AI時代の新・必須科目。「デジタルエシックス」とは何か
AIが爆発的な進化を続けるなか、「AIにどこまで判断を任せるべきか」「AIのバイアスをどう制御するか」といった「倫理」に関わる問いが、ビジネスの現場に突きつけられている。デジタル技術をどのような判断基準のもとで扱うのか。その判断を支える考え方として注目され始めている「デジタルエシックス(デジタル倫理)」をご存じだろうか。この「デジタルエシックス」こそが、企業の競争力や信頼、持続的成長を左右する。そう話すのは、日本マイクロソフトやLINEヤフーでDX・AI事業をリードした実績を持ち、現在はソフトバンクの100%子会社 Gen-AXの代表取締役社長CEOを務める砂金信一郎氏と、NECフェローで顔認証技術の第一人者である今岡仁氏だ。その理由はなぜか。ビジネスの現場に「倫理観」をどう実装するのか。AI時代の新たな必須科目を深掘りする。
SUMMARY サマリー
なぜ「倫理」が死活問題なのか
ビジネスの意思決定をどこまでAIに任せるべきか。AIの判断に人間はどこまで説明責任を負うのか。AIに何を学習させ、何を学習させないのか──。
AIが急激にビジネスに浸透するなかで、これまで人類が直面したことのない「倫理的な問い」が、企業経営の現場に突きつけられている。
そこで注目され始めているのが、「デジタルエシックス(デジタル倫理)」だ。
これは、AIをはじめとしたデジタル技術を、どのような判断基準のもとで社会に実装していくのかを問う概念。
「何ができるか(技術)」だけでなく「何をすべきか(倫理)」を問い、社会に望ましい形でのデジタル利用を目指す。
日本マイクロソフトやLINEヤフーでDX・AI事業をリードした実績を持ち、現在はGen-AXの代表取締役社長CEOを務める砂金信一郎氏は、デジタルエシックスについて、「技術を社会に浸透させるために、開発者が一丁目一番地で向き合うべきもの」と語る。
「ここ数年で生成AIのチャットサービスは、信じられないスピードで社会に広がりました。それは技術の進歩だけではなく、開発者が倫理的観点を徹底的に検討したことも大きな要因の一つです。想像してみてほしいのですが、仮にChatGPTが差別的な発言を繰り返すサービスだったら、ここまで社会に受け入れられることはなかったはず。実際に生成AIブームの初期、AIにあえて意地悪な質問をいくつも投げかけてみたんです。ですが、想像以上に真っ当な回答が返ってきて、正直驚きました」(砂金氏)
生成AIには、もちろん課題や論点も多く残る。それでもここまでサービスが普及したこと自体が、「デジタルエシックスの成果だ」と同氏は強調する。
一方でデジタルエシックスに向き合うのは、開発者だけではない。AIやデジタルを導入する企業にとっても、倫理的観点の検討は避けられない論点だ。
そう語るのは、NECフェローで顔認証技術の第一人者である今岡仁氏である。
「現在、多くの企業がAIやデジタル導入を急速に進めるなか、スピードや生産性向上を最優先にするのは当然の流れです。ただ皮肉なことに、その過程でデジタルエシックスの議論が後回しになれば、その姿勢こそが事業の停滞を招きかねないのです」(今岡氏)
そう語る背景には、自身の経験がある。今岡氏がNECで20年以上にわたりリードしてきた顔認証技術は、パートナー企業と共に社会実装を進める段階で、「倫理の壁」に直面したのだという。
「顔認証技術の開発を始めた2002年当初は、高い技術力さえあれば、技術は世界中に広がると考えていました。ですがそこでぶつかったのが、プライバシーの問題。顔認証技術を社会に実装するには、顔という極めてセンシティブな個人情報をどう扱うか、ユーザーや行政と丁寧に議論し合意をとっていく必要があったのです。これは開発側だけで完結する問題ではありません。技術を導入し、サービスとして提供する企業側もまた、社会的な説明責任をどう果たすのか、どこまでを許容範囲とするのかを主体的に考えるべきなのです」(今岡氏)
実際、倫理的な観点について十分な検討がなされないまま進んだ結果、最終段階でプロジェクトが頓挫したケースもあったという。
スピードを優先し、デジタルエシックスを後回しにしたことが、かえって事業の停滞や中止を招く。そうした逆説的かつ深刻な事態が現実に起きているのだ。
エシックスは「守り」ではない
デジタルエシックスの欠如がもたらす影響として、多くの人がまず思い浮かべるのは、炎上やブランドの毀損だろう。
たとえば、生成AIで制作した広告が偏見を含んでいたとして批判を浴びるケースや、曖昧な同意のもとで顧客データを学習に利用し、問題視されるケースが挙げられる。
こうした事例を耳にすると、デジタルエシックスは「問題を起こさないための守り」と捉えられがちだ。だが今岡氏は、それだけではなく、「成長のための攻めの姿勢」だと強調する。
