保育士不足を救え!「感情」からたどる、働き方改革と魅力向上
少子化対策や女性の就労支援の一環として、保育体制の充実が叫ばれる一方、保育士の人材不足が深刻化している。そんな中、保育現場の課題解決に向けて、ICTを活用する取り組みも始まっている。2020年、守山市認可保育園と加古川市認可保育園で、NECが開発したNEC 感情分析ソリューションを活用して、保育士の感情を分析する実証実験が行われた。保育士が働きやすい環境の整備に向けて、小さくて大きい第一歩である。感情を分析することが保育士の働き方改革にどうつながるのか。その取り組みについて紹介したい。
なぜ復職しないのか? すべてはその疑問から始まった
2019年10月、「幼児教育・保育の無償化」がスタート。国を挙げての子育て支援の幕が切って落とされた。しかし、その受け皿となる保育園では、ある深刻な問題が顕在化している。「保育士の人材不足」である。
厚生労働省が2013年に行った調査では、保育士の資格を持ちながら、保育士としての就職を希望しない人の割合は48.5%と半数近くに上った。また、保育士として一定期間働いた後に離職してしまう人も多く、こうした“潜在保育士”の数は、実に75万人を超えるといわれる。
保育士歴30年の木村 路子氏が、潜在保育士の問題に関心を持ったのは、自らの体験がきっかけだ。27年勤務後、一度保育園を退職し、地域の育児支援に取り組んでいた際、「実は私も、若いころに保育士をしていたんです」という何人かの“潜在保育士”の母親に出会ったという。
「確かに保育士として培ったキャリアがあるはずなのに、『私にはもう無理です。保育士には戻れません』と、皆さんおっしゃるわけです。保育士の仕事はしんどいけれど、誇りが持てる仕事でもあるはず。保育士である自分を否定しないでほしい、保育士としての自分を語れる場を作りたい――そう思い、『SHIGA潜在保育士部』というコミュニティを立ち上げたのです」
保育士を目指した人たちは、子どもと接することが好きで、夢を持って保育士になったはず。なぜ、一度離職すると現場に戻ってこないのか。保育士不足の問題を解決するためには、保育士が生き生きと誇りを持って働ける環境を作ることが必要ではないだろうか――。
そう考えた木村氏は、滋賀県守山市の認可小規模保育園「くらら保育園」からの誘いを受け、園長に就任した。「子育て中なので、フルタイムは無理でも、パートタイムなら働ける」という潜在保育士の声に応えて、短時間勤務を導入。保育士の業務効率化にむけて、ICT活用なども検討している。
しかし、保育士はICTどころかパソコン操作に慣れていない人も多いため、余裕のない現場では導入が難しい。保育業界の枠組みの中で、課題解決に取り組むことには限界も感じていた。保育士の問題を、保育士だけで解決することは難しい――。そう考えた木村氏はICTや人材育成に長けたメンバーと問題意識を共有し、業界の垣根を越えた取り組みをスタートさせる。それが、木村氏が中心となりよびかけたSHIGA潜在保育士部や、有志メンバーと共に立ち上げた共創型保育プロジェクト「E-ほいくプロジェクト Lab.」である。
「事務作業が多い」「給与が低い」など問題が顕在化
プロジェクトの序盤では幼児教育や、保育学科の学生や現役の保育士、潜在保育士を対象に、アンケートとワークショップを実施。その結果、「会議や事務などの間接業務が多く、子どもとかかわる時間が十分にとれない。もしくは保育士同士でコミュニケーションをとる余裕がない」「保育士の社会的地位が低く、給与水準が低い」といった課題が浮かび上がってきたと木村氏は語る。
「課題解決に向けたアイデアの1つは、全業務を『保育士にしかできない業務』とそれ以外の業務に分け、後者をアウトソースすることによって、保育士が本来の保育業務に集中できる環境を作ること。もう1つは、保育士キャリアパスを整備して、保育士のモチベーションアップを図るとともに、保護者に選んでもらえる質の高い保育園を作るということでした」
さらに、保育業務を効率化するため、IoTやAI、ビッグデータなどのICTを活用するアイデアも盛り込んだ。これらの施策によって、保育士の業務量を減らし、長時間労働を解消して、「子どもも親も保育士も幸せになる保育の共創」を目指そうというのが、本プロジェクトの眼目だった。
