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松尾豊氏と考える、日本の未来とイノベーションの条件

 本企画は、AIやデジタル技術が進化する中で重要性を増す「デジタルエシックス」を、各業界の有識者との対話を通じて深く探究するシリーズです。AIによる判断の透明性や社会との信頼関係が問われる今、テクノロジーと経営をつなぐ“デジタルエシックス”の視点が、企業の持続的な成長に不可欠になりつつあります。今回は、深層学習をはじめとするAI研究の最前線に立ち、産学連携を推進しながら、国や自治体の制度設計・戦略策定にも携わる松尾豊氏を迎えました。NECフェローの今岡仁、そしてAIを活用した事業開発を行うNECの松本真和と共に日本の未来とイノベーションの条件について議論を行います。

NECの考えるデジタルエシックスとは

 デジタルエシックスとは、デジタル技術の活用において『何ができるか』だけでなく『何をすべきか』を問い、リスク管理に留まらず信頼や社会的価値を生み出すための行動指針です。

 AIやデジタル技術の進化が急激に進む中、企業経営で問われるのは「いかに信頼を築けるか」です。デジタルエシックスが、企業価値を守り、持続的成長を可能にする新たな経営判断の軸となると考えています。

SPEAKER 話し手

松尾 豊 氏

東京大学大学院工学系研究科 人工物工学研究センター/技術経営戦略学専攻 教授

1997年東京大学工学部電子情報工学科卒業。2002年同大学院博士課程修了、博士(工学)。産業技術総合研究所研究員、スタンフォード大学客員研究員を経て、2007年より東京大学大学院工学系研究科准教授、2019年より教授。専門は人工知能、深層学習、ウェブマイニング。人工知能学会論文賞ほか複数受賞。2017年より日本ディープラーニング協会理事長としてAI人材育成と社会実装を推進。2019年よりソフトバンクグループ社外取締役、2025年よりパナソニック ホールディングス株式会社 社外取締役を務める。また、AI戦略会議座長、AI制度研究会座長、東京都AI戦略会議座長などを歴任。2025年より内閣府人工知能戦略専門調査会座長を務め、日本のAI戦略および制度設計を牽引している。

今岡 仁

NECフェロー

顔認証技術の研究開発とグローバル事業化を主導。現在はその技術的なバックボーンを活かしながら、デジタルエシックスの浸透とさらなる探求を目指し、企業・自治体とのワークショップや対話・書籍執筆などを通じて発信を続けている。著書に『顔認証の教科書:明日のビジネスを創る最先端AIの世界』『デジタルエシックスで日本の変革を加速せよ』など。

松本 真和

NECフェロー室長
兼 ビジネスイノベーション統括部 ディレクター

官公庁、通信キャリアを経て2021年よりNECに参画。政策・ルールに係る立案・活用に官民双方の立場から従事した。現職では、AIを活用した事業開発を統括、デジタルエシックスの体系化やパブリックアフェアーズを通じて、DXの推進に係る提言活動を推進している。これまで世界経済フォーラムフェロー、SDGs デジタル社会推進機構相談役などを歴任。

1.挑戦しないことのリスク――なぜイノベーションは育たないのか

今岡:先端技術が次々と登場する中、人々が法整備やデジタルエシックスについて思考を深めなければ、企業の挑戦と持続的成長につなげることは難しいと思います。私は生体認証技術の開発に携わってきましたが、デジタルエシックスは技術のブレーキではなく、技術を「どう使うか」を考えるための前向きな枠組みだと捉えています。本日はAI研究の最前線にいらっしゃる松尾先生と共にこのテーマについて議論できればと思っております。

 先端技術というと、先生がNECとも取り組まれている「フィジカルAI」もその一つです。こちらは世界的に見てどこまで進んでいるのか、そして技術の発展と共にどのような課題が出てきているのか教えていただけますか。

松尾氏:よろしくお願いいたします。中国やアメリカではAI技術を用いたロボットがどんどん登場しており、基盤モデルが実世界データを使えるようになったことで、AI活用のフェーズは人々の生活や仕事を変えることができる段階にまで上がっていると思います。

