

デジタル維新—英雄たちの心のうち
スティーブジョブスとビル・ゲイツ。切磋琢磨した2人が描いた同じ夢とは?
Text:林 伸夫
情報が溢れ、あらゆるものがデジタル化している今、もはや「触れるデジタル」が当たり前に存在している。しかし、少し過去をふり返れば、タッチパネルはおろかマウスを使った操作すら、まるで魔法と感じられた時代があった。
世界をいきいきとしたデジタルで満たした先人たちは何を夢の先に抱いていたのだろうか? 第1回目はパソコン誕生のころに視点を定め、先人たちのその胸の内を探ってみよう。
林 伸夫(はやし・のぶお) 氏
1949年10月14日、山口県生まれ。1972年大阪大学基礎工学部制御工学科(現情報科学科)卒。1982年日経マグロウヒル社(現日経BP社)入社。ソフト評価委員会主宰、日経パソコン編集長、日経BP社システムラボ、日経MAC編集長などを歴任した。スティーブ・ジョブズ氏やビル・ゲイツ氏などIT業界の巨人に数多く取材をしている。
「そんなもの、現実を見たらできるわけない」と怒ったビル・ゲイツ
日経パソコンの副編集長だった三十数年前、私は日本法人のビジネスレビューをするために訪れたビル・ゲイツ氏とホテルオークラの和食・てんぷら屋「山里」の掘りごたつで向かい合っていた。Windowsがまだ形になっていない頃のことだ。
「なぜ、MS-DOSベースのパソコンはあんなに難しいのでしょう。大学でミニコンのOSを学んだ私でも難しいのに一般のビジネスマン、家庭のお母さんたちには到底使えません。AppleのMacintoshのようなやり方になぜしないのですか?」
私の言葉が終わらないうちに、ゲイツ氏は掘りごたつの中に敷いてある木製のすのこをダーンダーーンと踏みならし、「今のCPU、メモリー容量でできるわけがない。一般の人向けのパソコンに搭載できるメモリーには価格の制限があって、我々はその中でできうる最善の環境を提供している!!」
ビル・ゲイツ氏の頭の中には、私の投げ掛けた問題など、とうの昔に分かっている。おまえなんかに言われたくないという怒りが渦巻いていたのだろう。ゲイツ氏の考えはビジネス的には実にまっとう、正しい判断が行動に現れたものだった。
会社で設置するにしても20万円くらい、個人をターゲットにするなら10万円前後。その価格の中で実現できるメモリー容量と演算スピード、それにディスプレイ解像度。それらを冷静に勘案すれば、文字コマンドでコントロールするコンピューターを高性能化するとともにアプリケーションを整備するのが最善だ。背に腹は代えられないとゲイツ氏は考えていたのだ。
情報は手に取り操作するものに
あれから時は流れ、ゲーム機やスマホに慣れ親しんだ今どきの子供たちは壁のカウンターに据え付けた大きなテレビに触ってチャンネルを変えようとして、なにも起こらないのに戸惑った表情を見せる。彼らにとって「情報は手に取って操作できるもの」なのだ。触れば反応し、知りたいことはその場で目の前に提示される。この子たちにもってすれば、デジタル情報はまさに生きているものなのだ。
しかし、今のテレビは画面に触っても何も起こらないように、かつての電話は数字キーでしか操作できなかったし、パソコンは呪文のようなコマンドをスイッチやキーボードで入力するしかなかったのだ。かつてコンピューター、すなわち「電子計算機」は人が指定した手順で黙々と数値計算を行い、その結果を文字として打ち出すものだった。1940年代、表示デバイスはプリンター、60年代に入ってようやくブラウン管(液晶ディスプレイ以前に使われていた真空管式表示デバイス)だった。
そんな時代のコンピューターを操作するには当然、文字の「コマンド」だけ。難しく覚えにくいコマンドを1行ずつ順次キーボードから打ち込み操作する。まさに、専門的な教育を受けた選ばれし人しか、コンピューターは操れなかった。
誰もが使えるコンピューターを作ろう
コンピューターを稼働させるためには空調付きの専用の部屋を一室用意しなければならない時代に、小さな机の上でもディスプレイまで含めて置け、電源を入れるだけですぐさまプログラムが書けるようにしたのが「パーソナルコンピューター」の先駆けApple Ⅱだった。Apple Ⅱはパソコンショップからワンセット買って来て電源を入れればすぐにBasicというプログラミング言語が使えるようになっていた。しかし、いかに取っつきやすくなったとはいえ、1行1行プログラムを書き、でき上がったプログラムは音楽録音用の「カセットテープ」(!!)に保存して、次回利用時にはそこからまたプログラムを読み込まなければならなかった。しばらくして円板状の磁気媒体(フロッピーディスク)に読み書きできるデバイス(Disk Ⅱ)が登場し、飛躍的に効率は向上したものの、やはり、すべての操作はキーボードからのコマンド入力が必要だった。
