

デジタル維新—英雄たちの心のうち
音楽配信を闇からすくい上げたスティーブ・ジョブズ
──NapsterのつまずきとAppleの理想
Text:林 伸夫
3月25日、Appleが新製品発表会を開いた。発表会のアプローチはいつもと全く異なり、集まった世界中のジャーナリスト、アナリストを驚かせた。それは「新製品の発表はゼロ」、代わりにコンテンツを一定金額で提供するネット配信ビジネス、つまりサブスクリプションモデルのみにフォーカスした発表会だったのだ。
ネット配信はまともなビジネスにはなり得ないと信じられていた時代に初めて合法的かつ優良なビジネスモデルを持ち込んだのがAppleだった。今回発表されたのは自ら2003年に切り拓いた新しいビジネスモデルを踏襲しながらも現代に生まれ変わらせたもの。コンテンツを提供し、受け手、制作者双方にリッチな体験を提供する。これからはここにこそ最も力を入れるとの宣言だった。
Appleはそもそもパソコン、スマートフォン、タブレット端末を提供するIT企業の頂点に立つ存在だ。最近はGAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)と呼ばれ、テレビニュースにさえキーワードとして登場するようになった。そんなAppleがIT機器・システムの話には一切触れず、自ら作り出すコンテンツを中心に置いたサブスクリプションビジネスに主力を置くと言い出したのだ。これは大きな異変でもある。
しかし、リッチなコンテンツをストリーミングで提供するというビジネスは今でこそ当たり前と受け止められているが、始まった当初は大混乱が世界を揺るがしていた。

林 伸夫(はやし・のぶお) 氏
1949年10月14日、山口県生まれ。1972年大阪大学基礎工学部制御工学科(現情報科学科)卒。1982年日経マグロウヒル社(現日経BP社)入社。ソフト評価委員会主宰、日経パソコン編集長、日経BP社システムラボ、日経MAC編集長などを歴任した。スティーブ・ジョブズ氏やビル・ゲイツ氏などIT業界の巨人に数多く取材をしている。
ほしい物は誰もが自由にタダで手に入る
1998年のある日、ノースイースタン大学に入学(計算機科学専攻)したばかりのショーン・ファニング( Shawn Fanning )は音楽共有ソフトの開発に没頭していた。ルームメイトがその頃はやっていたネットワーク内のMP3音楽ファイルを検索するソフトが役に立たないと不満たらたらだったのを見かねて何とかしてあげようと思ったのだ。
その当時、一般的な検索ソフトを利用した音楽の楽しみ方はこんな形だった。大学のコンピュータールームにあるサーバーにCDからリッピング(CDなどのデジタルデータをパソコンに取り込むこと)をした音楽ファイルを保存しておき、勉強の合間に聴く。友人が聴きたいと言えばそのサーバーのIPアドレスを教えてあげて自慢しあう。そのうち大学間のネットワークは充実し高性能化、違う大学のサーバーに置いたファイルもやり取りできるようになった。
MP3ファイル検索ソフトはそんな全米に散在する音楽ソフトを検索し、そのありかを伝えあう物に発展していった。さらに各個人のパソコンもインターネットに常時接続されるようになり、その音楽交換ネットワークは網の目のように広がっていった。CDで新譜が出たら、程なくネットのどこかに転がっていることが分かる。ダウンロードすればCD店舗に足を運ばなくても、タダで自由に手に入る。
しかし、使うには忍耐が必要だった。検索をかけても答えが返ってくるまでに時間がかかった。しかも、リストアップされた楽曲一覧は統一された書式にはなっていなかったし、せっかく見つけてダウンロードしようとしても「そのサーバーは見つかりません」とにべもない返事が返ってくることもしばしばだった。何しろ、その時代は回線そのものが電話線を使ったダイアルアップ式であったり、固定回線でも接続の度にIPアドレスが変わってしまうものだから、何度も何度も試行錯誤を繰り返さなければならなかったのだ。
これはなんとかしたい。ショーン・ファニングはパソコンやサーバーがコンピューターネットワークに接続した瞬間、互いに私はこんな曲を持っているよ、という情報を発信し、相互に1対1通信で送受信できるP2P(Peer to Peer)の仕組みを作り上げようとしたのだ。Peer to Peerとは1対1、送受信する端末同士が互いの接続情報を持ち合ってファイル交換を高速で実現するというものだ。
後の初代Facebook社長になるショーン・パーカーと起業
大学に入学したばかりのショーン・ファニングはP2Pの画期的なプログラム開発に昼夜を分かたず取り組んだがうまく行かなかった。これをやりとげるには大学になんか行ってられない。退学してもこのプログラムは作りあげる。大学入学の支援をしてくれた伯父さんには次の新学期が始まるまで猶予してもらった。こうして心血を注いで書き上げたプログラムが完成したのは1998年の8月だった。
よし、これをビジネスにしようじゃないか、と後押しをしてくれたのがショーン・パーカー(Sean Parker)。Napsterの共同創設者だ。ショーン・パーカーは後にFacebookの初代社長にもなる人物で素晴らしいビジネス嗅覚と才能を持った人物だった。
でき上がったプログラムは大衆に大喜びで迎えられた。Web業界のアカデミー賞とも目されるウェビー賞 (The Webby Awards) 、2000年の音楽部門賞にも輝き、その年の10月2日号のタイムマガジンの表紙も飾った。ユーザーは瞬く間に2000万人に迫った。

