失われた縄文文化の中に浮かび上がる、
オルタナティブなコモンズの形
~NEC未来創造会議 2021年度第2回有識者会議レポート~
2050年の未来からバックキャストして人が豊かに生きる社会のありようを構想するプロジェクト「NEC未来創造会議」は、昨年から「コモンズ」という概念を巡って議論を続けている。2017年に始動した本プロジェクトはさまざまな分野の有識者との議論を経て「意志共鳴型社会」という新たな社会のビジョンを提唱したのち、社会の発展や地球環境の持続性、人々のウェルビーイングを実現するために、ただ技術や経済の発展を目指すのではなくコモンズの価値を見直す必要があると考えたというわけだ。
もともとは特定の地域・共同体による資源の共有形態を指すこの言葉は、近年社会的に注目されるなかで拡張されつつある。水や空気を地球規模の資源として捉える「グローバル・コモンズ」やサイバー空間への拡張を指す「デジタル・コモンズ」など新たな概念が提唱されるなかで、これからのコモンズを考えるためには過去を振り返りながらこの概念を整理する必要があるだろう。
この概念の成り立ちを振り返った第1回の有識者会議に続き、第2回は縄文時代の社会を通じてコモンズのあり方を問う議論が繰り広げられた。ゲストとして参加したのは、認知考古学/ジェンダー考古学の観点から縄文社会の研究に携わる岡山大学文学部教授の松本直子氏。前回と同じく『WIRED』日本版編集長・松島倫明がモデレーターを務め、NECフェロー・江村克己とともに行われた議論は、縄文社会から照射するようにしてオルタナティブな社会のあり方を提示していった。
SUMMARY サマリー
新たな世界観が「弥生」をもたらした
インターネットをはじめとするデジタル技術は、わたしたちの生活を大きく変えた。遠く離れた人と容易につながれるようになり数多くの便利なサービス/プロダクトがつくられたのはもちろんのこと、コミュニケーションのあり方や世界観そのものも変わってしまったと言える。デジタル技術のみならず、歴史を振り返ってみれば新たな技術の登場はつねにわたしたちの社会を変えてきたはずだ。ならばこれからの技術や社会のあり方を考えるためには、過去を振り返りながらわたしたちの社会がどのように変わってきたのか考える必要があるだろう。
人が豊かに生きる社会をつくるために「意志共鳴型社会」というビジョンを提唱するNEC未来創造会議も、しばしば歴史を振り返ることで未来について考えようとしてきた。5年目を迎えた2021年度は社会の発展や地球の持続性、人々のウェルビーイングを実現する「ニュー・コモンズ」という新たなコモンズの形態を模索すべく、コモンズの概念をたどり直そうとしている。この概念の成り立ちや意味を振り返った第1回の有識者会議に続き、先史時代の社会を振り返ることから今回の議論はスタートした。
「近年、デジタル化が進んだ社会像として『Society5.0』という言葉が使われていますが、縄文時代から弥生時代への移行はSociety1.0から2.0、狩猟採集社会から農耕社会への変化にあたるものです。世界史的に見ると、世界中で同じようなステップアップが起きていたと考えられます」
認知考古学やジェンダー考古学の視点から縄文社会の研究を進めている岡山大学文学部教授の松本直子氏はそう語り、これからの社会を考えるためにも過去を見ることは重要だと続けた。縄文時代から弥生時代への変化と言われて狩猟採集社会から農耕社会への移行を想起する人は少なくないが、松本氏によれば、重要なのは新たな技術ではなく新たな「世界観」の導入だったという。
「農耕技術だけではなく稲作儀礼などを含む新しい世界観が大陸から朝鮮半島を経由し日本に入ってきたことで、農耕社会への移行が進んだわけです。たとえば武器の存在や武力による支配という価値観も農耕文化と一緒に日本に入ってきたもので、在来の縄文文化と混じり合いながら日本独自の弥生文化へとつながっていきました」