松尾 豊 氏
東京大学大学院工学系研究科 人工物工学研究センター/技術経営戦略学専攻 教授

今岡:日本におけるフィジカルAIの課題とはなんでしょうか。今実現できていない技術についてはどうお考えですか。

松尾氏:技術的なハードルはすでに超えていると思っています。本質的な課題はコストと、品質・安全性・信頼性の確保にあるのではないでしょうか。現在の日本で家庭用ロボットを作ろうとすると300万円ほどかかると思いますが、100万円以下で作れるようにならなければ市場が成立する。製造の領域からすると1/3のコストダウンはターゲットに入りますし、実現可能だと思います。次に、身の危険性が生じないか、また、インシデントが生じた際の対策ができているかなども重要ですが、こちらも、日本メーカーの世界的な信頼や、緻密な現場検証で培ってきた技術力を踏まえれば、日本に勝機があるのではないかと考えています。

今岡:なるほど、確かに日本が元々得意としてきた分野であることを考えると、もっとフィジカルAI市場が進んでいてもおかしくないですよね。それには、何かコンプライアンス的な意識がストッパーになっているのでしょうか。

松尾氏:そうですね。法律やデジタルエシックスは技術の成熟と共に作り上げられるべきものだと思うのですが、その整備が追い付いていないのが現状だと思います。なので、日本では「決まっていないから、やらない」となってしまいます。

 また、新しい領域を探索するコストに対して社会がネガティブな印象を抱いている傾向もあると思います。もはや、トライしないこと自体が機会損失であり、ポテンシャルのリターンを計算に入れるべきフェーズに来ていますが、その挑戦を許容する余白が今の日本社会には不足していると思います。

松本:おっしゃる通りで、その「余白の不足」は企業の内部構造にも表れているように感じます。伝統的な日本の大企業の場合、個人に責任が集約されすぎていて、プロジェクトが失敗したら会社をやめるくらいの気概がないと新しいことに挑戦できない雰囲気があると思います。そのため、制約が比較的少ない社内の“窓際”のような場所でイノベーションが生まれる一方、それが中央に持ち込まれた途端、コンプライアンスや過去の実績、前例との整合性が厳しく問われ、勢いを失ってしまう。そうした構造が、挑戦の芽を十分に育てられていない一因になっているのではないかと感じます。

松本 真和
NECフェロー室長
兼 ビジネスイノベーション統括部 ディレクター

松尾氏:「イノベーションは辺境から起きる」ということですね。この状況を変えるには、まず各企業の中で社内の評価制度や仕組みを、挑戦した人がきちんと評価される制度にしていく必要があると思います。私は「失敗する機会を奪ってはいけない」とよく言っているのですが、それは失敗を経験すること自体が、その人の「権利」だと思っているからです。人は失敗して、うまくいって、また失敗して…と繰り返すことで学んでいくもの。失敗しないように事前にリスクを取り除いておくことや、失敗のリスクを個人に押し付けて挑戦を阻んでしまうことは、その機会を奪ってしまうことになります。

 また、昨今の企業はレピュテーションリスクを恐れて保守的になっているように思いますが、その背景として、日本社会が挑戦に対する受容性が低いことが大きな問題であると思います。例えば、米国の著作権法におけるフェアユースのように、まだ法的に明示されていない事であっても、「目的や公共性、社会的意義に照らして妥当であれば一定程度は許容される」という考え方が、日本では一般的ではありません。ガイドラインのようなものを設定したり、事例を意識的に作っていくことも重要だと思います。そうすれば、日本社会は新たな理念や挑戦に対して、もう少し寛容になっていけるのではないでしょうか。

2.デジタルエシックスの実践と、ルールの本質に立ち返る重要性

今岡:では、イノベーションへの挑戦を、リスクを理由に立ち止まらないようにするためにはどうすればよいのでしょうか。先生が実践されている方法などはありますか?