Napsterの光と闇
今振り返ってみるとなんとも恐ろしい犯罪行為としか思えない。ユーザーが勝手にネットにあげた楽曲を交換したため、CDの売上は1999年から2001年にかけて毎年10%以上の減少となった(RIAA:全米レコード産業協会調べ)。99年を境に全世界のCD売上は5年で半減してしまったのだ。
友達の誰かが1枚CDを買ったら全米の音楽ファンに行き渡ってしまうかもしれない状況だったのだ。しかし、2人のショーンには確実な勝算があった。当時の大きな著作権裁判としてソニーの録画機裁判がある。視聴者が私的な利用のためにテレビ番組を録画するのは著作権侵害に当たらない、としてソニーのビデオカセットレコーダーに対する判決が最高裁で1984年に確定した。この考え方に従えば、音楽利用者が自分の楽しみだけのために音楽CDからリッピングしパソコンに入れて楽しむのは合法なのだ、という解釈だ。
2人のショーンは「我々は音楽を売り買いしていない。音楽の在りかを示すインターネット上の場所を指し示すアドレスをリアルタイムで提供しているだけ。我々に著作権違反は当たらない」。実際、リンク先のサーバーやパソコンで不正行為が行われていることに対して責任を取らされるのならGoogleやYahooのような検索プロバイダだって存在し得なくなる。
リンク情報に関してはもう一つ頼りになる法律があった。1998年に成立した「デジタルミレニアム著作権法(DMCA)」だ。この中に「セーフハーバー条項」というのがある。リンク情報が誠実な順法精神に則って運用されているならその先の違法コンテンツに関してリンク情報提供者は責任を回避できる、というものだ。たとえばYouTubeに違法にコピーされた動画が投稿された場合、自身ないしは通報により気付いた段階で速やかに削除するなどの方策をとれば、事業提供者の責任は問われない。これを敷延して考えればNapsterのビジネスも事業者が著作権を侵害しているとは判断されない、と考えたのだ。
しかし、思わぬところから闇は表に出てきてしまうものだ。ショーン・パーカーが事業計画書を練っているときの電子メールをRIAA側の弁護士が手に入れてしまったのだ。「個人情報保護には特に注意が必要です。そのため匿名でシステムが利用できるように。特に違法コピーを扱うからには十二分な防御が必要です」「我々は単に違法コピーを消費しているのではなく、プロモーションにも寄与しています」

