豊かさと持続可能性の両立は「メタ・ネイチャー」が実現する
~NEC未来創造会議・技術分科会レポート~
現代社会を支えてきた資本主義システムが限界を迎えていると言われるが、未来の社会はいったいどんなシステムによって支えられうるのか。持続可能な未来のシステムについて考えるべく、NECの未来創造プロジェクトはデジタル通貨の研究を続けてきた斉藤賢爾氏を招き技術分科会を実施。同氏の提唱する「メタ・ネイチャー」なる概念を巡って始まった議論は、社会システムのみならず「個」のあり方を問うものへと広がっていった。
未来の人間は「メタ・ネイチャー」を生きる
産業社会に資本主義制度、貨幣経済――わたしたちの生きる現代社会をつくりあげてきたシステムが、いま限界を迎えている。現代のシステムにはもはや持続可能性がなく、わたしたちの未来を考えるためにはこれまでと異なるシステムを構想せねばならないだろう。
「テクノロジーによる自動化が進んでいくと、これからの世界は社会環境と自然環境の区別がつかなくなっていくでしょう。これをわたしは『メタ・ネイチャー』と呼んでいます。それは超自動化分散社会環境とも言えるのですが、かつて狩猟採集社会で自然が生産したものを得たように、自動化と分散化が進むことで財やサービスは自動的・自律的に生産されるようになっていくんです」
NEC未来創造プロジェクトが開催した共創セッションにおいて、デジタル通貨の研究を専門とする斉藤賢爾氏はそう語った。本セッションは、今年で4年目を迎えたNEC未来創造会議が生み出したコンセプト「意志共鳴型社会」の実現に向けてゲストを迎えながら議論を重ねていく分科会のひとつ。今回は「2050年の人と社会づくり、そして、その目的」をテーマに、2050年の社会を見据えて豊かさと持続可能性をいかに両立させるのか議論を行なった。
斉藤氏は自身のレクチャーを通じ、メタ・ネイチャーなる環境が30年以内に実現されると考えていることを明かした。同氏はバックミンスター・フラーの『宇宙船地球号操縦マニュアル』を引きながら、分業化の時代が終わり、人間の本分と考えられた知的活動の多くが機械とアルゴリズムに置き換わると述べる。現在は鉛筆1本でさえ多くの人々の分業によってつくられているが、メタ・ネイチャーにおいては「鉛筆が木に生(な)る」ような環境が生まれてくるのだ、と。それはわたしたちの生活を支えるシステムが大きく変わることを意味している。
「いまの地球を支える“OS”は貨幣経済ですが、これは資産を多くもっている人ほど地球という“ハードウェア”を使えるシステムなので早晩限界を迎えるでしょう。その点、メタ・ネイチャーは、ハードウェアもアプリケーションも包含したシステムだといえます。人間と自然環境の関わり方が変わるし、ヒューマニティにも大きな影響があるはずです」
メタ・ネイチャーは一見非現実的に思えるかもしれないが、斉藤氏によればインターネットの父・村井純氏も「社会のサイボーグ化」という言い方で同じような変化を予見しており、そもそも人類史を振り返れば貨幣が存在しない期間の方が圧倒的に長い。現代のわたしたちが「当たり前」だと思っていることの多くは人類史においては当たり前ではなく、いまとはまったく異なる社会に変わることは大いにありうる。斉藤氏は再びフラーの言葉を引きながら、レクチャーを締めくくった。
「たとえばいまスペースコロニーをゼロからつくるとしても貨幣経済は生まれないですよね。べつに現代のような貨幣経済システムがなくとも、人類はこれまで無数のイノベーションを起こしてきたんです。メタ・ネイチャーをただの理想だと考える人もいますが、そうは思いません。『宇宙では、もっとも理想的なことがもっとも現実に即した実際的(プラクティカル)なことなのだ』とフラーも語っているのですから」
人間と環境のインタラクションを培うための体験
今回の分科会では斉藤氏に加え、NEC 研究開発ユニット/技術シナジー創造本部の浅井繁とNEC未来創造プロジェクトの小出俊夫も交えてクロストークが行なわれた。まずは「2050 年を見据えての「豊かさ」と「持続可能性」の在り方とは?」という問いを巡ってトークは始まる。
まず小出は斉藤氏のレクチャーをうけて「メタ・ネイチャーと人間の境界を考えたい」と語る。「たしかに持続可能な社会が生まれるのかもしれませんが、そのなかで人間がどんな豊かさを感じるのか考えたいんです。身体と環境の境界線もデジタル技術によって変わっていますし、わたしたち人間が主体的に豊かさと持続可能性のバランスを考えなければいけないのかもしれません」
小出の提起に対し、斉藤氏はポストヒューマンの概念に表れているように人間の身体は拡張されてきたと述べ、メガネやインターネットによって視界が広がったようにこれからもその拡張はつづくだろうと語る。さらに、豊かさを考えるうえでは「個」が重要だと続ける。
「富が共通の指標で捉えられるのに対して豊かさは一人ひとり価値観が異なっているので、技術を使って個をエンパワーしなければいけないでしょう。農耕社会のように人を社会の構成員とみなして個を失わせるのではなく、狩猟採集社会のように個とその繋がりを取り戻さねばなりません」
地球としての豊かさや社会としての豊かさなどひとくちに「豊かさ」といってもその種類はさまざまだが、斉藤氏はやはり個人の自己実現(大げさなものではなく、ありたい自分であること)が重要だと語る。浅井は斉藤氏の発言を受け、自身の経験を振り返りながら利便性と豊かさは必ずしも相関しないのだと語った。
「COVID-19によって、かつてのように自由に外出できることが幸せだったのだと実感しています。いまは外に出ずとも仕事や食事ができて不便を感じることもありませんが、豊かだとは思えない。究極の豊かさとは、自分の好きなことができることなのかもしれません。そのためなら多少の苦労は厭わないですよね」
