次世代中国 一歩先の大市場を読む
膨張する中国「個人信用情報管理」
ハイテク「アメとムチ」で模範国民を育てるしくみ
Text:田中 信彦
「失信被執行人」には厳しい懲罰
発表によれば、脱税や兵役逃れなどの悪質な犯罪行為をはじめ、債務不履行、公共料金の未納、商品代金の悪質な不払い、交通違反の繰り返し、企業による環境破壊行為、賃金不払い等の不当労働行為などがあり、なおかつ自発的な謝罪、反省の意志がない、本人の所在地が確認できないなどといった場合、当人を「失信被執行人」に指定し、各種の懲罰的措置を講じることができる。「失信被執行人」とは日本語にはない言葉だが、「失信」は信用を失う行為を指し、「被執行人」の「被」は日本語の「被疑者」「被告」などと同様、ここでは「処分を執行される人」を意味する。
「失信被執行人」に対する懲罰にはさまざまなものがある。例えば個人の場合、公務員や公的機関の職員になる資格の停止、不動産融資の利用停止、高額消費の禁止(航空機や高速鉄道に乗れない、三つ星クラス以上のホテルに泊まれない、子女が一定以上の学費の私立学校に入学できない、など)、中国からの出国制限などといった措置を受ける。法人の場合、債権や新規株式の発行制限、政府補助金の対象になれない、許認可事業からの締め出し、不動産取引の制限、日常業務や会計に対する監査の強化――といった措置の対象になる。
赤信号横断2回でブラックリスト
この制度は現実に機能しており、2018年11月だけで27万2000件の事例で「失信被執行人」が指定されており、一方で9万6000人が反省の意を示し金銭納付などによって「失信被執行人」指定を解除された。制度発足以来、これまでの累計で1644万人が航空機への搭乗を禁止され、538万人が高速鉄道の乗車ができなくなった。高速鉄道に乗車禁止とされた538万人のうち339万人がすみやかに自発的な信用回復措置を取ったというから、この「ムチ」は相当に効き目があることがわかる。
もっとわかりやすいところで言えば、福建省福州市では2018年12月から、歩行者が赤信号を無視して道路を横断する行為を3ヵ月以内に2回、もしくは1年以内に5回繰り返した場合、ブラックリストに載せると発表した。もちろんこれで即、上述のようなペナルティが課されるわけではなく、最初は警告、次に公開の譴責といった段階を経て、それでも改まらない場合に懲罰の対象となる仕組みではある。しかし街頭での顔認識システムの精度が上がり、実際に導入も進んでいる現在、赤信号横断でブラックリスト入りというのはかなり厳しい状況には違いない。
「芝麻信用」と「官」との微妙な関係
このところ中国の個人信用情報管理に対する関心が日本国内でも高まってきている。そのきっかけは前述したアリババグループの「芝麻信用」が広く知られるようになったことだろう。日本国内では、民間の商業ベースのサービスである「芝麻信用」と強制力を持つ国家の「全国信用情報共有プラットフォーム」の機能が一部で混同して伝えられるケースもあった。繰り返しになるが「芝麻信用」は民間のサービスであり、一方は国家による強制力を持つシステムで、本来、全く別のものである。
しかしその両者が混同されるのは無理もない面もある。両者の間には常に協力関係を模索する動きがあったからだ。たとえば2015年7月、「芝麻信用」は最高法院(最高裁)との間で双方の情報を連結し、「失信被執行人」に懲戒措置を与えるための忘備録に調印している。また中国南西部の貴州省政府は17年1月、芝麻信用と信用情報の利用協定を締結。同年5月には湖北省政府も同じく芝麻信用と正式に契約を結び、信用情報の共有、関連技術の開発などを協力して行うことを発表している。ただこれらの協力関係がどの程度、具体的な措置に結びついたかは明らかではない。
「芝麻信用」の側の姿勢も揺れ動いた。2015年「芝麻信用」スタート当初、個人の信用情報を点数化してわかりやすく示し、個人が自らの信用を大切にする意識を高めたのはアントの功績だ。しかし2016年ごろから「芝麻信用」の機能は、債務履行能力に対する評価や優良顧客の囲い込みといった商業的な機能を超え、結婚や就職、学校への入学などにも活用される「人間そのものの格付け」という色彩を帯び始めた。
2017年1月、アリババグループの総帥、ジャック・マー(馬雲)会長が世界経済フォーラム(ダボス会議)で行った「芝麻信用の評価点数は恋愛の必要条件になる。彼女のお母さんは『娘と付き合いたいなら点数を見せなさい』と言うだろう」という趣旨の発言は、その象徴だ。ここには「芝麻信用」の効果に関して一種の奢りが感じられる。結婚や就職という人生の大事を一民間企業の信用評価ポイントが左右する。しかも企業家がそれを公の場で得意気に語る。それは外の世界から見ればかなり異様な光景といえた。
進む「芝麻信用」の機能縮小
こうした傾向に対して金融当局は露骨に不快感を示した。それ以前、2015年から当局はアントを含む信用情報を扱う民間8社に対し、個人信用情報を扱う資格の認可申請を出させ、継続的に審査を行ってきた。しかし18年1月、当局はアントを含む全ての申請者に対して「不許可」を通知。そのかわり上記8社に業界団体を加え、計9者で全国統一の信用情報調査会社「百行征信有限公司」(略称・「信聯」)という官主導の企業を設立し、個人信用情報の取り扱いはこの「信聯」に集約するとの方針を決めた。つまり「芝麻信用」は個人信用情報に関する業務は単独ではすでにできなくなっている。「芝麻信用」のアプリを見ても、現在では本来の与信機能は薄れ、商品のレンタルやホテル宿泊などの際のデポジット免除など商業的なサービスにほぼ限定されたものになっている。
中国のメディアには「芝麻信用の役割は終わった。アントは現状とは全く異なる金融サービス提供企業に業態転換するしかないだろう」との見方もある。前述した浙江省杭州市の「銭江ポイント」誕生の経緯などを見ていると、確かに民間の金融サービスとしての「芝麻信用」はすでに居場所がなくなりつつある感が強い。今後、個人の信用情報管理や信用度の格付けは「官」中心に行われていくことは間違いないだろう。
品行方正な人の多い社会になる?
こうした中国の政府主導の個人信用情報管理のシステムが、現実的に大きな効果を持つことは否定できない。悪質な債務不履行や夜逃げ、借金の踏み倒しといった行為は確実に減るだろうし、街中に大量に設置されたモニターカメラや顔認識システムなどの効果もあって、不法なゴミの投棄や交通違反なども間違いなく減るだろう。ボランティア活動に参加したり、献血に協力したりする人も増えるに違いない。中国社会は品行方正な人の多い世の中に本当になるかもしれない。
これはこれで薄気味悪い社会ではあるが、しかし最大の問題は政治との関係である。中国の社会信用体系構築に影響力を持つとされる北京のある大学教授はメディアのインタビューで「“社会主義核心価値観”を信奉する人は、日頃の行動もまともになるはず」と語り、経済的側面だけでなく道徳的な面も点数評価に加えるべきという趣旨の発言をしている。もしこの論理が通るなら、事実上、個人の「思想の正しさ」が点数化され、日常生活の利便性、事業機会の大小、子女の教育機会にすら大きな格差がつくことになりかねない。
将来の話ではない。すでにこういう段階に中国社会は来ている。中国という国の今後の動向に、この個人情報管理システムは決定的な影響を与えることになるだろう。
次世代中国