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これからのサイバー空間は、
人間のアイデンティティを更新する
~NEC未来創造会議2021年度第4回有識者会議レポート~

 2050年の未来からバックキャストし人が豊かに生きられる社会を構想するプロジェクト「NEC未来創造会議」が5年目のテーマとして掲げたのは、「ニュー・コモンズ」だ。インターネットが社会の分断を加速させるなかで人々が再びつながりあうためには、コモンズの概念をアップデートすることで新たなコミュニティや合意形成のあり方を考える必要があるだろう。

 都市空間における共有財や合意形成を問うた第3回の有識者会議に続き、第4回の会議ではサイバー空間をテーマに議論が行われた。すでにメタバースのように現実とは異なる空間の活用は盛んに行われており、今後ますますサイバー空間はわたしたちにとって身近なものとなっていく。ならば、この新たな空間とコモンズの関係性を考えなければこれからの社会を考えることもできないだろう。

 第4回有識者会議のゲストとして参加したのは、大阪大学COデザインセンター長の池田光穂氏だ。民族誌や医療人類学を専門とする同氏は「サイバー人類学」の提唱者としても知られ、インターネットの黎明期から文化人類学的視点を通じて情報通信技術を論じてきた。『WIRED』日本版編集長・松島倫明がモデレーターを務め、NECフェロー・江村克己とともに行われた議論は、情報通信技術にとどまらず「人間」や「アイデンティティ」を問い直すものとなった。

サイバー人類学はなぜ生まれたか

 インターネットをはじめとする情報通信技術は、わたしたちの生活を大きく変えた。インターネットが生み出すサイバー空間はしばしば現実空間に従属するものだと捉えられてしまうが、わたしたちの多くはもはやサイバー空間なしに生きていくことが難しくなりつつあるかもしれない。

 「インターネットの登場により、人と人のコミュニケーションや関係性も変わりました。たとえば教育を考えてみると、これまでは図書館に行ったり頭のいい人に質問したりしなければ正しい情報を得られなかったけれど、人々が等しく情報にアクセスできるようになった。これまでは先生が言わば“大名”のように偉い存在でしたが、先生の言っていることが間違っていたら生徒がインターネットで検索して間違いを指摘できるようになっていますよね」

 そう語るのは、大阪大学COデザインセンター長の池田光穂氏だ。文化人類学を専門とする池田氏は「サイバー人類学」の提唱者としても知られており、文化人類学をベースとした独自の視点から情報通信技術の進化を追ってきた。池田氏が語るとおり、インターネットによる情報の民主化は人間の関係や社会の構造をも変えてしまうのかもしれない。

 しかし、池田氏は3,000〜4,000年前から人類は原始宗教やシャーマニズムを通じて同じ現象を体験していたはずだと続ける。たとえば子どもが熱を出して寝込んでいる人から相談されたシャーマンは、何らかの精霊を自分の体に下ろしてその人へアドバイスを授ける。「それはまさにメタバースのように現実とは別の空間から情報を取得して現実へとフィードバックすることだといえるでしょう」。シャーマンが儀礼を通じて現実とは異なる世界にアクセスしているように、現代の人類はスマートフォンを通じてインターネットにアクセスし、自分の知らなかった情報を得ているというわけだ。

 池田氏の指摘は、情報通信技術をより大きなスケールから捉えなおさせるものだろう。インターネットやSNSは新たなコミュニケーションツールではなく、新たな空間や文明なのかもしれない。だからこそ池田氏は「サイバー人類学」として人類学的なアプローチから情報通信技術を捉えようとしているのだろう。

 「古代の憑依や占いとインターネットによる予測の何が違うのか考えるうえで重要になるのが、エスノグラフィ(ethnography)だと思っています。通常、人々は自分の慣れ親しんだものを記述しそこねてしまいますが、エスノグラフィは些細なことまで記述することでその文化の特徴やほかの文化との差異を浮き彫りにできるはずです」

紀元前の中南米・エクアドルでシャーマンが霊界と交信するために使ったとされる祭具。(Attribution: Walters Art Museum, CC BY-SA 3.0, ウィキメディア・コモンズ経由で)

エデュケーションからラーニングへ

 池田氏の指摘を受け、NECフェローの江村克己はインターネットによる情報環境の変化が「教育」を変えていくのではないかと語る。

 「単に先生の言っていることが正しいのか否かを判断し正しい知識をインプットしていく従来の教育=エデュケーションは、情報環境の変化によって成立しなくなっている。これから重要になるのは、ただの知識ではなくそこから何を得られるのか考えるラーニングなのではないでしょうか。単に知識だけならサイバー空間で簡単に得られるようになったときに、教育がどう変わっていくのか気になりました」

 池田氏は江村の発言を聞いて頷き「エデュケーションからラーニングへと人々の学びは変化していると思います」と同調するが、「それも現代になって初めて起きていることではなく、形を変えてこれまで行われてきたことでもあるでしょう」と続ける。むしろ人類の学びはエデュケーションとラーニングを往復することでつくられてきたものなのだ、と。

 「エデュケーションもある程度まで行くとラーニングに変化するタイミングが来ると思うんです。たとえば英語の受験勉強を考えてみてもいいかもしれません。最初はとにかく英単語を覚えていくわけですが、ある時から試験に出る英単語のような考え方が生まれ、特定のジャンルの単語や頻出語を覚えておけばいいと考える人が増えてきた。あるいは根性論でひたすら同じ問題を解けば学力が上がるという説もあれば、身体運動によって記憶力を向上させられるという説もありますし、いろいろな理論があるでしょう。単に覚えるだけならエデュケーションですが、こうする方が試験に有効だと考えるのはラーニングですよね。過去の経験から有効だと思われることをピックアップして理論づけ、演繹的に未来へ活用する。実証実験を通じて得られた答えを理論にフィードバックすることで、イノベーションが生まれてくる。ラーニングとは、つねにエデュケーションとの往還から生まれてくるものではないでしょうか。量が質に変わる瞬間が訪れるわけですよね」

