要となる。そこで宇高教授に高信頼な実験を繰り返し行ってもらい、その実験データをもとにAIエンジンの精度を高めていくというやり取りを何度も行った。こうして、NECは、創薬に向けた、技術力と精度の高いデータを有するようになった。
今回、ネオアンチゲン個別化がん免疫療法に欠かせない高度な予測能力を支えている、「グラフベース関係性学習(※4)」もそうした技術群の1つだ。
これは、NEC欧州研究所が発案した幅広い分野で利用できる機械学習技術。
実験結果や生化学的知識をうまく取り入れることが可能であることに着眼したことが、効果の高いネオアンチゲンの予測に大きく貢献する要素となった。
※4 グラフベース関係性学習:異なる種類のデータから関係性を導き出し、仮に欠損データがあったとしても、高精度の予測ができる技術
ネオアンチゲン個別化がん免疫療法に注目した理由は「QOLの高さ」
それにしても、なぜNECは、数ある治療法の中からネオアンチゲン個別化がん免疫療法に注目したのか。
「患者さんにとって負担がより少ない治療法が、免疫療法だからです」と、藤川は言う。術後の痛みや副作用をともなう3大療法は、患者の心身に大きな負担を強いる治療法だ。一方、免疫療法は副作用が少ないことが期待され、QOL(Quality of Life:生活の質)が高い。
NECはこの点に着目し、「人が長きにわたり、安心して暮らせる世界を作るためには、QOLの高い免疫治療薬がベスト」と判断。ネオアンチゲン個別化がん免疫療法を、研究開発のメインターゲットに据えた。
「今、山口大学でも、ステージ3、4の進行がんの患者さんを対象に、サイトリミック(2016年12月に設立したNECの創薬ベンチャー)が開発したワクチンの臨床研究が行われています。ここで治療を受けている患者さんが、『今まで、とてもつらい思いをしてきたけれど、今回の治療はほかの治療と比べて、本当に体が楽ね』と言って、看護師さんに大変感謝されたそうです。その話を聞いて、免疫治療は、質の高い生活をするという意味でも、大変有効な治療法であると実感しました。今後、ネオアンチゲン個別化がん免疫療法の開発が進めば、より多くの患者さんを救うことができる。それこそが、NECがネオアンチゲン個別化がん免疫療法に注力する最大の理由なのです」(藤川)
がんに倒れ、志半ばで亡くなった仲間の思いを実現したい
しかしながら、これまでの道のりは、けっして順風満帆だったわけではない。創薬事業の立ち上げに当たっては、数々の挫折も経験した。
「当然のことかも知れませんが、NECというと、どうしてもITツールベンダーと見られてしまう。当初は医学系の学界やコンソーシアムには全く相手にされず、苦労しました。難解な医薬用語に頭を抱えながら、我々の強みをひたすらアピールして行脚する日々。我々が本気だということがなかなかわかってもらえず、つらい時期が続いたこともありました」(藤川)
もう1つ、同社の創薬事業に少なからぬ影響を与えたのが、バイオ市場の冷え込みである。2000年代初頭、バイオテクノロジー分野への投資ブームが到来したが、成功例が少ないことからバイオバブルは終息。NECも研究を中断し、一時は研究の継続が危ぶまれた。
だが、高知大学の臨床研究により、AIによる予測の有効性が示唆されたため、NECは創薬事業の再開を決断。2016年12月には創薬ベンチャーのサイトリミックが設立され、NECの創薬事業は命脈を保つこととなったのである。
一方、悲しい出来事もあった。創薬事業に取り組んできた同社のメンバーの1人であり創薬新事業の技術開発責任者でもあった宮川 知也が、2018年5月にがんで亡くなったのだ。
「彼は甲状腺がんで手術を受けたのですが、3年後に再発。病状が進行し、最後の方は溜まった腹水を抜くことよりも仕事のスケジュールを優先させ、なんとかエンジンを届けたいと最後までがんばっていました。彼の思いを世の中に伝え、彼がやりたかったことをなんとか実現したい──その思いは、今もメンバーの中に遺伝子となって生き続けています」(藤川)
2019年、NECはTransgeneと共同で、個別化ネオアンチゲンワクチンの臨床試験を欧米でスタート。すでに米国では卵巣がんの本臨床試験実施の許可を取得しており、また、イギリスでは頭頸部がん、フランスでは頭頸部がんと卵巣がんについて、臨床試験の申請を行っている(※5)。
「今後は肺がん、胃がん、乳がんといった患者数の多いがんや、希少がんにも対象を広げたいと考えています。さらに感染症や自己免疫疾患にも適用領域を拡大していきたい」と藤川は抱負を語る。
「他社で経験を積んだ専門家の方々が、我々のビジョンに共感して、続々とプロジェクトに加わっています。企業と個人を問わず、良きビジョンを共有する相手とは、長期にわたってよいパートナーシップを築くことができる。有効な治療薬を作って、1人でも多くの患者さんを救いたい──そんな皆さんの思いが、今、結実しつつあると感じています」
※5 2019年6月現在