本文へ移動

次世代中国 一歩先の大市場を読む

「智慧養老(インテリジェント老後)」の狙いとは
中国の高齢者ケア「9073モデル」は機能するか

田中 信彦 氏

ブライトンヒューマン(BRH)パートナー。亜細亜大学大学院アジア・国際経営戦略研究科(MBA)講師(非常勤)。前リクルート ワークス研究所客員研究員
1983年早稲田大学政治経済学部卒。新聞社を経て、90年代初頭から中国での人事マネジメント領域で執筆、コンサルティング活動に従事。(株)リクルート中国プロジェクト、ファーストリテイリング中国事業などに参画。上海と東京を拠点に大手企業等のコンサルタント、アドバイザーとして活躍している。近著に「スッキリ中国論 スジの日本、量の中国」(日経BP社)。

親の老後を支えきれない

 今年4月、中国政府の国家衛生健康委員会(厚生労働省に相当)は記者会見で、今後の高齢者のケアについて「9073モデル」を中心に据えると表明した。「9073」とは、老後を自宅で暮らす人が90%、地域のコミュニティ(「社区」)を基盤に過ごす人が7%、施設に入所する人が3%――という意味である。中国政府の高齢者政策は、この線に沿って、自宅での生活、介護を基本に組み立てられていくことになる。

 中国では急速な経済成長と都市化、少子高齢化が同時に進行し、社会の変化に対策が追いつかない。加えて、伝統的な家族観の影響もあって、老後は自宅での生活を望む高齢者が多く、子供も両親の世話は義務と考える傾向が強い。しかし子供夫婦が共に一人っ子であれば、夫婦2人に親が4人。民間の老人ホームは少なく、料金も高いため、利用者は一部に限られる。このままでは子供が親の老後を支えきれない。

 そのような状況下、中国の政府が力を入れているのが、ITを活用、自宅での生活をベースにした「智慧養老(インテリジェント老後)」の取り組みである。スマートフォン(以下スマホ)ベースの技術を活用し、いかに低いコストで数億人の高齢者の快適な生活を実現していくか。国を挙げての取り組みが始まっている。動きはまだ緒についたばかりだが、今回は中国社会が「9073」に取り組む背景にはどんな状況があるのか、そんなことをお伝えしたい。

ワイワイ、ガヤガヤが大好きな中国の高齢者たち

 2020年末時点で中国の60歳以上の人口は2億6400万人(18.7%)、65歳以上は1億9000万人(13.5%)で、10年前、2010年の調査に比べ、その比率は4~5%増加している。ちなみに日本の65歳以上の割合は28.7%(2020年)で、中国はまだそれよりは低いが、2030年には65歳以上の人口は3億人(22.3%)を超え、高齢化が一段と進行することが確実になっている。

 中国社会が「9073モデル」を中心に高齢化政策を考える背景には、いくつかの事情がある。

 まず「未富先老(豊かにならないうちに老いる)」と形容されるように、老後のための資金の蓄積が足りない。日本の介護保険のような制度はまだ検討段階で、公務員や国有企業の従業員などを除いて年金制度も不十分だ。そのため不動産の高騰で資産を持ったり、事業に成功したりした一部の人以外、老後の生活資金は乏しく、子供が面倒みるか、公的な支援に頼るしかない国民が多い。老人ホームに入居する高齢者の比率が低い背景にはこの問題がある。

 中国的な家族観の存在も大きな要素だ。「老後は子供に頼る」「子供は親の面倒を見るもの」という基本的な価値観が中国社会には根強くある。良くも悪くも親と子の関係が近い。都市化、核家族化で意識は変わりつつあるものの、「老後に施設に入る」ことにネガティブな感覚は残る。このあたりの事情は「解体が進む中国の家(イエ)~出生数の急減が意味するもの」(wisdom 2021年5月)でも触れたのでご参照いただければと思う。

 都市部に住む両親は子供の近くにいたいとの思いが強く、都会を離れたがらない。しかし、地価の高い都市部では施設をつくるには多額の資金が必要で、なかなか前に進まない現状がある。

 また、中国は人間関係のネットワークでものごとを解決していく社会で、親しい仲間が集まってワイワイ、ガヤガヤにぎやかにコミュニケーションしつつ暮らすことを好む。1人では寂しくて耐えられない。特に高齢者は長年親しんだコミュニティへの愛着が強く、このことが地域を離れて郊外の老人ホームなどに入居する人の比率が低い大きな背景になっている。

※資料画像。本文の内容とは関係ありません

 こうした社会の特徴が、「9073」の根底にあり、政府がITを活用した「智慧養老(インテリジェント老後)」を推進する基盤になっている。

自宅から出ずに暮らせる社会

 一方で中国社会は、スマホをベースにした各種のサービスが欧米や日本などの先進国をしのぐレベルで普及している。中国の都市部では、スマホアプリを利用してスーパーのデリバリーを利用すれば、生鮮食品であれ日用品であれ、早ければ30~1時間程度で何でも自宅に届く。こうした生活様式が日常に溶け込んでいる。

