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2021年12月21日

次世代中国 一歩先の大市場を読む

中国のデジタル人民元は「統治のツール」?
操作可能な匿名性が目指すものとは

匿名性は中国当局の判断しだい

 中国の法定デジタル通貨である「デジタル人民元(数字人民幣)」の動きが本格化してきた。すでに各地で実証実験が始まり、全国で数百万口座の個人・企業向け「デジタル人民元ウォレット」が開設され、累計の取引額は1兆円を超えたと伝えられる。来年2月に迫った北京2022冬季オリンピック/パラリンピックでは、会場内の支払いがすべてデジタル人民元化される予定で、政府はデジタル人民元普及の起爆剤にしたい考えだ。

 中国国内のデジタル人民元に関する議論を見ていて気になるのが、その強みとして強調される「操作可能な匿名性(可控匿名性)」という概念だ。

 デジタル人民元では、その気になればお金の流れを完璧に追跡できるが、個人のプライバシーに配慮して少額の場合は匿名性を確保する――という考え方がとられている。つまり、通貨としての匿名性を確保するかどうかは、状況に応じて当局の判断に任されている。「操作可能な匿名性」とはそういう意味だ。

 これは通貨というものに対する国家のコントロール力を大きく強めることになる。今回は「操作可能な匿名性」という概念を軸に、デジタル人民元の狙い、長期的な意味について考えてみた。

広がる実証実験

 中国で本格的な実証実験が始まったのは昨年10月、広東省深圳が最初だ。市内の商店など3000軒がデジタル人民元対応の機器などを設置、抽選で選ばれた5万人に1口座200元のデジタル人民元、計1000万元(1元は約18円)が配られ、買い物を楽しんだ。その後、今年6月までには北京や上海、西安、蘇州などの大都市を中心に全国28都市に範囲が広がった。中国人民銀行の発表によれば、今年10月までに累計の取引回数は1億5000万回、取引額は620億元を超えた。

 北京市では中国工商銀行と北京市地下鉄が組み、今年12月、事実上60元分の運賃が割引になるキャンペーンが始まった。上海市でも、生鮮食品を主に扱う上海市静安区の鎮寧路市場などでデジタル人民元による支払いが可能になり、多くの買い物客でにぎわった。

上海市内のデジタル人民元のパネル
上海市内のデジタル人民元のパネル

盛り上がらない市民の関心

 このようにデジタル人民元導入の機運はあるものの、人々の関心の盛り上がりは今ひとつだ。先日、上海に住む中国人の友人7人にデジタル人民元について聞いてみたところ、デジタル人民元の存在を知っていたのは3人だけ。そのうち実際に使ったことがあるのは1人のみだった。その友人は、買い物でデパートを訪れたところ、国有商業銀行のキャンペーンがあり、デジタル人民元ウォレットを開設すれば100元分がもらえると知り、その場で申し込んだという。残りの4人はデジタル人民元の存在そのものを知らなかった。

 今回、話を聞いたのはみな上海市内に住むビジネスパーソンで、それなりの所得水準の人たちである。それでもこの程度の認知度しかないのはいささか意外だった。その最たる所以は、デジタル人民元の導入によって人々の暮らしがどう変わるのか、どんなメリットがあるのかが見えにくいことである。ご承知のように、中国の都市部では日常の支払いのほとんどが、すでにアリペイ(支付宝)やウィチャットペイ(微信支付)などデジタルの支払い方式に変わってしまっている。

 デジタル人民元が普及した後も、少なくとも当面はアリペイやウィチャットペイなどの支払いツールを通じて使われる見込みで、人々の支払い行動に大きな変化はない。デジタルな手段で支払ったお金がもともとは紙の紙幣であったのか、もとからデジタル通貨であったのか、使うほうにしてみれば違いは何もない。

 強いていえば、オンラインが前提のアリペイやウィチャットペイに対し、デジタル人民元の情報はスマホ内部のチップに記録されているので、スマホに電波の届かないところでも使えるメリットはあるが、さほど大きなものではない。使う側にとっては大きなインパクトがないのである。

「通貨を発行する側」に大きなメリット

 デジタル人民元導入の大きなメリットは、使う側でなく、通貨を発行する側にある。なかでも最大の意味は、中央銀行や政府によるマクロ管理能力を強化し、通貨政策の精度を高める点にある――という議論が中国国内では目立つ。

 その代表的なものが、デジタル人民元の発行によって、中央銀行の金利政策が自由度を増すという考え方である。つまり、これまで紙幣や硬貨という「モノ」であった貨幣が、形のないデジタルになることで、中央銀行の取りうる手段が広くなるとされる。

 このあたりの理論は筆者の手に余るので、専門家の説明を引用する。クレディ・アグリコル証券チーフエコノミスト、森田京平氏は「ダイヤモンド・オンライン」2020年10月21日付「中央銀行デジタル通貨は「名目金利のゼロ制約」を解消する?」と題する記事の中で、以下のような趣旨の指摘をしている。