 これまでわたしたちは時間をかけて情報や経験を蓄積させながら学びの質を変化させてきたが、サイバー空間は変化の速度を大きく変えるかもしれない。もちろんインターネット上にあらゆる情報が集まっているわけではなく、言語や文化による情報の偏りもあり、現時点ではすべての人が等しく情報にアクセスできるわけではない。しかし、こうしたサイバー空間の進化が続けば、学校や企業といった現実空間の営みも確実に変わっていくはずだ。

人は複数のアイデンティティを生きる

 「シャーマニズムの世界で生きている人からすれば、わたしたちはリアル中心主義者だと思われているでしょうね。わたしたちはこの世界とシャーマニズムのようにスピリチュアルな世界を非対称な関係として捉えていますが、彼/彼女らからすればふたつの世界は並置されていますから」

 池田氏がそう言ってサイバー空間と現実を並置して捉える可能性を指摘すると、議論のモデレーターを務める『WIRED』日本版編集長の松島倫明は「すでにわたしたちはマルチバースを生きているのかもしれない」と応答する。

 「TwitterのようなSNSをいくつも使い分けている現代のわたしたちも、SF世界のようなマルチバースを生きていると言えるのかもしれません。サービスごとに世界のレイヤーが分かれていて、複数の世界を行き来しながら人々は生活している。シャーマンがさまざまな人格をその身に下ろしていたように、わたしたちのアイデンティティも固定されたものではなく、多層的なものとして捉えられるのではないでしょうか」

 松島の指摘を受け、池田氏も「アイデンティティはいくつあってもいいと思っています。むしろアイデンティティがチャンポンになっている方がいい」と頷く。人類は近代化の過程で一人ひとりが揺るがない自己を確立しようとしてきたが、本来アイデンティティとはもっと“ゆるい”ものなのかもしれない。他方の江村もダイバーシティの概念に言及しながら、すでに多くの人は複数の自己を生きているはずだと説く。

 「近年ダイバーシティの重要性が説かれる機会は増えていますが、個人の中のダイバーシティはしばしば見過ごされているように思います。たしかに集団のダイバーシティも重要ですが、わたしたちはシャーマンでなくとも場面によってアイデンティティを切り替えていますよね。会社で働いているときのわたしと、学生時代の友人と会っているときのわたしと、Twitterに投稿しているときのわたし――人は多様なわたしをもちながら生きているわけです。マルチバースのような空間が広がっていけば、もっと個人のダイバーシティも豊かになっていく気がします」

 こうした変化もまた、サイバー空間の進化によってますます進んでいくのかもしれない。単一のアイデンティティを前提としてつくられてきた現代社会の倫理や文化は、アイデンティティの複数化によって揺らいでいく。その変化をつぶさに追っていくためにも、サイバー人類学のようなアプローチによる記録がこれから重要になっていくのかもしれない。サイバー空間の中で培われる実践の“適切”な倫理、それがサイバー倫理学だと池田氏は主張する。

ソーシャルVRプラットフォームとしてメタバースを提供する「VRChat」。アバターを通じて、多様な人々が交流している

「当たり前」から逃れるためのサイバー空間

 インターネットやSNS、メタバースといった情報通信技術の可能性を捉えるために始まった議論は、テクノロジーよりもむしろ「人間」「アイデンティティ」「倫理」といった抽象的な概念を問いなおすものとなっていった。今後さらにわたしたちが「当たり前」だと思っている現代社会の仕組みは変わっていくのかもしれない。

 「まだサイバー空間が整備されきっているわけではないですし、現時点では発展途上の空間として捉えないといけませんよね。たとえばコミュニケーションについて考えてみても、いまは現実空間での会話の方がデジタルツールによるコミュニケーションより優れたものだと捉えられがちですが、その関係性も変わっていくかもしれません。かつて社会の中にシャーマンがいたときは、普通の会話よりもべつの世界と対話できるシャーマンのコミュニケーションの方がすごいと思われていたわけですから」

 江村がそう指摘するように、コミュニケーションのあり方も変わっていくのだろう。池田氏もいまわたしたちが前提としているコミュニケーションも偏ったものだと指摘する。

 「これまでわたしたちのコミュニケーションは音声中心的な言語から始まり、文字のように視覚的な情報によってもやり取りできるようになりました。でもそれがすべてではないはずです。もし音声と文字だけでしかコミュニケーションをとれないならば、心を病んだ人や脳に障害をもつ人とのコミュニケーションの可能性が閉ざされてしまう。これからは触覚や嗅覚のような感覚を使ったインターフェースが登場するかもしれませんし、非言語的なコミュニケーションも増えていくでしょう」

 池田氏の指摘を受け、松島も「たしかに現代におけるVR/ARは専らビジュアルにアプローチするものですし、いま世の中で提示されているメタバースは非常に視覚的な空間だと言えるかもしれません」と頷く。わたしたちはサイバー空間について考えるとき、しばしば既存の現実空間や社会の構造を前提にしてしまうが、その先には単なる現実のコピーしか生まれないだろう。単一の自己や言語によるコミュニケーションなど、わたしたちがいつの間にか囚われている「当たり前」から逃れ出ることが、これまでの社会から疎外されやすかった人々や人間以外の動植物や環境をも包摂する新たな社会をつくることにつながるのかもしれない。