そんな難しい呪文のようなコマンドを打たなければ使えないコンピューターなんて「パソコン」とは到底言えない。アップルコンピューター創設者の一人、スティーブ・ジョブズ氏はそう考えた。
画面は文字を表示するものでしかなかった時代に、あたかもそこに映し出された情報に直接触って操作しているかのような感覚を抱かせる一般人向けのパソコンを生みだす。その発想の飛躍は、できるとは誰も思ってもいなかった暗闇に明るい日差しを直接降り注がせる劇的なものだった。
画面上に示されたアイコン(図形)を見れば、それが何をするものかすぐに分かり、そのシンボルを矢印で指し示しクリックするだけで高度な処理ができるGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)を備えたLisaを完成させ、発売にまでこぎ着けたものの、当時としてはいかんせんあまりに高機能・高性能過ぎて売れ行きは芳しくなかった。
当時宝石のように貴重なメモリーチップ、大画面の高精細ディスプレイを装備したLisaは一般ユーザー向けに販売する機器としてあまりに高価すぎた。開発当初は2000ドル程度を目指すも、スティーブの想い描く機能を全部組み込んだ結果、販売価格は1万ドルを超えた。
米国最大の会計事務所などがニューヨークのオフィスに導入したり、先進的な大学が研究用に購入することはあっても、とてもAppleの次のビジネスプランを満たすものにはなり得なかったのだ。次第にApple社経営陣はLisaプロジェクトからジョブズ氏を締め出すようになる。
子供でも見ただけで使えるパソコンを作る
夢半ばのスティーブ・ジョブズ氏はここでさらに革新的なプロジェクトを打ち出した。コンピューターの底面サイズは電話帳以下、Lisaができるグラフィカルなユーザー・インターフェイスは継承しながら、さらに高速で動かす。(『スティーブ・ジョブズ 偶像復活』東洋経済新報社)
プロジェクトメンバーは社内ですでにのけ者になっているジョブズ氏からの無理難題に青ざめるものの、その押しの強さ、成し遂げられなければならない夢の価値は、全員が共感できるものだった。
開発がいよいよ本格的にものづくり段階に入る時、合宿で高級リゾートホテルに集まった精鋭達にジョブズ氏はこう叫んだ。
「海賊になろう!」
メンバーが本社のあるクパチーノに戻ってしばらく経った朝、そこには海賊旗が翻った。
これまでAppleがやってきたどんなプロジェクトとも真っ向からぶち当たる製品を作るのだ!
できないことはできるようにする、人々が思いも寄らない画期的な方法でやり遂げる。今の技術ではできないと言われていることをできるようにする。Macintoshチームはこうして結束力と破壊力を溜め込んでいった。

写真提供:マイナビニュース
その時スティーブ・ジョブズ氏の頭の中にあったもの、それはこの言葉に凝縮されるだろう。
”Computer for the Rest of Us”
1984年、Macintoshが発売開始となった時、パンフレットの大見出しに掲げられた言葉だ。「取り残されし人たちのためのコンピューター」。つまり、専門家だけにしか使えなかったコンピューターを誰でもが扱えるようにする! 画面を見たら5歳のチコちゃんにでも使い方が分かり、自然に使えるコンピューター。
ExcelはMacintosh用として生まれた
「すごいデスクトップコンピューターの構想があるんだ。クパチーノに来てそのすごいヤツを見てくれ。そしてそいつのためにすごいアプリを作ってくれ」。スティーブ・ジョブズ氏はシアトルのビル・ゲイツ氏を訪問し、新しいアプリの開発を依頼した。
ジョブズ氏とゲイツ氏は外から見ると反目しあい、互いに戦争を仕掛け、相手が倒れるまで戦い続ける宿敵のように見られるが、実はそうでもない。この時のジョブズ氏の説得でマイクロソフトは表計算ソフトのExcelをMacintosh向けに作り、その後Windowsが整備された後、移植した。つまりビル・ゲイツ氏はMacintoshの発売前からそのアーキテクチャーの隅々まで知り尽くしてはいたが、自分の手がけているビジネスには合わないと判断し、世の中の製造技術が追いついてくるのを辛抱強く待っていた、ということになる。
その後、本稿冒頭に紹介したビル・ゲイツ氏と筆者とのやり取りになる。そんな時に日本のパソコン誌の一編集者に本質的なところをばっさりと切られたものだから怒り心頭となったのだ。