たしかに現代社会はすでにあらゆる面で自動化が進み利便性が高まっているが、ただその自動化に身を委ねていても豊かさは得られないのだろう。小出も「人間は、自動化に身を委ねる側と、自動化を生む環境すなわちメタ・ネイチャーをつくる側とに二分されて分断されてしまうのではないか」と語る。斉藤氏はそうした分断を避けるうえでも「遊び」が大切になるのではないかと語った。
「遊びと学びは区別がつかなくて、子どもは遊びのなかで社会性を身に着けますよね。ただ、社会のかたちは遊びにも反映されるので、たとえばおままごとには現代の分業が表れてもいる。だからメタ・ネイチャーに即したおままごとのあり方を考えても面白いかもしれません。自動化によって人間が脳内に維持する知識は減っていく可能性もありますが、キャンプは火起こしなど現代社会から失われた知識をトレーニングして、自分がスーパーパーソンになる場でもあるし、ドラマや演劇は他者の人生を間接的に体験して楽しむことでもある。遊びを通じて知識を体験することは重要ですね」
小出は「遊びも学びも体験ですよね。体験を通じて得られる知識と知恵が重要で、そこから人間と環境のインタラクションが培われていくのだなと思いました」と応答する。社会の自動化を巡ってはしばしば人間が何もしなくなってしまう可能性が危惧されるが、その人が何者であるか、自身がどうありたいかを自動化することはできない。遊びや学びといった体験を通じてこそ、人は自動化され得ない機械には真似のできないヒューマニティを獲得するに至るのかもしれない。
企業は「カンパニー」から「コミュニティ」へ
クロストークは、次の問い「豊かさと持続可能性を両立するテクノロジーとは?」へと移っていく。従来的な成長や豊かさを保ったまま持続可能性を担保することは容易ではないが、メタ・ネイチャーはこの二者の両立を実現する可能性がある。ではその先でどのようにテクノロジーが作動し、どのような社会が広がっているのだろうか。
小出はまず「自由」をキーワードとして挙げる。「メタ・ネイチャーのなかではお金がなくなるかもしれないですが、なぜお金をなくすことが重要なのか考えたいんです。ユニバーサル・ベーシック・インカムのような考え方もありますが、それが正しいのか疑問もある。お金によって自由がどう変わるのかが豊かさと持続可能性の両立においても重要な気がしています」
そんな投げかけに対し、斉藤氏は「お金は支配の道具なんです」と応える。お金を社会に循環させていくことで人間は“歯車”となっていき、お金を発行する国が権力をもってしまう。「だからユニバーサル・ベーシック・インカムも支配の道具でしょう。自由とお金は折り合いがつかないんです」と同氏は続ける。浅井も斉藤氏の発言を聞いてうなずき、「物質的に満たされた状態が来るとお金はなくなるかもしれない。ただ国が公共サービスを維持するためには原資が必要なので、お金ではないべつの何かが生まれるのかもしれないですね」と語った。
お金に限らずさまざまな要因が個人を支配していくなかで、人々はどうすれば自由を獲得できるのか。小出は「支配とはべつの道を見つけられるようなテクノロジーはないんでしょうか」と語る。
「たとえばNECのつくる技術は公共的な意味合いが強くインフラとして重要なものだと思うのですが、これからはそれだけではなく一人ひとりがそれぞれのテクノロジーを育んでいく必要があるのだろうなと感じます。それはHow(どう使うのか)からWhy(なぜ使うのか)へと重要な点が移っていくことなのかもしれない。公共的かつ普遍的なテクノロジーと、一人ひとりがありたい姿を実現する主体的かつ個別的なテクノロジーの重要性が、自由を巡って変わっていくのだと思っています」
斉藤氏は小出の問いかけを受けて、ひとくちに「テクノロジー」といってもいくつもの意味合いがあり、いま議論しているものは単なる「技術」というより社会のなかでの運用体系も含めた「インダストリアルツール」として捉えられるべきだと語る。だからこそ、どんな技術を開発するのかだけではなく、それがどのようにつくられどのように実装されるかも重要なのだ、と。
加えて斉藤氏は、小出の考えるテクノロジーのあり方を実現するためには、NECが「NPO」になるべきだと指摘した。企業のNPOへの転身は意外に思えるかもしれないが、小出はじつはNEC未来創造会議でも「Company」というあり方が見直されていたことを明かす。
「企業というプラットフォームはCompany(器)からCommunity(場)に変化するべきだと議論していました。これまでの企業は器としての利益を重視するあまりパーパスが見失われていましたが、これからはその企業のもつパーパスに共感する人が社内外を問わず集まってくる場こそが重要になっていくのではないかと思うんです」
豊かさと持続可能性をめぐる議論は、その両立に必要なテクノロジーを問うだけにとどまらず、それを社会へ実装していく企業のあり方も見直されていく可能性を提示した。これからの大企業は、大きなコミュニティになっていくのかもしれない。そのなかでは個人が歯車となるのではなく、むしろ個人の意志や主体性を実現するものとしてコミュニティが機能していくのだろう。浅井が「企業の論理だけでは開発できないものがあっても、コミュニティならば不確かな可能性を許容できるだけの余裕が生まれてくる」と語るように、企業だからこそ可能な資源の活用方法もありえるだろう。豊かさと持続可能性の両立に向けて、いま、人と企業、企業と社会、人と社会、あらゆる関係性が個を中心として再編されはじめているのかもしれない。