今岡 仁
NECフェロー

松尾氏:私は実際に日本ディープラーニング協会で「けもの道」的なアプローチを試しています。AIを使って新しい取り組みをはじめる際に、まずは法律家に集まってもらい、法的な整理や見解を示すところから始めます。そのうえで、小規模な企業が先行して実践し、実績を積み重ねていく。そして、一定の事例や判断の蓄積ができた段階で、徐々に大企業へと広げていく、という進め方です。こうしたプロセスを通じて、技術を社会に浸透させるための慣習や判断基準を意図的に作り上げていくことを狙っています。

松本:要は、最初のスモールステップから徐々に地固めし、積極的に物事を進めるための判断軸を作っているということですね。まさにそのプロセスはデジタルエシックスに通ずるものがあると思います。

今岡:ベンチャー企業のみで展開するのではなく、最終的には大企業へ拡大していくという点も大切ですね。

松尾氏:そうですね。大企業がチャレンジしやすい制度作りも大事だと思います。日本はホワイトルール方式ですから、法律的に明示化されていないとなかなか行動ができない。そんな中でも挑戦を止めないために、先ほどのような「けもの道」的な手段もあると思っています。また、グレーな領域の中で意思決定が求められるときには、最終的には、誰かが責任をとるという姿勢を示していくことも重要だと思っています。こうした問題は企業に限らず、社会のさまざまな場面で共通しているように思えます。

松本:それでいうと、アカデミアの世界でも、グレーな領域に対して倫理的な判断が求められる場面があると思いますが、その場合、どのような決定プロセスをとっているのですか?

松尾氏:松尾研究室ではルールの本質に立ち返り、ルールを厳しくする立場だけが強くならないようにしています。例えば、グローバルに研究を進める際、様々な国から来ている学生の個人情報の取り扱いに関して、セキュリティ面や国ごとのルールに過剰に配慮する意識が働いてしまい、その結果、学生の属性分析が十分にできず、適切なカリキュラムを設計するのが難しくなる場合があります。そうしたときには、「万が一の責任は私が取る」としたうえで、あえてルールを緩める立場に立つようにしています。

 ただし、もちろん何でも許容するわけではありません。例えば、学生の個人情報をもとに企業へ斡旋し、対価を得るといった行為は、教育の目的に反するものであり、絶対にあってはならないと考えています。

松本:なるほど。先生ご自身の倫理的基準に沿って、物事をドライブしているのですね。

松尾氏:そうですね。私は教育の最大のミッションを、個々の学生の可能性を拓くことだと考えています。そこを本質としたとき、学生の可能性を最大化できるかどうかが物事の判断基準になります。一般的に、ルールを厳しくする立場の方が説得力を持ちやすい傾向にあると思います。ただし、そこに本質があるのか、本来の目的を果たすために機能しているのかを常に問い、場合によってはルールを緩めることもありますし、逆に是正することもあるということです。

今岡:「これって何のためのルールだったんだろう」ということは、アカデミアに限らず、企業でもよく起こりますよね。ビジネスの場面でも、抽象と具体、ゴールと目的を行き来して、ルールについて再び見直していく姿勢はかなり重要だと思います。

松本:私は、まだ基準のできていないグレーな領域を議論するときには、基準値みたいなものが必要なのではないかと思っています。例えば、コロナ禍では「他者との距離を1m空けて並びましょう」というルールが作られたと思いますが、あの1mはどのような基準で設けられたのかと疑問に思った人もいるでしょう。現在、フィジカルAIのような新しい技術が登場し、新たなルールを定める必要に迫られたときも、その考え方の中にも「倫理的」な基準が必要になるのではないかと思っています。先生はその基準と倫理について、どのようにお考えでしょうか。

松尾氏:これは非常に重要なポイントですよね。なぜ人がそれを「倫理的」だと感じるのかというのは、文化的・歴史的な背景など、さまざまな要素が複雑に絡み合っているので、一概にこうだと言い切ることは難しい。ただ、その難しさも分かった上で、きちんと社会の中に実装していかなければいけないということなのだと思います。ここ、もっと深く議論したいところですが、進化倫理学の領域にまで及んでしまうので、今日の時間では足りないかもしれません。

松本:難しい質問をしてしまい恐縮です。是非ともまた別の機会にお話しできれば嬉しいです。

3.次の10年を拓くためにAI高度化に向けて、個人と社会に求められる視点

今岡:次の10年、製造業に強みのある日本にとって、経済発展のカギを握るのはフィジカルAI技術だと考えています。これからの日本がAI高度化の波に乗り遅れないために、個人や社会にはどのような視点が必要でしょうか。