近年の研究では縄文時代に大豆や小豆が栽培されていたことが明らかになっており、単なる農耕技術の有無が縄文と弥生を隔てているわけではない。先史時代にかぎらず、技術とは価値中立的なものではなく、つねに特定の価値観や世界観と結びついたものだ。縄文から弥生への移行においても、いかなる価値観が人々の生活を変えたのか考えることが重要だろう。
「所有」が始まり、社会が変わる
新たな世界観の導入は、人々の生活をどのように変えたのだろうか。モデレーターを務める『WIRED』日本版編集長の松島倫明が自然と人間の関係の変化を問うと、松本氏は次のように語った。
「縄文社会に限らず、狩猟採集社会で生きている人々はさまざまな動物と人間は対等な存在だと考えています。加えて所有の概念も希薄で、すべてのものは共有されるべきだという感覚が強いと言われているんです。資源に限りのある狩猟採集社会においては、共同体を持続させるためにも所有せず共有するほうがいいですから」
そんな縄文社会の価値観は、今年度のNEC未来創造会議のキーワードである「コモンズ」の概念ともつながっているだろう。あらゆる資源を共有財とみなす視点は、現代社会から失われたものと言えるかもしれない。松本氏によれば「所有」の概念が強まったことが社会を変えていったのだという。
「農耕社会へ移行すると、農作物や土地が誰のものか決めるようになり、その権利を継承する感覚も芽生えてくる。次第に格差が生まれ、社会の階層化も進み、首長のような存在も現れます。狩猟採集社会から農耕社会への変化は、いろいろなものを共有するコモンズ中心の社会から個人の差異をよしとする社会への転換と言えるかもしれません。その変化はジェンダーとも結びついています。狩猟採集社会では生命を生み出す女性が重要な存在だったのに対し、農耕社会では力をもつ男性の方が社会に貢献する存在だとみなされ、所有の権利も男性を中心として継承されていくこととなりました」
松本氏の発言を受け、松島は「農耕社会の価値観が現代社会を規定しているのかもしれません。歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリも農耕社会への移行を『過ち』だと語っていて、農耕革命が現代へ続く問題を残してしまったといえます」と語る。NEC未来創造会議が考える「ニューコモンズ」とは、狩猟採集から農耕へ伴って失われてしまった感覚を取り戻すこととつながっているのかもしれない。
「人間の遺伝子自体はあまり変わっていないので、縄文的な思考はいまも残っているでしょう。しかし人間は道具や技術によって拡張される存在なので、石器や土器、インターネットやスマートフォンによって身体感覚が変わっていったのだと思います」
そう松本氏が語るとおり、人間の身体そのものは先史時代と比べて大きく変わったわけではない。新たな生活習慣や文化の登場だけが人間を変えるわけではなく、つねに道具や技術によって人間は変わってきた。失われたコモンズの感覚を現代社会へ取り戻すうえでも、ただ過去の価値観を紹介するだけではなく、技術によって人の感覚を変えていく必要があるのかもしれない。
かつての社会には戻れない
縄文から弥生への変化を考えることは、技術と人間、人間と自然の関係性を考えなおすことでもあるだろう。NECフェローの江村克己は、これまでのNEC未来創造会議を振り返りながら次のように語る。
「かつて有識者会議にご参加いただいた塩沼亮潤大阿闍梨は『人工知能だけではなく人工ハートを開発できないのか』と問題提起されていました。たしかに人間は技術を発展させることで身体を拡張させていきましたが、SNSによって社会の分断が進むなど、コンピュータやインターネットによって現代の人間はむしろ退化しているようにも感じます。視力の補助や記憶の外部化を行うだけではなく、『人間力』のようなものを培うための道具の使い方や人間のあり方を考えなければいけませんね」
そう言って江村は、自然と対峙するなかで縄文時代の人々が培ってきた人間力の重要性を説く。松本氏も江村の発言を聞いて頷きながら、近年のキャンプブームは縄文時代の人々がもっていた感覚を取り戻したいという欲求の表れなのかもしれないと語る。
