フェロー対談with 資生堂:
世界で最も有名な化粧品研究者×顔認証技術の生みの親
~エイジングケアと認証技術の頂から見える景色~
近年、老化研究は長足の進歩を遂げつつある。資生堂に入社以来、一貫してエイジングケアの研究開発に取り組み、化粧品では困難とされていたエイジングケアの領域を開拓した人物がいる。この分野のパイオニアとして世界的に知られる、資生堂のフェロー江連 智暢氏だ。一方でNECフェローの今岡 仁も顔認証技術を世に知らしめたフロンティアの1人である。2人に共通するテーマは人間の「顔」である。2人はどうやってその頂に上り続けてきたのか。2人の研究のアプローチや発想法、そして未来に見据える景色とは――。
SPEAKER 話し手
株式会社資生堂
江連 智暢氏
フェロー
株式会社資生堂みらい開発研究所フェロー。1990年資生堂に入社し、一貫してスキンケア領域の研究開発に従事。皮膚科学研究を基点に体系的なたるみに関する理論を生み出し、多くの主力製品を開発してきた。化粧品技術の世界大会IFSCCで前人未踏の4大会連続受賞を達成。IFSCCで行った基調講演で「世界で最も有名な化粧品研究者」と称される。国内外の専門学会で受賞多数。神戸大学大学院イノベーション研究科客員教授(兼任)。
NEC
今岡 仁
NECフェロー
1997年NEC入社、2019年NECフェロー就任。入社後、脳視覚情報処理の研究開発に従事。2002年に顔認証技術の研究開発を開始。世界70カ国以上での生体認証製品の事業化に貢献するとともに、NIST(米国国立標準技術研究所)の顔認証ベンチマークテストで世界No.1評価を6回獲得。令和4年度科学技術分野の文部科学大臣表彰「科学技術賞(開発部門)」受賞。令和5年春の褒章「紫綬褒章」受章。東北大学特任教授(客員)、筑波大学客員教授。
老化に伴う「たるみ」に化粧品でいかにアプローチするか
今岡:江連さんは1990年に資生堂に入社し、一貫してエイジングケアの研究開発に取り組んで来られたと伺っています。なぜ、就職先として資生堂を選んだのですか。
江連氏:大学では生物学を専攻したのですが、生物学とは、生物研究を通して「人類はどこから来てどこへ向かうのか」といった哲学的なテーマをひも解いていく学問なんです。資生堂は化粧品メーカーですが、人間社会や文化の領域にも深くかかわり、ユニークな研究や商品開発、生活文化の発信に力を入れている。そこに魅力を感じたのが、資生堂を選んだ理由です。
今岡:現在は「顔のたるみ」などの老化研究をされているそうですね。入社以来ずっと、その研究に携わって来たのでしょうか。
江連氏:最初のころは、もう少し基礎的な研究に取り組んでいました。例えば、有効成分のメカニズムを研究したり、有効成分を探索したり、その効果を検証したりといった研究です。
ところが、入社して数年も経つと、「世の中の人が本当に悩んでいることに、化粧品業界は対応できていないのではないか」と疑問を持つようになったのです。世の中の人が求めていることに、もっとダイレクトに貢献できないものか――そう思ったのが、現在の研究を始めたきっかけです。
今岡:とはいえ、20代後半といえばまだ若手ですよね。独自の研究を始めるにあたって、最初の取っかかりはどのようにしてつかんだのですか。
江連氏:私の研究テーマは、「老化に伴う顔のたるみに、化粧品はどう役に立てるのか」ということ。従来の化粧品は、規制の関係もあって、小ジワやシミといった肌表面の悩みにしか対応できず、「顔のたるみは美容整形手術の領域」だといわれていました。でも、顔のたるみは皮膚のたるみによって生じるわけですから、皮膚を対象とする化粧品業界にも、この分野で貢献できることが絶対にあるはずだと考えたのです。とはいえ、当時、この分野にはベーシックな定義も評価方法も存在しなかったので、まずはそれらを一つずつつくっていくことから始めました。
今岡:そうした定義や評価方法は、皮膚科などの医療分野にもなかったのですか。
江連氏:そうなんです。このため、すべてを自分で一からつくっていく必要がありました。例えば、「どのぐらい顔がたるんでいるのか」を評価しないことには、たるみの原因を調べることもできない。そこで、たるみの度合いを評価する方法をつくるところから始めました。
まずは「老化が進むと、顔のどの部分がどう変化するのか」を把握するため、たくさんの人の写真を撮って分類しました。さらに、その状態が段階的にどう進むのかを調査して、評価基準を数値化し、評価方法を確立して原因を解明するといった作業を一つずつ進めていきました。
領域を超えようとすると壁が立ちはだかる
今岡:江連さんは生物学出身なのに、やっておられることは物理学ですね。
江連氏:そうですね。たるみを改善するためには物理的な刺激を皮膚に与えるので、物理や生物、化学の手法も使いますし、たるみの評価にあたっては、「本人はどの程度たるみに気付いているのか」という感性的な要素も必要になる。この分野は、「領域を規定して掘り下げていく」研究スタイルでは難しいかもしれません。まず「たるみ改善」というターゲットありきで、必要なものをどんどん採り入れていく。そんな研究スタイルが合っていたような気がします。
