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2018年01月25日

次世代中国 一歩先の大市場を読む

覚醒する中国人のプライバシー
~デジタル実名社会で揺れる個人の権利意識

プライバシーに対する不安感を助長

 ここでジャック・マーが語っていることは、確かにその通りで、だからポイントが下がるような不正な行いをせず、誠実に暮らしてポイントを上げなさい。そうすれば生活はさらに便利で快適になるよ、という話ではある。しかし結婚や就職といった微妙な社会的背景が絡む問題で、「ポイントが低いと結婚できない」といった発言を、ジャック・マーのような絶大な影響力を持つ企業家が公的な場で行うのは賢明なこととは思えない。「芝麻信用はそのくらい影響力があるのだ」と世界に伝えたかったのかもしれないが、逆に人々の不安感をかきたてる結果となった。

 ジャック・マーは中国の特に30代以下の世代にとっては「神」と言ってもいいほどの存在で、信奉者も多い。この発言を支持する声も当然ある。しかし、善意から出発したものとはいえ、こうしたあまりにも割り切った姿勢が、個人のプライバシーに対する社会の不安を増殖する一因となったことは否定できない。

アリババの総帥、ジャック・マーは中国の若者には「神」的な存在

「社会信用体系の確立」とプライバシー

 そしてもう一つの大きな問題は、冒頭に紹介した国家による「社会信用体系の確立」との関係である。

 中国政府は2020年までをメドにデジタル情報技術を活用した「社会信用体系の確立」を宣言している。「良い行いをする者は支援し、悪い行いをする者は一歩も前に進めなくする」と政府は言う。これを権力による監視で実現するのではなく、信用情報の蓄積と分析によって「良い行い」をした人にはご褒美を、「悪い行い」をした人にはペナルティを与えることで、国家にとって望ましい方向に人を誘導しようというのである。

 そのプロセスにおいて「良い行い」「悪い行い」をしたのは誰かを知り、分析するカギを握るのは芝麻信用などに代表される民間が持つ膨大な個人のデータにほかならない。警察や治安部門は街角に監視カメラを設置し、人々の行動をモニターすることはできるが、個人の買い物履歴や友人とのやり取りなどのデータを収集するには、これら民間企業の力を借りる必要がある。そこにアリババグループと国策の利害が重なる部分がある。しかし、これまで述べてきたように、それをやれば個人のプライバシーの問題に踏み込まざるを得ない。世論のハードルは確実に高くなってきている。

上海浦東国際空港の駐車違反警告板。監視カメラで自動的に取り締まる

個人信用をめぐる「三方鼎立」

 つまり現時点では、個人信用情報について以下のような3者の関係が存在する。

  1. (1) 国家システムとしての「社会信用体系の確立」を目指す政府(治安、社会的視点)
  2. (2) 金融業界の健全な信用評価システムの構築を目指す政府・中央銀行(金融的視点)
  3. (3) 自社の膨大な個人データを元に新たな仕組みをつくりたいアリババ(ビジネス的視点)

 上記の3つが同時に存在し、それぞれの視点からプライバシーの問題を考えている構図だ。(1)と(2)は同じ政府ながらその利害は食い違っていて、(1)のように国家の視点に立てば、国家が必要と認めた場合、プライバシーの概念は当然例外扱いになるだろう。(2)は金融業界のスタンダードを重視し、先進諸国のプライバシーの概念に近い。そのかわり発想は保守的でアリババなどが目指す革新的、独創的な仕組みには拒否感が強い。そして(3)は中国独自の形態で、自分たちが世界の先端を走っているとの自負も強い。過去に例のない「信用を軸にした社会」を構築しようとの志(こころざし)がある。その点で(1)と重なる部分はあるが、力点はあくまで市場にあり、国民の管理が目的ではない。

 そして、詰まるところこれらすべてのカギを握るのが国民のプライバシー意識の動向である。国としては国民がプライバシーなどと小難しいことを言わず、「愚民」でいてくれた方が統治はしやすいが、それでは社会の成長が望めない。金融界は要するに「貸したお金がきちんと返ってくるか」が最大の関心事で、その範囲を超えた個人のプライバシーには関心がない。そしてアリババは個人のプライバシーに触れる情報こそが自らの最大の強みだから、なんとかこれを活用したいが、国民の反感を買うのは怖い。

個人の権利意識はどこまで高まるか

 この3者の関係が今後、どのように展開するか、まだわからない。しかし、間違いなく言えることは、中国の人々は今後ますます自らのプライバシーに対する関心を高め、個人情報保護に対する要求を強めていくだろうということである。

 もともと中国は社会主義的な情報一元管理の発想の下、個人情報のほとんどを政府機関が握ってきた。その状況は中国では「当たり前」で、プライバシーについて国民は大きな疑問を持たずにきた。そして先端的なアリペイや芝麻信用の個人信用評価システムは、その中国の特殊性に支えられてきた部分が強くある。意地の悪い見方をすれば、中国の人たちのプライバシーの意識の緩さに乗じたビジネスであったともいえる。その環境はこの1年だけでも大きく変わりつつある。

 個人の信用情報に基づいたビジネスがこのまま成長できるのか、それは中国の人々が自らの権利意識にどこまで覚醒するかによって決まる。中国社会が本質的に変化するのはまだまだこれからで、どんな社会になるのか、その骨格はまだ読めない。

田中 信彦(たなか のぶひこ)氏

BHCC(Brighton Human Capital Consulting Co, Ltd. Beijing)パートナー 亜細亜大学大学院アジア・国際経営戦略研究科(MBA)講師(非常勤) 前リクルート ワークス研究所客員研究員

中国・上海在住。1983年早稲田大学政治経済学部卒。新聞社を経て、90年代初頭から中国での人事マネジメント領域で執筆、コンサルティング活動に従事。(株)リクルート中国プロジェクト、大手カジュアルウェアチェーン中国事業などに参画。上海と東京を拠点に大手企業等のコンサルタント、アドバイザーとして活躍している。

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