「デジタルエシックスを考え抜くことは、言い換えれば『誰もが安心して心地よく使えるか』を検証し尽くすこととも言えます。その検証を重ねたサービスこそ、多様な人々に受け入れられる。結果として、より大きな市場を取りに行けるのです」(今岡氏)
前述の顔認証技術の展開も、その一例と言える。
「顔認証技術の開発では、プライバシーだけでなく、『公平性』をどう担保するかの問題にもぶつかりました。 最初に直面したのは男女差の解消。女性は化粧によって顔の特徴が変化しやすく、男性に比べて認証精度が下がってしまったのです。 そこを改善すると、今度は人種や年代による認識精度の差という、新たな課題が立ちはだかります。 どの属性も排除しない技術にしたいとの思いで、こうした倫理的課題に一つひとつ向き合ってきました」(今岡氏)
倫理面での試行錯誤の結果、NECの顔認証技術は、世界中で使われる技術に進化。
現在では、入国管理や国民IDといった国家レベルのセキュリティから、企業の入退室管理や決済システムまで、幅広い領域で活用されるまでの成長を遂げたのだ。
理想論ではなく行動指針
デジタルエシックスの重要性は確認できた。だが、一見抽象的な概念を、現場にどう実装していけばいいのか。
「現場で意思決定を担う一人ひとり、とりわけ中間管理職のような現場リーダーこそが、倫理的な視点を持つことが求められる」と話すのは砂金氏。
“エシックス担当”のような専門職を置くだけでは、足りないという。
同氏は日本マイクロソフト在籍時に女子高生キャラクターのAIチャットボット「りんな」の開発を手がけた経験から、その理由を語る。
「りんなは高校生という設定だったこともあり、『どのデータを学習させるか』『どんな発言がふさわしいのか』といった倫理的な論点について、丁寧に議論をする必要がありました。 そこで、親や教師の役割を担う組織として、りんなの学習データや発言内容を見守り、時には指導する “PTA”を設けたのです。 りんなやユーザーを最も理解しているのは現場です。だからこそ、倫理の判断も現場メンバーが担うべきだと考え、PTAも現場主導で運営していました」(砂金氏)
りんなに限らず、どんなAIサービス開発でも砂金氏が重視するのは、AIに意思決定のすべてを任せずに、必ず人間が介入する「ヒューマン・イン・ザ・ループ」の姿勢だ。
AIの自動化と人間の判断を組み合わせることで、成長と信頼を両立するサービス運用が可能になるのだという。
さらに今岡氏は、デジタルエシックスは単なる理想論ではなく、現場で日々活用する「行動指針」であると位置付ける。
「自社のあるべき姿としてパーパスを明文化する企業は多いと思います。それは『どの山の頂上を目指すか』という目標を示すもの。 実際にそこへ到達するには『どのように山を登るか』を示し、具体的な行動に落とし込む必要があります。その日々の行動指針となるのが、デジタルエシックスなのです」(今岡氏)
第一歩は「ユーザーファースト」
ここまで記事を読んで、「自社では倫理面も十分にチェックしている」と考える経営者やリーダーも少なくないだろう。
実際、日本企業では製品やサービスの開発が進んだ後、法務やコンプライアンス部門による倫理的観点の最終確認を経てリリースされるケースが一般的だ。
しかし今岡氏と砂金氏は、「それでは遅い」と声をそろえる。重要なのは、最終段階でのチェックではなく、開発のスタート時点から倫理的観点を組み込むことだという。
「問題は、リスクそのものよりも“想定していないこと”なんです。新しい挑戦には失敗や炎上の可能性も伴います。 しかし、何も考えないまま問題が起きれば、開発や事業そのものが止まってしまう。 一方で、あらかじめ倫理的な論点を網羅的に検討し、行動指針を準備しておけば、問題が起きてもサービスを継続することができます」(今岡氏)
デジタルエシックスの視点を持つための第一歩として砂金氏が挙げるのが、ユーザー体験(UX)を徹底的に見つめ直すことだ。
「数年前、サブスクリプションサービスで退会ボタンが極端に見つけづらい設計が横行していました。 サービス提供者側の都合を優先し、ユーザー視点が欠けていた典型的な例だと思います。本当に顧客の利便性や満足を考えていれば、そうした設計にはならないはずです。 このサービスは本当にユーザーのためになっているのか。AIにどこまで判断を任せたとき、ユーザーは不安や不快感を抱くのか。 そうした問いを考え続ける“ユーザーファースト”の姿勢こそが、デジタルエシックスの出発点です。 その姿勢が結果として、グローバルで選ばれ続ける競争力につながっていくのだと思います」(砂金氏)
AI時代において、デジタルエシックスは単なるリスク管理ではない。企業の持続的な成長を支える経営基盤として、いま改めてその重要性が問われている。
執筆:塚田有香
撮影:大橋友樹
デザイン:立花和政
編集:金井明日香
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2026.03.25 NewsPicks Brand Design