今岡:企業の研究者とはそうあるべきで、「こういうことを研究したい、そのためには物理でも化学でも何でもやる」という考え方が必要だと思いますし、それを実践されているのが江連さんのすごいところだと思います。ところが、普通の研究者は、どうしても限られた研究領域の中でだけ生きていこうとするんですね。
江連氏:領域を超えようとして、その領域を専門とする研究者に話を聞きに行くと、「もっと勉強してから来てください」と言われたりするからなのかもしれません。かといって、違う領域のことを勉強するのに10年ずつかけていると、研究が一向に進まない。
今岡:やることが多すぎますよね。江連さんはチームというより個人で研究して来られたということですが、前途に立ちはだかる壁を1人で乗り越えていくのは大変だったと思います。その壁をどうやって乗り越え、ブレイクスルーをされたのですか。
江連氏:大きなブレイクスルーがあったというわけではなく、地道に少しずつ広げていったという感じですね。企業やアカデミアを問わず、領域を超えようとすると壁があって、その壁を超えるのが難しい。“領域融合”では人的な壁が立ちはだかるので、自分でやるしかないわけです。
門外漢が作法を知らずに研究を進めるのはリスクが大きいので、小さいことでも一つずつ論文にして、科学性を担保しながら次に進む。その作業を繰り返していくうちに、その領域を専門とする研究者にも認知していただけるようになりました。
今岡:その点は、僕と似ているような気がします。僕も、泥まみれになって領域の壁を超えるのは、別に嫌じゃないんですよね。新しいことがわかって、前に進めることの方が面白い。
研究は「山登り」に似ていると思うんです。一歩一歩、山を登っていくんだけど、なかなか頂上が見えない。江連さんは、研究に対してどのようなイメージを持っていますか。
江連氏:私も山は好きですが、いろいろな登り方がありますよね。「このルートで行くと何時間かかる。でも、ロープウェイで登るルートもある」というように。研究も山登りと同じで、俯瞰的に見るだけでなく、局所的に見たり視点をずらしたりと、意識的にコントロールしながら進める必要があるのかもしれません。
今岡:山登りでは「どう登っていいかわからない」ということもありますよね。研究を進める上で、取っかかりが見つからないときはどうしていますか。
江連氏:登っているときは、「ルートが全く見つからない」ことも多いですよね。そんなときは「全部やってみる」のも1つの方法だと思います。ソリューションに近い領域であればあるほど、生活者のレスポンスが読めないので、何が正解かわからない。思いつく限りのことを全部やり、組み合わせてみることが重要だと思います。
化粧品技術の世界大会において4大会連続で最優秀賞を受賞
今岡:江連さんは国際化粧品技術者会連盟(IFSCC)で、4大会連続で最優秀賞を受賞されました。僕も顔認証の精度では何度か世界でトップをとらせていただいたので、とても親近感を覚えます。僕は化粧品のことはよくわからないのですが、IFSCCというのは大変権威がある大会だそうですね。
江連氏:IFSCCは、世界中の化粧品会社が一堂に会して競い合う大会、この大会での受賞は最も価値があるとされています。世界的な化粧品メーカーが、技術とトレンドの両面で、“会社の顔”として恥ずかしくないものを出してくるので、その年の化粧品業界におけるトップを決めるような大会となっています。
この大会は、現在は 81の国と地域を代表する 51の団体の約 16,000 名以上の会員から構成されており、メイクアップ化粧品が中心の「口頭発表 応用部門」と、スキンケアにかかわる「口頭発表 基礎部門」、及び「ポスター部門」という3つの部門があります。例えば、2024年は口頭発表83件、ポスター発表605件、全688件の研究報告が行われました。
私は基礎部門で2回、ポスター部門で2回、最優秀賞をいただいています(※)。
今岡:それはすごい。まさに化粧品研究の第一人者ですね。
江連氏:そもそも、なぜIFSCCに応募したかといいますと、それには目的があったんです。
元々、化粧品の世界には、「化粧品とは皮膚の表面に対してアプローチするもの」という常識があったのですが、私は「老化による顔の形の変化に対応するため、皮膚のもっと深い部分にもアプローチしていく」研究をしてきました。要するに、従来の化粧品とはターゲットもやり方も違う、メインストリームではない領域で研究をしてきたので、IFSCCで認められることによって、化粧品業界の方向性や流れ自体を変えたいという思いもありました。世界的な注目度の高いこの大会で成果を出せば、後に続くフォロワーが現れ、おのずと1つの流れができる。そうなれば、この領域がもっと発展するのではないかと考えたわけです。
