心とICTで認知症の方の笑顔を増やす!~「豊かな心の世界」を目指す大阪大学とNECの挑戦~
2023年3月、NECと大阪大学は、大阪府豊中市のサービス付き高齢者向け住宅「柴原モカメゾン」で、これまでにない実証をスタートさせた。これは、デジタルツインを活用することで、高齢者介護や認知症ケアが抱える課題を解決し、介護環境に「豊かな心の世界」を創り出すことを目指したもの。今回の実証で見えてきた、新たな可能性とは何か。このプロジェクトに携ったメンバーに話を聞いた。
デジタルツインで「豊かな心の世界」の創出を目指す
──大阪大学とNECは、デジタルツイン(現実空間と同じ状況をデジタル空間に再現する手法)を高度に発展させた技術の開発を目指し、2021年に「NEC Beyond 5G協働研究所」(以下、協働研究所)を設立しました。なぜ産学連携で研究を進めているのでしょうか。
NEC 麻生:当研究所は、次世代技術の研究・活用を通して、社会課題の解決に取り組み、豊かで新しい社会を作っていこうという趣旨から設立されました。ただし、NECが持つICTを中心とした専門的知識だけでは、多様な社会課題を解決することはできません。新しい社会の実現には、大阪大学をはじめとした広い見識を持つ専門家や、現場で社会課題に直面している方々と連携することが欠かせません。
研究所にはいくつかのチームがありますが、我々のチームでは「高齢者介護」に焦点を当て、「AIや次世代通信技術は介護施設でどのように活用できるのか」、「デジタルツイン技術は社会課題解決にどのように貢献できるのか」という視点から、その実証を始めているところです。
──この実証では、デジタルツインを活用することで、介護環境に「豊かな心の世界」を創り出すことが目標として掲げられています。なぜ、「豊かな心の世界の創出」をゴールに設定したのでしょうか。
NEC 麻生:「豊かな心の世界」とは、「介護施設の環境をどのような場にすべきか」について、大阪大学や柴原モカメゾンの介護施設の方々と議論しながら作り上げたビジョンです。我々は介護施設のさまざまな問題を解決するために、将来こうあってほしいという願いも込めて、我々が目指すべき理想像を作り上げました。技術をどのように活用すればその理想にたどり着くのか、皆さんと議論しながら研究開発を進めているところです。
大阪大学 木多氏:ゴール設定に至るまでには、一定の期間が必要でした。認知症の方々を中心とした入居者さんの心の状態に環境がどう影響しているかを知るため、調査員が現場に通い入居者さんと対話しながら試行錯誤するうちに、介護を受ける側の人だけでなく、調査員や介護士もさまざまな気付きを得ていることを知りました。
介護者が一方通行で被介護者にサービスを提供しているのではなく、介護をする側、調査をする側、技術を提供する側も多くの学びを得ている。そのことに気付き、介護環境を「豊かな心の世界」にすることを目標にしたわけです。
NEC 麻生:「介護施設にICTを活用する」というと、介護ロボットのようなもの導入して支援や効率化をすることを想像しがちです。しかし、柴原モカメゾンの介護方針やモンテッソーリケアの話を聞くうちに、「ICTを使って単に効率化すること」がゴールではないということがわかってきました。その先にあるゴールは何かと考えたとき、それは「ロボットが介助してくれる空間」ではなく、「思いやりのある空間や場」を作りだすことだということに気付いたのです。
どうすればICTでそれを実現できるのか。センサーや映像認識の技術を使って「場の見える化」や「思いの見える化」を進め、環境と心の状態との関係を分析すれば手打ちが見えてくるのではないか。そんな想いから始まったのが今回の実証です。
リビングラボ実証で介護施設の「場を見える化」
──そうした考えのもと、協働研究所では、大阪府豊中市のサービス付き高齢者向け住宅(以下、サ高住)「柴原モカメゾン」 において、リビングラボの手法を用いた実証を2023年3月に開始していますね。
NEC 麻生:リビングラボとは、研究開発の場を人々の生活空間の近くに置き、生活者視点に立った新しいサービスや商品を生み出す活動の手法です。今回の実証では、単に研究の技術面での検証を行うだけでなく、その技術はどうすれば課題解決に結びつくか、我々が設定した理想的な状態を実現するためには何が足りていないのかなどを、日々メンバーの皆さんと議論しながら検討している状況です。
