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次世代中国 田中 信彦 連載

気候変動と都市化で揺らぐ中国の洪水対策
豊かになった時代の治水が新たな課題に

 今年夏の大雨で、中国では深刻な洪水が発生した。各地で住宅や農地が水没し、死者、行方不明者は200人を超え、被害総額は数兆円に上るとみられる。

 中国のSNSなどでは、今回の水害は「人災だ」との声がある。それはこの夏の洪水で水没し、大きな被害が出た地域は、より重要な都市を洪水から守るために犠牲にされたのではないかとの見方があるからだ。

 中国での洪水対策では、「捨小家、顧大家」(小を捨てて、大を守る)という言い方がしばしば出てくる。河川の増水時、一定の地域を緊急の遊水地として使い、計画的に水没させることで、下流域の洪水を防ぐ。つまり相対的に重要度が低いと想定される地域を犠牲にして、より重要な都市を守る――という考え方だ。

 この考え方には一種の合理性が存在する。こういう「割り切った」政策を実行できることが中国社会の強みという面もある。しかし、経済成長で人々の暮らしが豊かになり、住民の権利意識も高まったことで、こうした「より大きな利益のために一部を犠牲にする」という発想の政策は成り立ちにくくなっている。

 気候変動の影響で記録的な豪雨が頻発する中、国民一人ひとりの生命や財産を大切にする、新しい治水の形を求める声が中国社会でも強まっている。

 今回はそんな話をしたい。

田中 信彦 氏

ブライトンヒューマン(BRH)パートナー。亜細亜大学大学院アジア・国際経営戦略研究科(MBA)講師(非常勤)。前リクルート ワークス研究所客員研究員
1983年早稲田大学政治経済学部卒。新聞社を経て、90年代初頭から中国での人事マネジメント領域で執筆、コンサルティング活動に従事。(株)リクルート中国プロジェクト、ファーストリテイリング中国事業などに参画。上海と東京を拠点に大手企業等のコンサルタント、アドバイザーとして活躍している。近著に「スッキリ中国論 スジの日本、量の中国」(日経BP社)。

北京気象台140年の歴史で最大の豪雨

 7月末、大型の台風5号(トクスリ)の影響で、中国北部は歴史的な豪雨に見舞われた。北京市内では、140年の歴史を持つ北京気象台始まって以来、最大という1日740㎜の雨量を記録。日本の年間降雨量が1500㍉ほどなので、この雨のすごさがわかる。この豪雨による水害で8月2日までに同市や河北省で21人が死亡、45人が行方不明になった。

※資料画像。本文の内容とは関係ありません

 北京市の南西部に隣接する河北省涿州(たくしゅう)市では、この雨で市内の東部を流れる白溝河の濁流があふれ、広い地域が水没した。市内の一部では水位が一時8mにも達し、交差点の信号機や道路の行き先案内版の高さに迫るまでになった。周辺の農村部では、多数の住宅が水没、多くの人が亡くなるか行方不明となった。水田やトウモロコシ畑なども泥で埋まり、今年の収穫の見込みが立たない。市内の被災者は13万人を超えたとされる。

社会の注目を集めた「分洪区」の存在

 この涿州市での水害で注目を集めたのが、耳慣れない「分洪区(ぶんこうく)」という言葉だ。「蓄洪区」(ちくこうく)という言い方もあるが、この稿では「分洪区」の表記を使う。

 「分洪区」とは、文字通り「洪水を分ける区域」という意味だ。中国では治水は常に国家統治の重要なテーマであり続けてきた。その過程で広く行われてきたのが、豪雨時に、上流部分の一定地域を政府が徴用し、増水した河川の水をそこに流し込んで遊水地として活用するやり方だ。つまり河川沿いの農地などを意図的に水没させ、いわば意図的に「犠牲」にすることで、川の流量のピークをずらし、下流の都市部などでのより大規模な氾濫を防ぐ。

 涿州市の周辺にも、この「分洪区」が存在する。同市は北京市や天津市などが存在する華北平原の西端に位置し、西側の山地に源を発して渤海湾に注ぐ6つの中規模河川が合流する位置にある。元々地勢が低く、流れ込んだ水が滞留しやすい。今回も同市の北東部の低地に広がる「小清河分洪区」に政府の判断で河川の水を流入させたことは公式の報道などで明らかになっている。

 この措置そのものが問題だったと指摘されているわけではない。しかし、その過程で、住民やそこで生産活動を行う農民たちなどに対する避難指示が遅く、連絡が徹底されておらず、逃げ遅れた人が出たとの指摘がある。加えて今回の雨量が政府の予想を大幅に超えていたため、「分洪区」に流入した水がその範囲を超えて拡大してしまい、周辺の住宅地や工業団地などが水没したとみられている。

全国98か所が指定された「分洪区」

 こうした中国の「分洪区」は全国で98か所(2018年)が指定されている。内訳は最も多いのが長江流域の44か所、続いて華北の海河流域28か所、華中の淮河流域21か所、黄河流域2か所、東北部の松花江流域2か所、華南の珠江流域1か所となっている。