松尾氏:まず、個人は「逆算力」を持つことが重要だと思っています。何か物事を進めるとき、最終的な目的から逆算して行動を組み立てる力です。不確実で前例のない領域では、他者から与えられた手順をこなすだけでは前に進めません。目的を起点に判断できる人でなければ、新しい挑戦を具体的な行動に落とし込むことができないからです。今岡さんのように自らの力で顔認証の研究を切り拓いてきた方は、判断を迫られる場面で逆算力を発揮してプロジェクトを成功させ、さらに大きなプロジェクトにつなげていった経験があると思います。そうしたサイクルに入った人は、明らかにフットワークが普通の人と変わってきます。ポジティブなフィードバックが回ると、周囲の反対や困難さえも、やりがいや面白さに変えられるのではないでしょうか。

今岡:大変恐縮です。ただ、私も顔認証のプロジェクトに携わる中で、べンチマークに勝つことや、他者がやってくれている仕事を徹底的に自分ごと化しはじめたことで、仕事が面白くなりました。責任やプレッシャーなどを感じる場面もありましたが、「失敗してもいい」というマインドで仕事を進めていきました。

松尾氏:なるほど、物事を自分ごと化して考えるのはいいですね。そういう人が増えればいいのですが、最初の一歩を踏み出すことさえ諦める人が多いのが現状です。先ほどもお話しした通り、私は「失敗する機会を奪ってはいけない」と思っています。今の日本社会では、自分の意志で目標を立て、責任を持って判断する機会そのものが少ないように感じます。社会が挑戦の機会を率先して提供することが必要ですし、一度失敗しても、何度も試行錯誤できる文化を作っていくことができれば、新しい領域にチャレンジする人も増えてくるのではないでしょうか。

今岡:逆算力のある人材を育て、失敗を許容できる社会の体制づくりを行っていくことが今後の日本に求められるということでしょうか。また、何を守り、何を前に進めるのか。その判断基準を社会として共有しながら、挑戦を可能にする環境を作ることが求められているのであり、デジタルエシックスの実践にもつながるように感じました。

松尾氏:そうだと思います。逆算力を持ち、自ら目的を設定して挑戦できる人材が増えること、そして、その挑戦を社会が支え、失敗を糧にできる環境を整えること。この両輪がそろってこそ、日本の競争力は高まっていくのではないでしょうか。

 私自身も人材育成に日々取り組んでいますが、そのポジティブな影響が社会全体へとさらに大きく、そして指数関数的に波及していくようにしていきたいと思っています。

今岡:そのような人材が増えていけば、日本も少しずつ変わっていくのかもしれません。私もデジタルエシックスはリスクヘッジではなく、挑戦を可能にする行動指針であること、そして、技術の価値を創出するのに不可欠な概念であることを、これからも伝え続けたいと思います。本日は貴重なお話をいただき、ありがとうございました。

企画・制作・編集:
NEC BluStellar ブランドマーケティンググループ(鈴木章太郎、若山拓巳、権田麻実)

編集後記:

 本記事の対談で松尾先生は、一貫して失敗をネガティブなものだと捉えていませんでした。むしろ、失敗を恐れ、状況が膠着してしまうことのほうが今後の日本にとっての大きなリスクになってしまう恐れをご指摘されていました。実際に、企業にとって失敗事例とは、これまでの実績に泥を塗るものとみなされがちだと思います。しかし、松尾先生がおっしゃるように、我々は失敗を重ねてこそ、成功への道を作っていくことができます。減点主義で人材やプロジェクトを評価するのではなく、「目的から逆算してどのような判断を行ったのか」「どこまで本質に迫れたのか」といったプロセスを含めて評価する視点が求められるのではないでしょうか。

 同時に、「ルールを厳しくする立場のほうが説得力を持ちやすい」という言葉も印象的でした。リスクを避けるために規制を重ねることは、一見すると合理的に見えます。しかし、そのルールは本来の目的を果たすために機能しているのか。社会にとっての価値創出につながっているのか。そう問い直す姿勢こそが重要です。松尾先生が実践されている「けもの道的なアプローチ」や、松尾研究室でのルールの捉え方は、規制を強化することではなく、「何を守れば前に進めるのか」を見極める試みでもあります。ルールを“止めるための装置”ではなく、“信頼のもとで行動するための指針”として再設計する。この考え方は、まさにデジタルエシックスの理念と重なります。未来を形づくるのは、技術そのものではなく、それをどう扱い、どう信頼を築いていくかという社会の姿勢です。デジタルエシックスは、その未来を支える思考の基盤であると、本対談を通じて改めて感じました。