今回、柴原モカメゾンでリビングラボの実証を始めたのは、『協働研究所』のメンバーでもある木多先生と杉田代表理事が、『柴原モカメゾン』を立ち上げ、運営されていたことが1つのきっかけです。少子高齢化社会や認知症介護問題というのは、日本が世界に先駆けて直面している社会課題であり、まずはこの課題に取り組もうと考えたのが、今回の実証を始めた理由です。
日本モンテッソーリケア協会 杉田氏:『柴原モカメゾン』はモンテッソーリケア・メソッドを取り入れたサ高住で、部屋数は10戸、入居者は中程度の認知症の方が中心です。
モンテッソーリ教育は「子どもの主体性や尊厳を尊重する幼児教育」として日本でもご存じの方も多いと思いますが、その教育メソッドを高齢者ケアに応用したのがモンテッソーリケアです。「できることは自分でできる、自分らしい生き生きとした毎日を過ごす」、そんな高齢者の尊厳を大切にし、寄り添っていく未来の介護のあり方です。
入居者の皆さんに、自分に合ったアクティビティと役割を持っていただきながら、自尊心を持って自主的に楽しく毎日を過ごしていただく。スタッフが100%介護をするのではなく、できることはしていただく。そのために、スタッフが1人ひとりを見守りながらケアをしています。さらに、1度できなくなったことも、もう1回できるようにアクティビティを通してサポートします。例えば、認知症の方が食事を自力で出来なくなったとしても、桶から桶へ、色のついたわかりやすいプラスチックのボールを大きいスプーンで移すアクティビティを行うことで再び自食出来る様になり、その結果、嚥下機能もよくなります。また、家族の顔を忘れてしまっても、家系図と家族の写真を繰り返し見てもらうことよって、家族の顔を思い出してもらうわけです。
大阪大学 木多氏:今回の実証には、柴原モカメゾンの入居者さんや介護士、技術者、研究者など、さまざまな立場の人が関わっています。例えば、施設の気温・湿度、天気、月の満ち欠けなどの変化によって、入居者さんの顔の表情や言葉、行動にどのような変化が表れるのか。さまざまなデータを収集・分析しながら、環境と心の状態の関係を明らかにしようとしているところです。
NEC 麻生:具体的には、気温と湿度のデータは、各居室やリビングルームなどにセンサーを設置して取っています。入居者さんの心理的変化を表す「言葉」や「行動」、「表情」を指標(フレーズインデックス、ビヘイビアインデックス、フェイスインデックス)としたデータも収集しています。これについては、入居者さんのプライバシーに配慮しつつ、承諾を得ながら徐々に開始しています。
NECは、映像情報から行動や人の表情を分析する技術、蓄積したデータから行動を予測する技術も持っているので、今後さらに多くのデータを収集して分析を進めていきたいと考えています。
現在は調査員が現場に行って、「Aさんはこういう発言をした後、こういう行動に移りやすい」などのデータを調査、分析をしています。しかし、この方法では収集できるデータの正確性や調査できる時間にも限りがあるので、将来的にはセンサーを用いてこれらのデータを収集・分析し、さらには入居者さんごとに傾向を分析した情報を介護士の方にお伝えすることを実現したいと思っています。
プライバシーに配慮しつつ必要なデータをいかに収集するか
──実証の際、特に配慮しているポイントや苦労した点があれば教えてください。
日本モンテッソーリケア協会 杉田氏:一番配慮しているのは、入居者さんにストレスを与えないことですね。例えば、食事の時間帯に実証のための作業をしようとして、入居者さんから「食事中はバタバタしないでね。私たちは家でご飯を食べてるんだから」とお叱りを受けたことがあり、食事中は静かにするよう気を付けています。
それから、各居室に温度や湿度、照度などがわかるワイヤレスセンサーを設置したのですが、認知症の方がそれを発見して、「これは盗聴器なの?」と不安定にさせてしまったことがあります。本当にきめ細かい配慮が必要だということがわかり、リビングラボの難しさを実感しました。逆に、そういう気付きが今後の製品化に生きるのではないかとも感じましたね。