 さらに飲食店や街の個人商店でも、アリババ(阿里巴巴)やテンセント(騰訊)、美団(Meituan)といったIT企業の買い物代行的サービスを使えば、大半のものが簡単に自宅で手に入る。どこかに行きたいと思えば、アプリの配車サービスで車を簡単に呼べるし、障がい者や高齢者のためにマンションの自室前まで運転手が迎え(送り)に来て車椅子を押してくれるサービスを提供するタクシー会社もある。家政婦の利用は中流以上の家庭ならごく普通に行われており、家の中のさまざまな物品の修理や自分の代わりに行列に並んでもらうといった、いわば「便利屋」的なサービスもスマホアプリで数多く提供されている。

 言ってみれば、アプリが使えて、一定のお金があれば、自宅から出なくても豊かな日常生活を送ることが可能なインフラが存在している。これらのサービスは特に高齢者向けにデザインされたものではないが、こうした柔軟なサービスが日常に定着しているのは中国社会の優位性だろう。これらのインフラを応用し、低コストで高齢者の自宅での生活をサポートするのは現実的な方法だと思う。

※資料画像。本文の内容とは関係ありません

住民組織「居民委員会」の機能

 加えて中国の社会には、末端の行政区画として「社区(コミュニティ)」と呼ばれる単位があり、その「社区」ごとに「居民委員会(居委会)」という住民組織が組織されている。地域の高齢者のケアに非常に大きな役割を果たすのがこの居委会である(居民委員会については「徹底的な隔離はなぜ実行できたのか~中国の『大衆を動かす仕組み』の底力」(wisdom 2020年3月)参照)。

 「居委会」は法的には住民の自治組織で、党や政府の機関ではないが、現実の業務では行政の下部組織的な役割を担い、いわば党や政府と住民の間に立って、さまざまな問題の解決にあたる。住民間のトラブル仲裁、敷地内の違法駐車が多くて困る、ペットがいなくなった、今年の春節(旧正月)のイベントはどうするか――といったあらゆる問題を住民と共に考え、処理していく。

 「9073モデル」に沿って、IT化された老後の生活を地域で実現するなら、その実行を現場で支えていくのは、この居委会の人たちである。逆に言えば、党や政府の意を受けて、地域密着で動ける居委会のような組織が全国規模で確立しているからこそ、このような構想が描けると言ったほうがいいかもしれない。

「家庭内老人ホーム」を実現

 このような状況下、現在、中国各地でさまざまな実験が展開されているのが、「家庭養老ベッド(家庭養老床位)」プロジェクトである。中国政府が2021~2025年の国家発展計画として定めた「第14次五カ年計画」に組み込まれ、正式に国家プロジェクトとなった。

 「家庭養老ベッド」とは何か。一言でいえばITを活用した「家庭内老人ホーム」の実現――ということになろうか。高齢者が生活する自宅を、情報技術を駆使して社会的なネットワークと結合し、あたかも老人ホームや介護施設、場合によっては病院にいるのと同レベルのケアを実現しようというプロジェクトである。

 まず地域全体で、どこの家庭に、どのような状況の高齢者が生活しているのかを把握し、データベース化する。そして高齢者やその家族と市や区の政府が契約を交わし、生活環境や健康状態などのデータを共有し、活用する合意をとる。そのうえで、高齢者の自宅の一部を改装し、生活状況をリアルタイムで把握できる環境を構築する。

体温や心拍数などをネットワーク管理

 例えば、居室や浴室、トイレなどに手すりや滑り止めを設置し、安全な環境を整える。居室内の温度や湿度を外部から計測し、家族が遠隔地からでも調節ができるシステムを備えるケースもある。さらに人の動きを感知するセンサーを取り付け、一定時間を超えて動きがないとか、突然、フロアーに倒れ込むなどの特異な動きを24時間リアルタイムで把握する。枕やシーツなどに計測装置を組み込み、体温や心拍数を自動的に計測し、異常があれば家族やセンターの担当者にアラームがいくといったシステムもある。

 これらの情報は地域のセンターで集中管理し、居委会とも連携して、異常があれば近くに住む居委会のメンバーが駆けつける。警備会社などによる遠隔管理と異なり、すぐ近所に居委会の人たちが常時いるのがこの仕組みの強みだ。高齢者自身がアラームを鳴らせば、提携関係にある医療機関から医師が派遣されたり、薬が届けられたりするシステムもある。