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 「分洪区」は、主要な河川の流域で、もともと地勢が低く、水が溜まりやすい地形の場所などが指定されているのが普通だ。大雨で河川の水位が警戒線を超えると、堤防につくられた水門を開けて川の水を区内に流し込む。そして時が経過して川の水位が下がると、区内の水は排水用の水門から再び川に戻っていく。割り切った言い方をしてしまえば、河川が氾濫しても影響が相対的に小さいと判断される区域に意図的に「洪水を起こす」ことで一時的な遊水地として活用するやり方ともいえる。

「水没」を前提に人が生活を営む

 水害対策としての「遊水地」は日本にもある。利根川水系の「渡良瀬遊水地」はよく知られた例だろう。しかし、例えば渡良瀬遊水地は、その域内が公園などとして公開されてはいるが、人が暮らしているわけではない。あくまで遊水地としての機能に特化した場所である。

 しかし、中国の「分洪区」の多くは、「非常時には水没の可能性がある」との条件付きではあるものの、そこで人々が生活し、農業や畜産業、養殖業などが行われている。ここに中国の「分洪区」の大きな特徴がある。

 その発想の根底にあるのは割り切った確率論だ。つまり「分洪区」は、水没の可能性はあるものの、それは多くても「何年かに一度」、場合によっては「何十年に一度」の話である。少なくとも過去の長い間はそうだった。いつ起きるかもわからない事態のために、広大な土地を使わず、放置しておくのはもったいない。平時は生産活動に使っておいて、万一、記録的な豪雨などで水没させることになったら、住民は早めに避難し、政府が経済的に補償をすればよい――と考える。

 要するに、水没発生の可能性と「平時に生み出せる価値」を天秤にかけ、一定頻度での水没は覚悟の上で、生産活動をしたほうが合理的だ――という割り切った考え方がそこにはある。このような存在が中国の「分洪区」である。

 「水害は必ずいつか発生する」と考えて、その時に備えて広大な専用の遊水地を常に確保している日本の発想と比較すると、「安全」に対する考え方の違いが出ていて興味深い。

数百年の間、自らを「犠牲」にしてきた村

 中国の「分洪区」で最も代表的な存在が、安徽省阜陽市の農村地帯にある王家壩(おうかは)だ。「壩」とは、川の水をせき止める土手、堤防を指す言葉である。中国の北と南の境界線とされる大河・淮河(わいが)水系に属し、人口は約3万4000人(2019年)。農業や畜産業が中心の農村だ。

 西部の山地から流れ下った淮河がこの王家壩近くで平野部に出て、水流が急に緩やかになるため、洪水が発生しやすい。また王家壩の土地は淮河に沿って東西に長く、その多くが低地で、水が外に流れ出にくい。こうした地理的な特性から、王家壩一帯は古くは清朝の時代から数百年もの間、淮河の増水時の遊水地として繰り返し活用されてきた経緯を持つ。

※王家壩閘
(画像出典:CCTV NEWS)

 村の西部に淮河からの水を引き込む「王家壩閘(水門)」があり、淮河の水が警戒線を超えると、政府の判断でこの水門を開き、村に水を引き入れる。淮河の水位が下がると、水門から95キロ下流に作られた排水用の水門を開き、溜まった水を淮河に戻す。そのようにして村そのものが遊水地としての機能を果たす。

「自らを犠牲に、全体を助ける」精神を称揚

 しかし、この王家壩は無人の地ではない。そこには農地があり、2000人もの農民が暮らしている。つまり、水没の可能性を承知のうえで、生活が営まれている。

 万一の際には、自らの村が犠牲になって下流の大都市を洪水から守る。「捨小家、顧大家」(小を捨てて、大を守る)の考え方が存在する。王家壩の人々にとっては、それが昔からの「決まりごと」であり、それが生活の前提になっている。そして、当然のことではあるが、「犠牲」によって発生する経済的な損失には政府の補償が出る。だから、ひとたび「水没」の決定が出れば、村の人々は粛々と避難していく。

 2020年7月、過去67年間で16回目になる村の「水没」を記録した映像がある。そこには、水門が開かれ、淮河の水が静かに村に流れ込み、自らの田畑が泥水に浸かっていく過程を見つめる村の人々の視線が描かれている。淡々とした表情で家財や家畜をトラックに積み込み、村を離れていく人々の様子は胸に迫るものがある。

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 住み慣れた家が水没し、手塩にかけた農地が泥に覆われてしまう苦痛は大きいに違いない。しかし、この地に住んでいる以上、それを嘆いても仕方がない。粛々と運命を受け入れて、政府の補償をもらって、水が引いたらもう一度やりなおす。そんな覚悟がみてとれる。このような王家壩の人たちの「小を捨てて、大を守る」という姿勢は、愛国的風潮が盛んな近年では「王家壩精神」として、中央政府によって讃えられたりもしている。