「技術の発展によっていまはボタンやツマミだけで火を起こせるようになりましたが、1万年前は誰もが自分で火を起こして料理をつくっていました。火起こし自体は大したことではありませんが、体を使うことで得られる根源的な達成感があることも事実で、単に楽な方向に進むだけではいけない気がします。『豊かな自然』という言葉がありますが、自然の豊かさを感じるためにはそれ相応の技術や知識がなければいけないはずです」
Society1.0と呼べる狩猟採集社会から農耕社会(2.0)、工業社会(3.0)、情報社会(4.0)と社会が発展していくなかで、人間はさまざまな技術を発展させ新たな能力を獲得してきたが、同時に失ってきたものも少なくないのだろう。しかし、「昔の方がよかった」といってかつての社会に戻ることはできない。社会の発展とはしばしば不可逆なのだ。
「自然と対等な関係で生きていくうえで共同体の規模は非常に重要で、人口が増えるとバランスが崩れて狩猟採集社会には戻れなくなってしまいます。不可逆な変化を前提としながら現代社会の格差を減らしていくためには技術に頼るしかないと思うのですが、現代社会は変化のスピードが非常に速く、対応が難しいなとも感じます。かつては社会の変化が遅く人生の見通しが立ちましたが、いまは上の世代が行っていたことを繰り返すだけでは生きていけない。現代は人間がこれまで経験したことのないストレスを感じながら生きている時代といえるでしょう」
そう松本氏が語るように、技術や社会、価値観などあらゆるものが急速に変化していく時代にあって、ますますわたしたちは過去に立ち戻れなくなっているのかもしれない。だからこそ、ただ未来を見ようとするだけではなく過去を振り返ることが重要になるのだろう。
オルタナティブなコモンズの可能性
「いまや技術が人間の想像力を超えはじめており、ブラックボックス化するAIをはじめ人間が知覚できないハイパーオブジェクトと呼ばれるような技術も増えてきている。その点、縄文の人々にとっては自然もある種のハイパーオブジェクトだったと思うんです。すべては理解できないけど自分なりの文明観をつくってインタラクションしていく。制御できないもののなかで生きていかなければいけないぼくたちにとって、縄文時代を生きた人々の知恵や自然観は参考になると思います」
松島がそう語ると松本氏は「縄文人は人工の環境と自然の環境とをはっきりと区別することなく、その中間に生きているという感覚があったんじゃないかと思います。本格的な農耕はしませんが栗や漆の木を植えるなど人が住むことで環境にどんな変化が起きるか考えていて、環境を育てるような営みがありましたから」と語り、縄文時代における自然との接し方は現代と異なるものだったことを明かす。
江村が「いまのお話を伺って、協生農法の取り組みを思い出しました。従来の農業が人工的な環境をつくろうとするものだとすれば、協生農法は人工と自然の間で環境をデザインしようとする営みだといえる」と言うように、現代における実践のなかにも縄文的なものは見いだせるのかもしれない。社会の発展が不可逆だとしても、複数の可能性をつくり出すことは可能なはずだ。ただ縄文の文化を理想化するのではなく、現代の社会を前提としながらオルタナティブとして縄文を捉えることで見えてくるものがあるだろう。
「コモンズの概念はあくまでも所有を前提としたものだからこそ、入会地や共有地には一定の範囲が決まっていて、そのなかでルールが定められていく。他方でデジタルコモンズのような、誰でも共有できるものとしての共有地や共有財産の感覚は縄文的ですね。デジタル化によって世の中のものはみんなのものだという境界線を引かないコモンズが再び可能になったといえるのかもしれません。どちらか一方ではなく両者が大事で、常に境界の引き方を考えていく必要があるのだと思います」
コモンズとは特定の地域や共同体を前提としたものであるがゆえ、現代のわたしたちが論じる地球規模の「グローバル・コモンズ」やサイバー空間を含む「デジタル・コモンズ」とは歴史上初めて人間が体験するものだといえる。しかし、その相似形を縄文社会のなかに見出すことも可能なのではないか。1万数千年前の過去のなかにこそ、これからのコモンズのヒントが隠されているのかもしれない。