「保育士不足の解消というテーマは、ネガティブに捉えられがちですが、『保育とは子どもの成長を促し、人と人とのかかわりが生きる仕事だ』ということをアピールしたいという思いもありました。保育士という仕事の専門性を、世の中に広く知ってもらうことで、保育士の社会的地位を高めたい――そんな思いを込めてアイデアをまとめたのです」
感情分析ツールを活用し、保育士の感情の動きを可視化
アイデアの実現に向けて本格的な取り組みがスタートすることとなった。その1つが2020年1月に行われたくらら保育園とNECとの合同による実証実験だ。この実証実験は、NECが開発したNEC 感情分析ソリューションを活用して「保育士の感情分析」を行うというもの。保育士の手首にウェアラブルデバイスを装着すると、脈拍数などのデータが収集され、心拍変動解析や独自分析技術により、保育士の感情の変化を時系列で表示する。
緑色は「ハッピー」、黄色は「リラックス」、青色は「憂鬱・疲労」、赤色は「集中・緊張」を表す。このツールを利用して、保育士の1日の感情の変化を可視化し、「どのような仕事をしている時に、どのような感情を抱くのか」を明らかにしようという試みだ。
この実証実験を行うにあたって、木村氏や「E-ほいくプロジェクト Lab.」のメンバー、NECの担当者らが座談会形式でディスカッションを行ったという。
「保育士の感情を“見える化”できれば、職場環境を改善できるだけでなく、保育が楽しい仕事だと証明できるかもしれない。そんな思いから、NECとの合同実証実験に参加することを決めたのです」と、木村氏は振り返る。
こうして保育士2人にデバイスが装着され、実証実験は16日間にわたって行われた。
「分析の結果、保育士同士が連携して作業を行ったり、事務作業を行ったりしている時間は、赤(集中・緊張)が出やすいことがわかりました。散歩に出かける前は、子どもをトイレに行かせたり、着替えやお出かけの準備をしたりなど、同時進行でさまざまな作業を進めているので気に掛けることが多く、グラフが真っ赤になっています。散歩に行く途中も緊張感が高いのですが、目的地に着くと黄色(リラックス)が出て、保育士も楽しい時間を過ごしていることがわかります。それから、絵本の読み聞かせの時間も黄色が出ていて、保育士は楽しいと感じているんですね。散歩や絵本の読み聞かせなど、子どもと直接かかわり、やりとりしながら反応や様子を見て保育を深めていく『保育士本来の業務』を、保育士が楽しいと感じていることがわかり、とてもうれしく思いました」
実証実験に参加した保育士からも、自分の感情を可視化したことで、「保育の仕事ってやっぱりいいな、と思えた」という感想が寄せられた。「この感情分析という手法を活用すれば、データを蓄積して、保育士が働きやすい環境作りに役立てることができる。そんな手ごたえを感じました」と木村氏は語る。
保育の現場の見える化が、行政を動かすきっかけに
こうした木村氏の挑戦は、他の自治体にもさまざまな波及効果をもたらしつつある。2018年度に保育士の働き方改革のプロジェクトを立ち上げた、兵庫県加古川市もその1つだ。
加古川市の企画部 情報政策課副課長・多田 功氏は、2019年9月に開催された木村氏のセミナーを聞いたことがきっかけで木村氏と知り合い、情報交換を重ねてきた。
「加古川市では、平成24(2012)年度をピークに、人口は減少に転じています。今後も人口を維持するためには、子育て世帯にいかに加古川市に定着してもらえるかが肝になる。そこで、『子育て世代に選ばれるまち』という目標を掲げ、子どもたちにとって居心地のよい環境を作ることや、子どもたちを見守る保育士の方が働きやすい環境を作るための取り組みを進めています」と多田氏は語る。
とはいえ、保育に関する悩みは木村氏と同様だった。人材不足の保育園では、子どもの保育はもちろん、安全・衛生面の配慮、環境整備や施設運営に関する書類の作成や保護者とのコミュニケーションに至るまで、全業務を限られたマンパワーでこなさなければならない。膨大な業務量や長時間労働で保育士が疲弊してしまい、なかなか定着しないという。