- ※ IFSCCで行った基調講演で「世界で最も有名な化粧品研究者」と紹介される
誰も見たことがない世界を自分が最初に見る喜び
今岡:研究を続ける中で、一番楽しい、面白いと感じる瞬間はいつですか。
江連氏:「明日、今まで誰も見たこともない世界が見れる」という期待感でしょうか。
例えば、昨日までは2次元で皮膚の解析を行っていたが、新たに3次元で解析する方法をつくった。すると、今まで全く見えていなかったものが見えてくる。じゃあ、今度は動きも入れて、4次元で見たらどうだろう。もしかしたら明日それができて、新しい何かがわかるかもしれない。そういったことを繰り返していると、「明日は何が見えるかな」と楽しみになってくるわけです。
今岡:僕も研究者なので、それはよくわかります。誰も見たことがない世界を、自分が最初に見る喜びですよね。
江連氏:そうですね。「山登りは準備している時が一番楽しい」という人がいますが、「明日は山頂からこんな景色が見えるかもしれない」とワクワクする気持ちに近いのかもしれませんね。
今岡:素晴らしい景色を求め、新しいものとの出会いを求めて、ひたすら未知の世界を探索していくイメージですよね。目的地に向かって、カヌーで行くときもあれば徒歩で行くときもある、というのが江連さんの研究スタイル。
僕の研究のやり方は少し違います。僕はひたすら顔認証の精度向上を目指す。この山の頂に登れば、その先に次の景色が見えるかもしれないと思い、高みを目指してどこまでも山を登り続けるイメージです。
ただ、顔認証を追求してきた結果、その先にはプライバシーの問題や多様な人種への対応、ヘルスケアへの応用など、新しい世界がどんどん広がっていきました。山に登ったことで開けた新しい世界に、今度はどんどん取り組んでいきたい。その点では、江連さんと共通するものを感じています。
実をいうと、顔認証の研究では、挫折しかけて研究自体が風前の灯となった時期もあったんです。江連さんは「ダメかもしれない」と思った瞬間はありますか。
自立した研究者の集合体が企業を輝かせる
江連氏:元々、ゼロから始めたようなものなので、実はそこはあまり意識しなかったですね。
研究者と企業のかかわり方は重要だと思っていて、研究者が独立した精神をしっかり持つことが大事なのではないか。自立した個人、卓越した研究者の集合体が企業を輝かせると思うんです。
個々の研究者が会社に寄り添いすぎて一喜一憂するのではなく、個々の研究者が輝いていて、それをうまく融合させているのが資生堂なのではないかと思います。化粧品にはいろいろな成分が入っていて、一つひとつの成分が際立っていなければならない。水と油のように混ざりあわない成分もたくさんあります。それでも際立つ個性をうまく混ぜ合わせて1つの製品にするのが、化粧品づくりの面白いところです。
企業と研究者のあり方も、それと同じなのではないか。化粧品を通して会社を見ていると、そんなことを感じますね。
今岡:僕は企業の研究者として、会社の利益と自分の利益が一致するところでまず自分が頑張る、それによって会社が良くなり、自分も恩恵を受けるというように、お互いが上っていけばいいと考えています。僕が顔認証の研究で成果を上げれば、会社にも1つの旗印ができて、僕も研究者として評価される。こうした関係性をつくっていくことがベストだと思うのです。
江連氏:日本では理系の大学院を修了した後、企業の研究職として就職される方が多いですよね。にもかかわらず、企業研究者という仕事の魅力が、一般には伝わっていないのが実情です。
フェローという立場を活用して、「企業研究者というのは、こんなに楽しくてエキサイティングで、世の中に貢献できる仕事なんだよ」ということを、世の中や子どもたちに伝えていきたい。それによって、科学立国日本のボトムアップにも貢献できるのではないかと思います。
今岡:江連さんは、今後どのようなことをしたいと考えていらっしゃいますか。
江連氏:化粧行為と顔認証はマッチングしやすい領域だと思います。2つの技術を組み合わせることで、新たなサービスが提供できるのではないかと思います。
今岡:例えば「表情」の研究、「人間はどのように顔の筋肉を動かしているのか」というテーマは面白いと思います。 真の感情が一瞬フラッシュのように見え隠れする表情のことを「微表情」といいますが、これについてはまだまだわかってないことが多い。そういう研究もご一緒できたら面白いですね。
今は顔認証によって健康状態を把握するようなサービスの開発に取り組んでいますが、ゆくゆくは脳や表情筋、瞳孔の動きも見ていきたい。それらを組み合わせることで、いろいろな形で健康状態を知ることが可能になると思います。
【編集後記】
江連さんのお話を伺って、フェローは一人ひとり違う、多様性のある存在なのだと感じました。自分の考えを持って主体的に生きることが大切で、自分の信じることをやり抜いた人が最後には勝つ。そんなことを考えさせられた対談でした。
NECフェローが語る新時代の道標