ブランドもUXも消える?AIエージェント時代の金融サービス ― Money20/20 USA 2025
Text:山口 博司
2025年10月、世界でも有数のFinTechのカンファレンス「Money20/20 USA」がLas Vegasで開催されました。本イベントでは銀行・決済業界、テクノロジー企業や政策立案者らが一堂に会し、金融の未来や業界の変革に関する洞察に富んだ実践的な事例・取組を共有しました。本稿では、その中から今後の金融業界にとって特に注目すべき技術トレンドと、それを支える業界全体の構造変化について考察します。
山口 博司 氏
NEC Corporation
Director
システムエンジニアとして金融機関向け業務アプリケーション開発・システム企画を経て、2016年から2025年3月までシリコンバレーとシンガポールで新技術・サービスの調査、活用の企画・推進に従事。2025年4月から顔認証決済、サプライチェーンファイナンスなどの事業開発および海外展開をリード。マサチューセッツ州立大学MBA修了。BΓΣ(Beta Gamma Sigma)会員。
Money20/20 USA 2025
「Money20/20 USA 2025」(以下、Money20/20)は決済・FinTech・金融サービス分野における「次なる潮流」に焦点を当てたイベントで、米国では2012年より開催されています。現在はヨーロッパ、中東、アジアでも開催されるなど、グローバルな金融エコシステムを形成するうえで欠かせないプラットフォームと化しています。今年のMoney20/20のテーマは「Create the Future(未来をつくる)」で、85を超える国と地域から11,000人以上の参加者が集まり、金融業界の未来に向けた新たな洞察・視点を提供しました。筆者は2016年からMoney20/20に参加し業界のトレンドをみてきましたが、数年前までこのイベントの主役は間違いなくスタートアップでした。しかし、今年のイベントで特に注目を集めたのはMastercardやWestern Unionといった大手企業の発表でした。FinTech業界では従前の様な「破壊 (disruption) 」や「アンバンドリング/リバンドリング」といった表現はすでに過去のものとなり、「embedded finance(組み込み金融)」や「BNPL(後払い決済)」といった昨年までの流行語も熱気を失った代わりに、「インフラ」・「信頼」といった言葉が主役になってきています。FinTechはスタートアップ中心の潮流を指す語 ではなく、金融サービスそのものを指すようになったといえるでしょう。
Agentic Commerceの台頭
今年のMoney20/20を語るうえで、欠かせないトピックの1つはAgentic Commerceです。Agentic CommerceとはAIエージェントが代理人として買い物をする仕組みのことで、昨年までのイベントではトピックに上がることのなかったこのキーワードが、ChatGPTをはじめとする生成AI技術の進展によって急速に注目を集めるようになりました。McKinsey & Companyは「AIが消費者のニーズを予測し、ショッピングの選択肢をナビゲート、取引の交渉やトランザクションを実行する世界を実現する。」「このトレンドは、過去のウェブやモバイルコマース革命と同等の広範な影響力を持ち、(中略)急速に普及する可能性がある」と自社サイトで説明しています1。Money20/20会期前にGoogle2、StripeとOpenAI3といった企業が、AI エージェントが自律的に取引するための技術標準を相次いで発表しました。ただし、こうした各企業の取り組みはまだ実験段階であり、体験は洗練されていないとの指摘もあります。さらにはどの標準がデファクトスタンダードとなっていくのか、誰も明確な解を持っていません。