 自立が可能な高齢者に関しては、それぞれの社区単位でコミュニケーションのセンターや食堂を設け、高齢者たちが集まれる場をつくる。スマホの活用履歴などから高齢者の興味・関心の領域を特定し、関連した活動の案内を送るといったサービスを実施している地域もある。食堂では顔認証による決済が可能で、機器の操作なしで支払いができるシステムを活用する。外出が不自由な高齢者に対しては食事を届けるサービスも行う。

コストは老人ホーム設置の10分の1以下

 「家庭養老ベッド」プロジェクトのモデル地区の一つ、山東省青島市北区では60歳以上の高齢者が26万4000人存在し、うち2021年7月現在、3264世帯と「家庭養老ベッド」の契約を結び、居室などの改装、インテリジェント化のほか、食事の提供や入浴時の介護、訪問診療といったサービスを提供している。同じくモデル地区の一つ、江蘇省南京市ではこれまでに5701世帯と契約し、ほぼ同様のサービスを開始した。「中規模の老人ホームを50か所開設したのに等しい」と市の関係者はメディアの取材に答えている。

 報道によれば、「家庭養老ベッド」のための改装やアラーム機器、計測装置などの設置コストは一世帯あたり約2万元(1元は17円)。これは新たに土地を確保して介護付きの老人ホームを建設するのに比べ、1ベッドあたりのコストは10分の1以下、設置のスピードも格段に速いという。都市部での高齢者の生活環境を整備するうえで「家庭養老ベッド」のプロジェクトは非常に有効と判断されている。

高齢者のスマホリテラシーを高める全国運動

 中国政府は、これらのプロジェクトを推進する前提として、高齢者のスマホ活用リテラシーを高める運動を始めている。2020年11月、「高齢者が情報技術を利用する際の困難を解決する方策に関する通知」を出し、全国的な運動として展開せよと地方政府に指示。北京や上海、広州、深圳など全国15の都市で大学生など計2万人の志願者を募集、運動の中核となる講師として育成し、全国各地での研修を通じて100万人以上の講師を養成、高齢者に対してスマホの活用方法を中心としたリテラシー教育を展開するという。

 この活動に呼応して、浙江省杭州市では今年5月、1万人の大学生が研修を受け、高齢者に対してマン・ツー・マンでスマホの使い方を教えるボランティア活動を始めた。また江蘇省蘇州市でも市内のボランティアらが高齢者を対象に、これまでにのべ6万回の講習を実施、アリペイ(支付宝)やウィチャット(微信)など主要アプリの使い方、ネット上での買い物の仕方、配車アプリの利用方法などについて教えている。

 「智慧養老(インテリジェント老後)」の実現を目指して、まず高齢者のスマホリテラシーを高める運動を始めるというのは、いかにも中国らしいし、効果的な活動だと思う。スマホなどのIT機器を自在に使いこなす高齢者を意味する「新老人」という単語もメディアなどで広がってきた。こうした研修活動などを通じて「新老人」が増えれば、高齢者と社会のつながりが増し、高齢者自身にとっても、社会にとっても意義が大きい。

※資料画像。本文の内容とは関係ありません

資金は誰が負担するのか

 こうした「家庭養老ベッド」のような取り組みが可能なのは、目的が明確になってさえいれば、自身のプライバシーを公的機関などが共有することに対して中国の高齢者が比較的寛容であるという背景がある。その点、中国と歴史的背景が異なる国々では、このような「家庭内と社会をシームレスにつなぐ」という発想は、なかなか実現が難しいかもしれない。

 そして、もちろん最大の問題はお金である。現時点ではモデルケースとして政府の資金で無償のサービスを提供している。しかし、数億人の高齢者を政府が丸抱えすることは不可能だ。将来的にどの程度の個人負担が求められるのか、そのあたりの議論はこれからである。

ITは最後の頼みの綱

 「9073」のうち「90」の高齢者が自宅での生活を望むとしても、自立が可能なうちはまだしも、介護が必要になった時点で、そのためのマンパワーは本当に確保できるのか、自動化でどこまで対応できるのか、その費用を誰が、どのように負担するのか。具体的な解決策はまだ見えていない。

 夫婦が共に職業を持つのが普通の中国では、家庭内で介護に投入できる労力は限られている。夫婦のどちらかが介護に専念すれば、一家の収入は半減してしまう。一部の富裕層を除けば、夫婦双方の両親、計4人の老後をケアするのは不可能に近い。その現実に多くの人々が目を向けざるを得なくなり始めている。

 「9073モデル」は政府がそれを志向したというより、現状、それしか取りうる道がないという側面が強い。その意味でもIT化、自動化による「智慧養老(インテリジェント老後)」に対する期待は大きいが、そのための資金は政府に頼るしかないのが現状だ。「未富先老(豊かにならないうちに老いる)」という待ったなしの局面に至りつつある中国社会にとって、ITの力は最後の頼みの綱になりつつある。

※資料画像。本文の内容とは関係ありません