現金通貨、すなわち紙幣や硬貨は、景気が良かろうが悪かろうが、あるいはインフレだろうがデフレだろうが、常に無利子(ゼロ金利)で流通する不思議な存在だ。将来、中央銀行デジタル通貨(CBDC:Central Bank Digital Currency)が浸透すれば、これまで当たり前に無利子(ゼロ金利)で流通してきた現金通貨に対して、マイナス金利を付けることが技術的に可能になる。そのような世界では、「名目金利はマイナスにはならない」という「名目金利の非負制約」は意味を失い、金融政策の可動領域も拡がり得ることになる。

 同氏は「CBDCが仮に、広く流通するようになれば、現在は無利子で流通する現金通貨が技術的には、景気・物価に応じてマイナス金利を伴うものに変わり得る。(中略)長期的な金利形成を考察する際、CBDCは無視できない存在となる可能性を秘めている」と述べている。これは特にデジタル人民元を念頭に述べたものではないが、デジタル人民元はCBDCのひとつであるから、その指摘が当てはまるはずだ。

 中国人民銀行は、現時点ではデジタル人民元に金利はつけないと言っているが、仮に将来、金利をつけるようになれば、このような政策が取りうることは事実だろう。

社会、経済状況のリアルタイムでの把握が可能に

 中国国内でもうひとつ議論されているのが、デジタル人民元の導入で経済状況のリアルタイムでの把握が可能になるという点である。西南財経大学金融学院デジタル経済研究センター主任、陳文氏は「デジタル通貨は一つひとつの取引の詳細なデータの記録が可能であるため、(中央銀行は)それを通じてミクロの経済活動を追跡、場合によっては指導することが可能だ。ミクロ経済の動態を末端まで正確に把握できることで、中央銀行に非常に高い経済の感知手段をもたらす」(「新浪財経」2020年11月10日、訳は筆者)と述べている。

 さらに中国人民銀行通貨研究所前所長、姚前氏の発言を引用し「中央銀行デジタル通貨の発行によって、多くの中小零細企業に対する融資のより正確な判断が可能になり、国家の“普恵金融”政策(中小零細企業や農民、低所得者など厳しい境遇にある人に金融の恩恵をもたらそうという政策)に大きく貢献できる」とも述べている。

 このように中国国内の議論では、デジタル人民元の導入によって、中国人民銀行や政府が、「お金の行き先や使いみち」に対する、より正確な情報の把握が可能になり、より強い指導、管理が可能になる――ことが大きなメリットとして強調されている。

匿名性への配慮

 ここでカギになるのが「匿名性」である。いうまでもなく、従来の紙幣や硬貨のひとつの特徴が匿名性である。中央銀行の金庫からいったんお札が出ていけば、その先は追跡のしようがない。しかし、デジタル人民元はその特性から、その気になれば、お金の行き先を追跡することができる。「お金の行き先や使いみち」を正確に把握することが可能だ。

 一方で中国人民銀行はデジタル人民元の「匿名性への配慮」を当初から強調している。その背景には、アリペイやウィチャットペイなどのモバイルペイメント普及の過程で、個人の支払い/受け取りの履歴や、それに基づく個人信用情報の管理と活用に行き過ぎがあり、政府が問題視したことが影響している。このあたりの経緯は、この連載の2018年1月「覚醒する中国人のプライバシー~デジタル実名社会で揺れる個人の権利意識」で触れたので、ご参照いただきたい。

 年々高まる中国社会のプライバシー意識に配慮しつつ、その一方で経済のコントロールや犯罪摘発など政治的課題の解決に必要な場面では、国内のあらゆる「お金の行き先や使いみち」を確実に把握できる。その両方を満足できる仕組みが求められてきた。その結果が、いま進められている中国のデジタル人民元の形だといえる。

上海市静安区の鎮寧路市場。デジタル人民元の使用が可能
上海市静安区の鎮寧路市場。デジタル人民元の使用が可能

「操作可能な匿名性」

 ネット上のプライバシーについて中国には「表は匿名、後ろは実名(「前台自願,后台実名」)という大原則がある。これは政府が自ら掲げているもので、例えば、中国のインターネット接続はすべて実名制だが、掲示板での発言やゲームへの参加といった場面では匿名でも構わない。しかし、もし何かルール違反や不正行為などがあれば、管理者が調べれば実名にたどり着ける。これが「表は匿名、後ろは実名」のひとつの形である。

 デジタル人民元もこの原則を基本的に踏襲している。例えば、スマホのデジタル人民元ウォレットを使ってコンビニで買い物をするとか、スマホどうしの直接の通信で他人のウォレットに一定額以下のお金を移動するといった場面では、互いの匿名性は確保されている。しかし、スマホのデジタル人民元ウォレットは開設時に携帯電話番号による実名登録が必要なので、銀行や当局が必要になれば、実名を調べることはできる。