このAgentic Commerceは単に新しい購買方法ができた、というわけではなく、市場の構造そのものを変え得るという点で非常に注目を集めています。たとえば、商品1つ1つの詳細な購買データがエージェント間で共有されることで、これまで共有されることのなかった相手(例:カード発行会社や競合他社)にも購買データが共有されるかもしれない未来が考えられます。さらには個々の商品が持つリスク(例:不正利用されやすい商品だと過去にAIが判断するなど)を理由に、決済がAIによって拒否されるケースも起こり得るかもしれません。消費者は自分の知らないところでAIに取引を制御されてしまうのです。そのような世界を考えるうえで議論の中心となっていたのがKnow Your Agent (KYA)という新しい概念です。KYAは顧客の本人確認を意味するKnow Your Customer (KYC)のAIエージェント版で、AIエージェントの身元をどのように検証し、信頼し、権限や行動に対する責任をどう担保していくのかを考えます。このKYAという新しい信頼の枠組みをいかに構築するかが、Agentic Commerce普及の最大の課題になると考えられています。
ステーブルコインの再燃
今年のMoney20/20を語るうえで外せないもう1つのテーマはステーブルコインです。ステーブルコインについての議論は、昨年までの仮説や実証の段階から実行フェーズへ移ったといえるでしょう。その象徴が、国際送金大手のWestern UnionがSolana(ソラナ)を基盤としたUSDPT(U.S. Dollar Payment Token)を2026年に開始するという発表です。想定している主なユースケースは国際送金や企業の財務活動といったバックオフィス機能で、米ドルと1対1で連動するステーブルコインとなる予定です。
こうしたステーブルコインに関連した動きは米国でGENIUS法案4が成立したことを契機に、これまで市場の様子を見ていた金融機関が一斉に動き出したことで急激に増加しています。どの金融機関も自社のステーブルコイン戦略について検討・議論せざるを得ない状況であり、ステーブルコインはもはや暗号資産の1分野ではなく、金融インフラを再定義するグローバルなテーマの1つへと変わってきています。Western UnionのDevin McGranahan社長兼CEOは登壇した講演の中で「(GENIUS法などの規制枠組みが可決されたことで)同社はデジタル資産を活用して決済ネットワーク間の相互接続性を構築し、24時間365日の国境を越えたオンチェーン決済が可能になった」と説明しました。
上記で見てきたように、Agentic Commerceもステーブルコインも話のスケールが変わってきており、FinTech業界全体の成熟を感じさせました。その成熟を支えているのが「信頼」です。AIの倫理、規制やコンプライアンス、サイバーセキュリティ、これらが単なるサブテーマではなく、イノベーションを語る上で議題の中心となっていました。“素早く動いて物事を壊せ”という時代は完全に過ぎ去り、“イノベーションを成功させるためには、コンプライアンスを後付けではなく最初から設計に組み込む必要がある”ということが、業界の共通認識となったといえるでしょう。
- 4 Guiding and Establishing National Innovation for U.S. Stablecoins Act:2025年7月18日に成立した米国における初の包括的なステーブルコイン規制法
AIエージェントが顧客になる未来
今年の主要トピックの1つであったAgentic Commerceが発展していくと、どのような未来が訪れるでしょうか。AIエージェントがすべての商品・価格・在庫情報をリアルタイムで比較できるようになり、私たちにとって合理的な商品を見つけてくれるとしたら、ブランドや顧客ロイヤリティという概念、マーケティングの仕事はどうなってしまうのでしょうか。決済大手Circleの共同創設者であるSean Neville氏があらたに創業したCatena Labsは、「AIエージェントのための金融オペレーティングシステム」を提供することを目指しています。Catena LabsにとってのユーザーはAIエージェント、ということです。技術の進展によって意思決定の主役が感情や習慣をもつヒトから純粋な取引ロジックで動くAIに移り変わっていくと、AIエージェントのための技術・サービスが増えていくことが容易に想像されます。そのような世界では、セキュリティや契約の在り方が人間ではなく機械同士の取引を前提に見直す必要があります。また、アプリケーションやサービスはヒトではなくプログラムが使用することを前提に根本から設計しなおさなければならず、UI/UXという概念すら意味をなさなくなってきます。お金のカタチそのものがデジタル化されようとしている今、ヒトのために作られた金融サービスをどのように変えていくかが、次の10年に私たちが挑むべき全く新しい領域なのかもしれません。
グローバル金融動向