Windowsは95年秋に登場した「Windows 95」でようやくMacintoshが実現していたスムーズな分かりやすさを備えたグラフィカル・ユーザー・インターフェイスに生まれ変わったが、言ってみれば長い雌伏の時をじっと耐えてきたのだと言える。二人の対照的なアプローチはビジネスにどう立ち向かうか、深く考えさせる問題だ。
現在MITのメディアラボ所長を務める伊藤穰一氏はウォールストリートジャーナルのテクノロジーコラムニストだったウォルター・モスバーグ氏と カーラ・スウィッシャー氏がステージ上でインタビューする「オールシングス・ディジタル5/2007」でゲストに招かれたスティーブ・ジョブズ氏とビル・ゲイツ氏がジョークを飛ばしあうのを間近に見た。
「今まで黙ってたんだけど、僕たちはもう10年も結婚してるんだよ(笑)」(スティーブ・ジョブズ氏)
「僕はフェイクスティーブなんかじゃないから(大爆笑)」(ビル・ゲイツ氏)
この年のD5インタビュー全編はAppleのiTunesで無償配信されているPodcastを見ることができる。(https://itunes.apple.com/jp/podcast/steve-jobs-and-bill-gates-together-in-2007-at-d5/id529997900?i=1000116232197&mt=2)

Macintoshの不振で自ら起こした会社を追われる
1984年1月22日に開かれた全米最大のスポーツイベント「第18回スーパーボウル」で流されたリドリー・スコット監督のMacintosh発売のコマーシャル映像はその衝撃的なメッセージで全米のテレビニュースにまで取り上げられるほどだった。デビューはジョブズ氏の計算通り、素晴らしいものだった。
しかし、現実はビル・ゲイツ氏のいう通り、Macintoshは一般コンシューマが手が出せる価格帯に収まらないばかりか、目指す機能を100%生かすにはさらにメモリーの追加、ハードディスク等の大容量記憶装置が必須となった。その結果、売上は計画を満たせず、スティーブ・ジョブズ氏は自身で創業したApple社を追われることになる。
その後凋落の一途を辿ったAppleはついに倒産寸前に追い込まれる。そのAppleを救うために戻ってきたスティーブ・ジョブズ氏が掲げたキャッチフレーズが「Think Different」。
「世界を変えられると本気で信じる人たちこそが本当に世界を変えている」の言葉通りジョブズ氏は、iMac、iTunes Music Store、iPhone、iPadとそれまでの既成概念からでは思いもつかない革新的な製品、サービスを次々と繰り出し、2011年8月10日にニューヨーク証券取引所の終値において、アップルの時価総額をエクソン・モービルを抜いて1位にまで押し上げた。比較のため東証での時価総額を計算してみると、時価総額ランキング上位5社分(トヨタ、NTTドコモ、NTT、キヤノン、三菱UFJ)の合計金額にほぼ匹敵する金額だ。(2011年8月29日時点での金額)
ジョブズ自身がナレーションを担当した、"Here’s to the crazy ones. クレイジーと呼ばれる人たちがいる"で始まるメッセージはスティーブが亡くなった後、Apple本社で執り行われたお別れの会で会場に流され、若い技術者、マーケティングスタッフを号泣させた。
クレイジーな人たちがいる
はみ出し者、反逆者、厄介者と呼ばれる人たち
四角い穴に 丸い杭を打ち込むように
物事をまるで違う目で見る人たち
彼らは規則を嫌う
彼らは現状を肯定しない
彼らの言葉に心を打たれる人がいる
反対する人も 賞賛する人も けなす人もいる
しかし 彼らを無視することは誰にもできない
何故なら、彼らは物事を変えたからだ
彼らは人間を前進させた
彼らはクレイジーと言われるが 私たちは天才だと思う
自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが
本当に世界を変えているのだから
スティーブ・ジョブズ氏自らがナレーションを担当したビデオがYouTubeにある。スティーブのような反逆者が居たからこそ、それまでできるとも思われなかった仕組みができ上がった。もし、彼のように突き進む人がいなければ、普通の人が使うパソコンに数10GBものメモリーが必要だと切迫したデマンドを感じ取れず、メモリーやCPUの精細化、大容量化、高速化に拍車がかからなかっただろう。
冷徹に研ぎ澄まされ落ち着いた声で語りかけるその説得力は今の時代でも強く心に沁みる。