NEC 麻生:「ICTをいかに人や環境に馴染ませるか」という点で苦労しています。例えば、バイタルデータをとるため、入居者さんにお願いして腕時計型のウェアラブル端末を付けてもらったのですが、やはり違和感があったようで、端末を花瓶の中に隠して水没させてしまわれたんです。そこで現場の介護士さんに同じ端末を身に着けていただき「お揃いの時計だね」「これを付けると元気になれるよ」などのコミュニケーションをとりながら、時間をかけて少しずつ馴染ませていきました。
入居者さんにストレスを与えないために、センサーやカメラなどのICT機器が単なる物体として存在しないようにいかに空間に馴染ませ、溶け込ませられるかが大きなポイントとなります。これらの導入には現場の介護士さんの支援なしには絶対にうまくいかないこともわかりました。
大阪大学 木多氏:私が気付いたのは、「入居者さんのデータを取り過ぎてもいけない」ということです。例えば、入居者さんが自室のトイレの中で倒れていたら、すぐに察知して駆け付けないといけない。かといって、トイレの中の様子が何もかも見える化されれば、プライバシーの侵害になる。入居者さんに配慮しながら、どこまでデータを取ることが許されるのか。それを考えることが最先端技術を活用する課題の1つとなっています。
「思いやりのある空間」作りにICTが貢献できる可能性
──実証を通じて、どんな気付きや手ごたえを感じましたか。
大阪大学 木多氏:私が感じたのは、「状態は伝染する」ということですね。先ほどもお話があったように、今回の実証では、心の状態を表す指標として「フレーズ(言葉)、ビヘイビア(行動)、フェイス(表情)」というデータを取っているのですが、調査の結果、入居者さんの心の状態がお互いに影響し合うことがわかってきました。「場」というのはまさに空気感で、誰か1人の調子が悪いと周囲に伝染するんです。
例えば、誰かの調子が悪くて怒りっぽくなると、他の方も気分が不安定になる。逆に他の人の調子がいいと、普段は怒りっぽい方の状態も安定する。このような「場」づくりにデジタルツインの力と技術を活用して、「場を良くしていく」ことに寄与できればと考えています。
NEC 麻生:現在は、一部のデジタルデータと介護士や調査員の記録に基づく情報を活用して分析しています。温度・湿度、照度や騒音などの環境データと言葉、行動、表情の情報に照準を合わせていますが、それ以外にも、空気質や映像・音楽、匂いなどのさまざまな要件が重なり合って一定の状況が起きているのだと思います。今後は、さらに数多くの環境変化をデジタルデータとして収集して、どのような条件が重なり合えば、特定の行動が引き起こされるのかについてさらに具体的に分析する。つまり環境と心の状態との相関関係が見えてくれば、「入居者さんの調子が悪くなったとき、どのように環境を変化させてあげればよいか」という打ち手が見えてくると考えています。
日本モンテッソーリケア協会 杉田氏:今回の実証を通じて一番大きな気付きとなったのが、「入居者さんの目線で物事を考えることができた」ということです。もちろんこれまでもやっていたつもりでしたが、今回の取り組みをきっかけに前よりも深く、入居者さんの目線で見ようと心がけるようになりました。デジタルツインを用いて、自室の様子がわかり、自室と共同の場の両方にわたって、入居者さんの日々の生活や性格についての理解が深まれば、入居者さんの幸せにつながるだけでなく、ご家族もより安心して社会で活動できる。そのお役に立てることがとてもうれしいと感じました。
NEC 麻生:隔週で開催している打ち合わせの場で、現地調査を担当している大阪大学のメンバーから施設内の状況を報告していただいています。その内容を皆さんで共有・議論して、課題に対しては、「この技術の組み合わせで解決できるかもしれない」といった検討と現地での試行を繰り返しています。その際には、常にメンバーと設定した理想的な介護の姿である「豊かな心の世界」を創り出すことを目標に進めています。
認知症になっても自由に生きられる世界を目指して
──今後の展望や、今後にかける思いをお聞かせください。