「保育園は究極のアナログの世界。『園からの便り1つとっても、手書きのお手紙の方が、温かみがあって良い』とされます。そうしたアナログ文化は大事にすべきですが、役所に提出する書類などデジタルでよい業務も少なくありません。子どもたちの保育に十分時間をかけるためにも、ICTを活用できる部分は活用して、業務効率を上げた方がいい。アナログの世界だからこそ、日々、現場で起こっていることをデジタルで可視化する意義があると考えました」
ICT活用で保育園の業務効率化を検討する中、木村氏の挑戦を耳にし、「使えるかもしれない」と考えた。
そこで、加古川市でも2020年2~3月、市立川西こども園で、4週間にわたり「保育士の感情分析」の実証実験を行った。対象者は園長と主任の2名。管理職の負荷を軽減して、現場の保育士に目を向ける時間を増やし、マネジメントの質的向上を狙ったのである。なぜ管理職を実証実験の対象としたのか。その理由について、多田氏はこう語る。
「2018年に保育士の働き方改革のプロジェクトを立ち上げた時、園長先生と主任の先生が、給与計算、労務関連、外部との調整などの事務作業に追われていることがわかりました。その負荷を軽減すれば、園長や主任などの管理者が、現場に立つ保育士とコミュニケーションをとる時間が確保でき、人間関係にもプラスの効果をもたらし、保育士さんの離職に歯止めをかけられると考えたのです。
ただし、外から見ているだけでは、園長先生や主任の先生のお仕事がどれほど大変かはわかりません。客観的にも、どの業務を軽減すれば効果がでるのか、すぐにはわからないのです。そこで、感情分析のツールを使えば、『何が大変なのか』を可視化し、市内部への説得材料として使うことができると考えました。そうすれば、市側も保育現場の実態や課題の本質についての認識を共有し、改革をスピーディーに進めることができる。デジタルを活用して保育現場の実態を可視化することが、行政を動かすきっかけになると思っています」
地域の悩みに寄り添えば、社会を変えることができる
加古川市の取り組みはまだ始まったばかりだが、既に新しい未来に向けて動き出しつつある。
「今後は、分析データに対するヒアリングを進め、その分析結果をベースに、管理職の負荷軽減を進めていきたい。今、加古川市では、各保育園に事務補助の方を1人入れていますが、その方たちにどのような仕事をアウトソースするのか、内容を整理するのが次の課題です。園長先生や主任の先生の事務作業を減らすことができれば、今以上に子どもと接する喜びを味わい、若手の保育士を育てるやりがいを感じていただけるのではないかと考えています」(多田氏)
一方、くらら保育園の木村氏も、感情分析のデータによって「保育という仕事の“楽しい”を見える化できた」と顔をほころばせる。また、保育士の感情を可視化することで、働き方を変えることができたことも、感情分析がもたらした効果の1つだと感想を語る。
「例えば、保育士が行う事務作業の1つに『連絡ノートへの記入』があります。保育士は園児の数だけ連絡ノートに連絡事項を記入し、お迎えの時に保護者に渡していました。ところが、感情分析を行ったところ、事務作業をしている時には赤色(集中・緊張)が出ている傾向が多いことがわかりました。考えてみれば、連絡ノートを記入している時間帯は、ちょうど園児がお昼寝をしている時間。この間に保育士は連絡ノートをはじめ、保育書類記入、職員会議など、バタバタと追われています。そこで、連絡事項はできるだけ保護者に口頭で伝えるようにして、その分、連絡ノートに書く分量を減らすようにしてみました。もちろんこれが正解かどうかは、得手不得手もあるので一概には言えませんが、感情の可視化によって業務の見直しを行い、よりリラックスできる方法にシフトしたわけです。今後は、データ分析の専門家にも見ていただき、全体の傾向分析や働き方について、より深掘りしたアドバイスをいただければと考えています。データを活用することで、より一層大きな改革ができるのではないかと期待しています」
一億総活躍時代を迎えた今、健全な保育環境は、日本社会を支える重要なインフラとなりつつある。その一助として、「感情分析」ツールによる可視化が一定の有効性を発揮することが、実証実験によって明らかになったといえるだろう。