明らかに事業者が違法コピーという闇の中の宝を扱っていることを本人たち自身が意識してサービス展開している本音がぽろりと出てしまったものだった。この電子メールが決定的証拠として採用され、事業者たちが違法性を認識していたと断じ敗訴。 2002年6月3日。Napster社は3年持たずに操業停止に追い込まれた。
音楽を楽しむ環境をもう一段高める
Napsterが華々しいデビューを果たし、そして消えていったその前。2001年にAppleはパソコンで音楽を管理するアプリケーションソフト「iTunes」を世に送り出した。
アーティストやアルバムタイトル、楽曲名で聴きたい音楽を即座に探し出し自分好みのプレイリストを作って楽しめる洗練されたアプリケーションだった。その頃すでにジュークボックスのように楽曲を使えるアプリは各種存在してはいたが、いずれもろくな使い勝手ではなかった。音楽を楽しむにはやはりきれいなジャケット写真や参加アーティスト情報が一元的に取り扱えるようなものでなければならなかったのだ。
大事なのは、トップに立つ人間が音楽を愛し、自らがその音楽ソフトをとことん使いこなして楽しむこと。スティーブ・ジョブズは自分の好きなCDアルバムから選りすぐりのお気に入りをiTunesに登録し、楽しんだ。しかし、もう一つ足りない。こうしてiTunesに溜め込んだ楽曲を車の中でも、散歩しているときでも、ジョギングしているときでも楽しめないのか?
当時、MP3形式の音楽ファイルをSDメモリーに収めて持ち歩けるMP3プレイヤーがすでに数種類市場に出ていた。米国製の「Rio(リオ)」という製品は日本でも発売されマニアの間で評判になった。しかし、収録できる楽曲は機種ごとの内容量にもよるが数曲〜十数曲。曲名のセットは難しくて面倒、CDからリッピングした楽曲をRioに入れるために再エンコードしなければならないなど、よほどのマニアでなければ使いこなせない代物だった。
自分で使いたいスティーブにはこれが我慢ならなかった。散歩しているときにも持ち歩けて、好きな曲を思う存分保存できるもの。聴きたいと思う曲を一発で探し出せるヤツ。
持ち運ぶには性能のいい電池が必要だし、大容量のメモリーも必要。開発計画にゴーが出た2000年にはそんな部品は何一つなかった。ここでまたスティーブの悪い癖、いや神がかり発想が発揮された。現実世界にないものでも作り出す。それができないヤツはクソだ!
開発要員が必死に解法を探していた2001年2月。調達できる部品が何かないか、と日本を訪れていたハードウェア担当副社長ジョン・ルビンシュタインが東芝で凄いもの、大容量のメモリーを発見した。6月に試作品が完成するがまだ用途が見いだせず、どう売り込んで行くか考えあぐねている、というのだ。サイズは1.8インチ(1ドル硬貨と同じサイズ)という超小型、容量は5GBのハード・ディスクだ。それまであったMP3プレイヤーの数メガバイトの容量が1000 倍上の桁であるGBのオーダーに跳ね上がったのだ。それまでこの世に存在すらしなかったデバイスを見つけてしまったのだからルビンシュタインも興奮しただろう。
ちょうどその時、スティーブ・ジョブズも「MACWORLD EXPO/TOKYO」で基調講演をするために日本を訪れていた。ルビンシュタインは息せききってスティーブに報告した。「ついにお望みのものが作れるようになりました。1000万ドル(当時の為替相場で約12億円) の小切手さえあれば大丈夫です」。スティーブは即決した。(『スティーブ・ジョブズ II』:ウォルター・アイザックソン/講談社)
決まったらアップルの動きは速い。すぐに東芝にとんぼ返りしたルビンシュタインは生産数全数を買い上げ、独占販売のくさびを打った。
でき上がったものは素晴らしい製品だった。2001年10月、「iPod」を399ドルで発売開始。ポケットに1000曲というキャッチフレーズで飛ぶように売れた。MP3プレイヤーからすれば破格の高額商品だったにもかかわらず。

アーティストが十分に対価を得られる仕組みを作る
iPodを世に送り出したら、今度はそれに楽曲を供給する体制を考えなければならない。パソコンのCDドライブにCDを差し込むとiTunesに楽曲が取り込まれる。個々の楽曲情報はインター ネット上の楽曲データベースから自動的に同期取り込みされる。そこでiPodをつなぐと自動的に楽曲が同期される。実に簡単な操作で曲を外に持ち出すことができた。しかし、それでは欲しいと思った時にすぐに聴けない。
Napsterのような音楽共有アプリで音楽をダウンロードし、iPodに放り込むことももちろん可能だった。しかし、スティーブはそこに強く反対した。
音楽をiPodに入れたいときには、オンラインサイトを少し歩いてみればどこかにそれは落ちていた。蛇の道は何とか、である。だからといってユーザーは満足できたわけではない。
iPod発表の席でスティーブはこう分析して見せた。「望みの音楽はネットに転がっている。どこかから拾ってきてiPadに入れてしまえばそれでいい。でも、それで満足かい? 音は悪いし、時々音が割れている。途中で雑音は入るし、ひどいときには曲の途中で終わってしまってる。そんなんじゃ、音楽は楽しめないよね」
単にiPodが売れて儲けたいなら、ネットからのダウンロードを容認すればいい。しかし、それではせっかく音楽を作り出した人たちが幸せにはなれない。知的財産は守る。作品を生み出したアーティストが対価を手にできるようにする。本当に著作権を持っている人が十分に潤う仕組みを作るのだ、と奮闘した。iTunesストアを作り、そこに主旨に賛同してくれるレーベル、大手5社に参加を呼びかけた。「自らのために正しいことをしてくれと説得して歩くのにあれほど時間を使ったことはなかったよ」(『スティーブ・ジョブズ II』:ウォルター・アイザックソン/講談社)
大手企業のCEOが直接レーベルオーナーと交渉するなんて、一般的な企業では考えられない。しかし、スティーブは短時間で成功を引き出すにはこうするしかない、と突進したのだった。
また、独特のプロテクトも施した。iPodに流し込んだ楽曲は再び別のパソコンには書き戻せないようにした。常に自分の管理するiTunesにある楽曲のみ、自分のiPodに流し込めるようにしたのだ。これで友達と楽曲を交換することができない仕組みになった。この方策もレーベルの賛同を得るのに功を奏した。
こうして2003年4月、iTunesストアがスタートした。このビジネスの責任者、エディ・キューは、開始後6ヵ月で100万曲が売れると予想した。しかし、蓋を開けてみると大きく予想ははずれた。6日で100万曲が売れた。
この成功体験がAppleを大きく突き動かしている。今回、自社制作コンテンツを大量投入するサブスクリプションモデルに大きく舵を切ったのはそのDNAがますます強く働いたからだ。
(文中敬称略)