次世代中国 一歩先の大市場を読む
14億「モンスター国民」のゆくえ ~ 中国社会の「法治」を考える
Text:田中 信彦
SUMMARY サマリー
「死刑判決を」の世論はなぜ起きたか
報道によれば、懲役20年という判決は日本の法律および過去の判例に照らして妥当なもので、中国でも殺人犯は必ず死刑になるわけではなく、この程度の量刑の例もあり、専門家からは大きな異論は出ていない。ではなぜ中国社会の反応は違ったのか。なぜ「死刑にせよ」という世論が巻き起こったのか。
判決後、中国での反響の大きさに、逆に日本のメディアは驚き、この事件の報道も増えた。そこでは日本社会と中国社会の「死刑観」の違いに焦点を当てた議論が目立った。つまり日本では死刑判決が出るかどうかはあくまで法律的な議論であって、その量刑が法に照らして適当かどうかが判断基準となる。しかし中国では「目には目を」的な報復の論理や一罰百戒(要は「みせしめ」)の要素が色濃くあり、死刑判決の数は日本よりはるかに多い。そのため今回の判決に対し強い違和感がある──といった趣旨である。
「統治者が社会正義を実現していない」
もちろんこうした側面もあるが、核心はそこではない。中国の人々が東京地裁の判決に違和感を持つのは「統治者が、人々が望む社会正義を実現していない」「統治者が責任を果たしていない」と感じるからである。これまで述べたように中国の人々は強い力を持った統治者が「法」という道具を使って社会を万事遺漏なく管理することを「法治」と考える。「法」が結果的に問題を解決できるかどうかが重要なのである。
今回の事件では、被害者の母親の死刑嘆願活動に加え、被害者が友人のルームメイトの身代わりに犠牲になった側面もあり、社会的に広い同情が集まった。そうした背景から死刑判決こそが「社会正義の実現」であるとの意識が中国国内の主旋律となった。
ところが判決は懲役20年。犯人の男は犯行当時26歳で、40代半ばには刑期を終えて自由の身になれる。これでは殺害された女性に比べてあまりに不公平ではないか。世の中を管理すべき統治者はこんな不正義を許すべきではない──というのが中国の人々の感覚である。日本の裁判所(中国では裁判所も権力者の指導下にある一つの政府機関である。三権分立という考え方は存在しない)は国民の思いを十分に汲み上げて問題を解決すべきなのに、その責を果たしていない──と見たのである。
つまり「法」をすべての議論の前提だと位置付ける社会と、「法」は手段にすぎず、現実の問題解決に使われない限り意味がないと考える社会の違いが今回の判決に対する見方の違いの根底にある。
14億人の「モンスター国民」
こうした体制下では、国民は自分の意に沿わない事態に立ち至ると、何かにつけて政府に解決を迫るという発想になる。「自分がうまくいかないのは世の中のせいだ」→「世の中が悪いのは統治者のせいだ」というメンタリティが蔓延している。
いわば14億人の「モンスター国民」状態であるが、そうなる理由は言うまでもなく国の体制にある。自由な思想や行動が制約され、国民は一定の思想信条に従うことを求められる。みずからの自由な判断に基づかない行動に、結果の責任は取れない。これは当たり前の態度である。「あんたの言う通りやったのだから、責任はあんたが取ってくれ」ということだ。
「国家に頼るな」と説教した政府
ところが面白いのは、最近になって統治者のほうがこの「モンスター国民」を持てあまし気味になっているふうがあることだ。今回の「国歌斉唱事件」では、現場で(やむを得ず)旅行者たちの面倒を見た中国領事館のみならず、中国の国営マスメディアまでが一斉に「国家を使って自分の不当な利益を得ようとするな」「個人の問題は自分で解決せよ」といった激しい調子でこの行動を非難した。
一昔前なら国民が日本で「不当に扱われた」「尊厳を傷つけられた」と怒って集団で抗議すれば、真相の確認などどこへやら、「愛国」を旗印に声高に日本を非難するのが「お約束」だった。今回はそういう動きがまるでなく、古くから中国と付き合っている人間にとって極めて新鮮なことであった。本当に中国は変わったのかもしれないと思った。
これは想像だが、中国の統治者たちは、こんなに大量の「モンスター国民」を育ててしまったことを後悔し始めているのではなかろうか。専制的な制度にしたばかりに、政府に対する依存心や「おねだり」ばかりが肥大化し、叶わないとすぐに文句を言う。自立した個人として自己の責任で物事を解決する精神が育っていない。「こんなことなら民主主義にしておけばよかった」と思い始めているかもしれない。
まさに自業自得というしかないが、中国国民の成熟の証(あかし)ではある。社会が豊かになって、知識の幅が広がり、国民の行動範囲が広まるのは良いことだ。知識や経験が多ければ多いほど人の判断は客観的になる。「法」という道具を使って統治者が意図する方向に国民を動かす手法は中国でも機能しにくくなりつつある。ぜひ自由で開かれた社会になって、自立した判断能力を持つ大国の国民が育つことを願うばかりである。
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