都市化が進む大都市周辺の「分洪区」

 今夏、水害が発生した涿州市の「小清河分洪区」は、王家壩と同様、国に指定された「分洪区」である。ここも古くから非常時には遊水地として活用されてきた。しかし涿州市一帯が王家壩と異なるのは、この地は首都・北京に近く、都市化が急速に進んでいることだ。同分洪区内には、200平方キロメートルの土地に11万人もの住民が生活している。

 報道によれば、今回の豪雨では7月31日午後、付近を流れる白溝河が警戒水位を超え、政府は同分洪区を徴用し、遊水地として使うことを決断。住民に退去命令を出し、堤防の堰を開けて放流を始めた。しかし、退去命令を出したタイミングが遅く、分洪区内の一部地域で連絡が届かず、避難が間に合わない人が続出した。また、高齢者を中心に、住み慣れた自宅からの退去を拒否し、逃げ遅れた人もいた。

 加えて、河川の水量が政府の予想を大きく超え、しかも増水の勢いが速かったため、「分洪区」以外の地域でも大量の水があふれ出てしまった。同市東部の「ハイテク経済産業開発区」では、林立する高層マンション群の1階部分が完全に水没し、逃げ遅れた上層階の住民が2階のベランダに集まって救助の船を待つ姿が映像で全国に流れた。王家壩のように事前に周到に準備され、整然とした避難の状況でなかったことは間違いない。

「分洪区」政策の限界

 王家壩の人たちのように、自らの家や農地の「運命」を事前に理解し、心理的な準備ができていれば、緊急時にもスムーズな対応ができたかもしれない。しかし、都市化が進んでいた涿州市の周辺ではそれが難しかった。また、政府の側も非常時の「分洪区」の管理に慣れておらず、住民に対する事前の説明や連絡、水没後の補償などについて十分な理解が得られていなかった可能性が高い。

 そして、最大の問題は住民の意識の変化だ。王家壩では過去の長い経緯から、地域の人々が「自らが犠牲になって、下流域の人々を助ける」ことを心理的に受け入れている。そうした自分たちの行動がメディアなどで伝えられ、他の地域の人々から感謝され、称賛される。それが行動の大きな支えになってもいる。

 しかし、涿州市周辺では、住民の間にそうした感情の共有がなく、慌ただしく出された政府の一方的な命令で、自分たちが被災者になる状況に陥ってしまった。

住民の怒りをかった地方トップの発言

 加えて政府の対応への不信感を増幅したのが指導者の言動だ。

 河北省のトップである倪岳峰・同省党委員会書記は洪水の発生後、「雄安新区」などの水害対策を視察し、「(河北省は)断固として北京を守る外堀となる」と発言し、住民の強い反発をかった。

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 河北省は地理的に首都・北京市の周囲をぐるりと取り囲むような位置関係にある。加えて涿州市は「第二の北京」として建設が進んでいる「雄安新区」からみて白溝河の上流部分に位置する。つまり涿州市の「分洪区」は、そこを遊水地として活用することで「国家千年の計」の大プロジェクトである「雄安新区」を洪水から守る役割があると判断できる。

 しかし、住民の側からすれば、そうした点に明確な説明もなく、一刀両断の命令で「首都を守る外堀になれ」と言われても納得できる話ではない。同書記の発言は、そうした住民の意識の変化を汲み取れず、中央の意向の忖度のみを優先する、古い地方政治の体質を露呈したものだったといえる。

「小を犠牲に、大を守る」は通じない時代

 「分洪区」というエリアを設け、そこで生産活動を行いながら、万一の場合の水害にも備える。この水害対策のやり方は、中国社会の特徴、そこに暮らす人々の考え方が反映した、合理的なやり方と見ることができる。王家壩の例のように、そこで暮らす人々に一定のコンセンサスが成立しているのであれば、この手法は有効に機能する。

 しかし、今回の涿州の洪水で明らかになったのは、都市化が進み、個人の権利意識が強くなった地域では、「分洪区」が住民の理解を得ることは難しくなったということだ。「補償するから犠牲になれ」という一方的な論理は、もはや通じなくなりつつある。

※三峡ダム
(画像出典:Getty images)

 今後は中国でも、遊水地は遊水地として専用の土地を確保し、人の居住は厳格に制限する方向に進む可能性が高い。長江の水害防止を最大の目的につくられた「三峡ダム」の建設プロセスでは、ダムによって水没する地域から100万人を超える住民が他地域に移住した。全国各地の「分洪区」でもそのくらいの措置を講じて、住民の安全を優先すべきだとの議論も出始めている。

 今回の涿州市の水害で明らかになったのは、経済成長による中国社会の成熟で、従来型の「小を犠牲に、大を守る」という政策には限界が来ていることだ。より豊かになり、個人の権利意識の強まった社会に対応した新しい発想の政治が必要な時代が来ている。