NEC 麻生:今後は、収集するデータ項目をさらに増やしたいと考えています。活動当初、現場の課題解決の為に必要なデータの候補が相当な数ありましたので、重要かつ実現可能な部分から順に着手しています。いずれは、二酸化炭素濃度などの空気質や食事の匂いなどについてもデジタルデータでわかるようにしたいのですが、こうした分野のセンサーの入手は難しく、研究開発中のものもある。今後はその分野の専門の方々にもこの活動のメンバーになっていただき、一緒に検討したいと考えています。
日本モンテッソーリケア協会 杉田氏:ケアに関わっている立場から言えば、もっと寄り添えるようになれたらいいですね。もちろん、入居者さんにもプライバシーがあるので、カメラを設置して居室の中を見ることは難しいとしても、センサーなどを活用して「まるで見えているかのような目線」を持てるといいな、と思います。そうなれば、入居者さんが何をされているのか、どれだけお菓子を食べてられるのか、何時から寝てられるのか、どんな気持ちで過ごしているのかもわかる。介護士がそれを理解した上で、共用のリビングルームでフォローできる。こうした細かな心がけによって、介護の質の向上にさらにつながるのではないかと思います。
大阪大学 木多氏:いわゆる社会的弱者や障がいを持つ人に接するときは、同情心ではなく、仲間として敬意を表すことが大切だと、大学のある先生から教えてもらったことがあります。同情すると、「自分はそうなりたくない」という気持ちが相手に伝わって、それが互いを隔てるバリアになってしまう。
私もここでの経験を通して、敬意の大切さを身をもって実感しています。「この認知症の方は、何か大切なことを皆に気付かせるために頑張ってくれているんだ」と思い、心から敬意や感謝の気持ちを持つと、場の空気が変わるんです。認知症の方がとても穏やかになって、普通にお話しできるようになるんですね。
その空気感をデジタル化し、客観的な形式知で示すことができれば、本当に貴重なエビデンスが得られると思いますし、自分の心の成長にもつながる。この実証が、こうした状況を作り出すきっかけになるといいなと思います。
NEC 麻生:空気感という意味では、物理的な環境や周囲の人の発言、行動、表情など多くの要素が組み合わさって、入居者さんが「居心地よい」と感じられる空間ができている。それらを構成するデータを統合して可視化したのが、「デジタルモカメゾン(柴原モカメゾンのデジタルツイン)」です。
さまざまな指標をデジタル化してデータを蓄積することができれば、「なぜ、この入居者さんはそういう行動をとったのか」を高精度に分析できるようになり、さらに理想的な環境づくりに繋げていくことができると考えています。
とはいえ、場所や電源の制限から、施設に設置できるセンサーの数には限りがあります。そこで、協働研究所の他チームが研究を進めている少ないデータでも高精度なデジタルツインを実現する「確率的デジタルツイン」という技術の活用も検討しています。
日本モンテッソーリケア協会 杉田氏:GPSがない時代には、認知症の親御さんがいなくなると、「どこに行ったのか」と家族総出で探しました。でも、今は携帯電話や1年程度は電池交換不要な位置センサーを持ち歩けるようになったので、認知症の方も問題がない範囲で自由にお散歩できるようになった。違和感なく技術を使いこなすことで、自分らしく生きることができているわけです。
認知症の方も、次世代の技術を使って、街中のどこにいても自分らしく生きることができたら本当に素晴らしいですよね。私たちもいずれは介護を受けるでしょうから、未来の私たちのために、今、これを研究しているといっても過言ではないのです。自分たちが認知症になったとしても自由に生きられる世界を作っていくのだと思うと、すごくワクワクしますよね。
NEC 麻生:NECのメンバー同士では、方針に悩んだときにはいつも「将来、自分が入りたいと思える場所を作ろう」と話しています。将来自分がこの介護施設に入るとしたら、どのような空間であってほしいのか、どのように見守ってもらいたいのか。さらには、施設内だけにとどまらず、この活動を高齢者介護にやさしい地域、街づくりへと発展できればと思っています。他人事ではなく常に自分事として考えリビングラボで議論しているので、将来この施設に入居する日が来ることが楽しみです(笑)