 デジタル人民元では、その取引が匿名でよいか、実名が必要かの判断基準は、基本的に金額の大きさによる。現実に具体的な金額の基準が公表されているわけではなく、市民の日常生活で使う程度の金額は基本的に匿名性が保証されているが、ビジネス向けの支出については実名制を徹底するとみられている。このように「匿名か、実名か」が中央銀行(政府)の判断によって事実上、自由にコントロールできることから、「操作可能な匿名性(可控匿名)」と呼ばれている。

国家統治の強力な手段

 「操作可能な匿名性」の下では、当局は必要とあれば事実上、国内のお金の流れをすべて個別に把握することが可能になる。例えば、しばしば例に出されるマネーロンダリングや麻薬など違法な疑いのある取引資金のあぶり出しや脱税の摘発といった犯罪行為の発見、予防に役立つだけでなく、前述したように、中央銀行、政府の金融政策、財政政策の立案、実行にも大きく貢献するだろう。またミクロ的にも、例えば、特定の業界や地域などの資金の動きを把握し、その支援を行うといった施策も可能になる。

 もちろんその気になれば、政治が意図を持って特定の個人や集団、企業などを資金面から監視することもできる。デジタル通貨の導入で、中央銀行や政府は、統治のうえで非常に強力な手段を手に入れることになるのは間違いない。

 もちろんこれは「理屈では可能だ」ということであって、それが本当に有効な手段か、それが実際に実行されるかは別の話だ。実際、上述のような資金の追跡や監視は、現在の電子マネーでも十分に高い精度で可能であり、あえてデジタル通貨にする意味は薄いとの見方もある。また紙幣が廃止されるわけではなく、今後も現金とデジタル人民元の併存状態が長く続くことも中国政府は認めている。少なくともデジタル人民元の正式導入と同時に何か激的な変化が起きる可能性は低い。

徹底した国民の行動把握

 しかし現在の中国という国の「統治のしくみ」を考えると、このデジタル人民元導入は、ひとつの大きな流れの中にあると考えるのが自然だ。それはやや極端な言い方をすれば「国内で発生しているすべてのことを、為政者が瞬時に知り、迅速に手段を講じて、政治的安定を守ること」が何事にも優先するという文脈である。

 以前、この連載でも紹介したように、全国に張り巡らされた数億台の監視カメラ網とそれに連動した顔認識のシステム、そこに紐付けられた全国民の個人情報、「中国版GPS」とも呼ばれる独自の衛星測位システム「北斗」を活用した精度の高い行動管理は、まさに驚くべきものだ。ある日、中国某都市の空港に降り立ったら、その瞬間に自分の来訪を知るはずがない現地の友人から「着いたみたいですね」と連絡が入った――といった類の「怪談」は枚挙にいとまがない。

 中国社会では、自分の行動や履歴、信用情報といったものは、少なくとも公的機関の間ではほとんど秘匿できる可能性がないことが、半ば常識である。国民はそのことを前提に、ほとんど意に介さずに日々、行動している。そう言って過言ではない社会である。

 そこにデジタル人民元の導入によって、「お金の流れ」も加わろうとしている。極論すれば「国内のお金の動きを統治者がすべて把握し、コントロールする時代」が来ようとしているのかもしれない。中国政府はそんなことをするとは言っていないし、先にも述べたように、すぐに何かが大きく変わるものでもないだろう。

 しかし、政府が社会を管理する、より強力な武器を手に入れることは確かだ。

※資料画像。本文の内容とは関係ありません

デジタル「がんじがらめ社会」

 デジタル人民元といえば、日本国内では「米ドル支配圏への挑戦」に最大の狙いがあるとする見方が強い。しかし、国際銀行間通信協会(SWIFT)のデータでは、国際的な決済通貨としての人民元のシェアは2.4%(2021年)にすぎない。トップの米ドル(38.3%)、2位ユーロ(36.6%)との差は大きい。通貨をデジタル化したからといって、通貨そのものの国際的な地位が急激に上がるはずもない。人民元の存在感が今後も高まっていくのは間違いないが、それには時間がかかる。

 そんな遠い将来のことよりも、経済成長が急速に鈍化し、社会問題が噴出している今、どんな手段を使っても国内の安定を維持する。こちちのほうが優先度は高い。デジタル通貨という精度の高いセンサーを中国国内に張り巡らすことで、社会の安定を維持し、「一党専政」の政治体制をより堅固にする。

 その意味でデジタル人民元は有効な統治手段のひとつであり、デジタル時代の到来で初めて可能になった「がんじがらめ社会」を象徴する存在になるかもしれない。

田中 信彦(たなか のぶひこ)氏

ブライトンヒューマン(BRH)パートナー。亜細亜大学大学院アジア・国際経営戦略研究科(MBA)講師(非常勤)。前リクルート ワークス研究所客員研究員
1983年早稲田大学政治経済学部卒。新聞社を経て、90年代初頭から中国での人事マネジメント領域で執筆、コンサルティング活動に従事。(株)リクルート中国プロジェクト、ファーストリテイリング中国事業などに参画。上海と東京を拠点に大手企業等のコンサルタント、アドバイザーとして活躍している。近著に「スッキリ中国論 スジの日本、量の中国」(日経BP社)。

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