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2020年03月31日

「サイバー×フィジカル社会」
を支える究極の「鍵」のカタチ

 MITメディアラボ客員教授や、慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授などを歴任した中村 伊知哉氏。2020年4月、テクノロジーを生かしたビジネスを生み出せる起業家を育成するiU(情報経営イノベーション専門職大学)の学長に就任する。

 その中村氏が期待するのは、フィジカル空間(現実空間)とサイバー空間(仮想空間)が融合する社会の到来だ。その中核となる技術としてAIとIoT、そして生体認証(バイオメトリクス)に注目しているという。

 この分野のグローバルリーダーであるNECで顔認証技術を研究して約20年の第一人者、NECフェローの今岡 仁が、フィジカルとサイバーが行き交う未来の社会について語り合った。

「生体認証」でフィジカルとサイバーの往来を自由に

 ──中村先生はAIとIoTという「2大テクノロジー」によって変わる未来をどのように想像していますか。

中村:
 インターネットが普及して約25年、スマホの登場によるモバイルコンピューティングが発展し始めて10年ほどがたちましたよね。ともに、私たちの暮らしやビジネスを激変させる大きな「発明」でした。

 ただ、AIとIoTは、それ以上に世界を変える可能性を秘めているテクノロジーだと思います。

 AIは人の能力を超えていくでしょうし、モノとモノ同士が人を介さずに、“コミュニケーションを取る”というのは、これまで経験したことがない波です。その始まりに立っている自分を幸運に思いますし、素直にワクワクしています。

中村:
 AIとIoTがもたらすのは、「フィジカル空間とサイバー空間」が高度に融合した世界だと思います。

 たとえば、フィジカル空間で得た人間のビッグデータを、サイバー空間のAIで解析し、結果をフィジカル空間のロボットなどを通じて人間にフィードバックする。そんな新たな価値を与えるような世界を、私は想像しています。

 日本政府もテクノロジーによって人間を煩わしさから解放し、快適で質の高い生活を送れる社会「Society 5.0」の実現を提唱していますよね。

 人類が歩んできた狩猟、農耕、工業、情報に次ぐ変化として、仮想空間と現実空間が融合する新たな社会を位置づけていますから、ものすごく大きなムーブメントがAIやIoTを中心としたテクノロジーで起こるでしょう。

  ──融合社会において、中村先生が注目するテクノロジーはAIとIoT以外に何ですか。

中村:
 未来の暮らしでは、想像もつかない便利さが生まれると思うのですが、どのようにしてセキュリティを確保するか、とくにどのようにして正確に本人を認証するかがカギを握ると思っています。

 今のフィジカル空間では物理的なカギがあり、サイバー空間ではIDやパスワードを使っている。それぞれの空間で複数のカギを使い分けていたのでは、融合する世界ではスマートではありませんよね。

 ベストなのは、「手ぶら」でスムーズに本人を認証できること。そこで人間の身体そのものを利用する生体認証に大きな期待を持っているのですが、専門家である今岡さんはどう考えていますか。

今岡:
 フィジカルでもサイバーでも認証、カギをもっと便利かつセキュアにする方法として生体認証の可能性を私は信じています。

 フィジカル空間でいえば、鍵やICカードを活用していますが、盗難・紛失というリスクがあります。

 一方、サイバー空間での鍵といえるIDとパスワードは、それぞれのサービスごとにIDとパスワードを設定する必要がありますが、複数のサービスごとに設定したIDとパスワードを覚えていくのは現実的ではない。

 その結果、すべてのサービスで同じIDとパスワードを設定する人が多いと思いますが、これだと漏えいした時のリスクが高まります。

 最近ではパスワードを記憶してくれるWebサービスがありますが、これもセキュリティの観点からいえばマイナスですよね。

 利便性とセキュリティを兼ね備えるって一見すると矛盾するんですが、それを実現できるのが生体認証だと思っています。とくにサイバーとフィジカルが融合する社会ではより効果を発揮するテクノロジーだと思っています。

今岡:
 一つの例として海外旅行をイメージしてみてください。

 フライトで疲れているのに、空港で長い列に並んで何度もパスポートを提示させられる。空港から出た時点でヘトヘトですよね。生体認証なら職員が顔と写真を見比べるより速く確実に本人確認できるので、ストレスなく街へ出かけられます。

 ショッピングや入場料などを慣れない通貨で支払うのは大変ですし、おつりが偽札かもしれませんが、生体認証のキャッシュレス支払いなら安心です。また、ホテルのカギがキーレスなら、カギを忘れたり落としたりする心配がいりません。

中村:
 スマートな旅行ですね。いつ頃に実現できそうなんですか。

今岡:
 実は、和歌山県の南紀白浜でこうしたセキュリティと利便性を両立した旅体験を実現するための実証実験※1を行っています。

 あらかじめ顔画像やクレジットカード情報を1回登録するだけで、空港到着時にウェルカムメッセージでお出迎えを行い、次に向かったテーマパークでは優先入場ができます。

 ホテルでは部屋のカギも必要なく、顔認証で本人確認を行い、部屋の解錠を行います。ショッピングやレストランでも顔認証で決済できるので、手ぶらで街を楽しむこともできます。

中村:
 完全に手ぶらでできますか。

今岡:
 はい。ビーチへ財布を持っていくと落とすかもしれないし、砂だらけの手で触りたくない気持ちがありますが、顔認証なら手軽に飲み物を買うことができます。

 このように、顔認証は何かを持ち歩いたり、触れる必要がないのでラクで、使えるシーンも用途が幅広いのが特徴です。


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※1:顔認証を使って地域全体でおもてなし~南紀白浜で始まった最新の地域活性化~https://jpn.nec.com/press/202002/20200226_02.html

精度の差はAI、「ディープラーニング」

中村:
 生体認証といえば、最初は指紋でした。私は認識しにくい指のようで、頻繁にストレスを感じました。ところが、顔認証は空港でも使われているほどで、精度がとても高くて、しかもかざすだけで便利ですよね。

  指紋や顔はスマートフォンにも搭載されていてなじみがありますが、生体認証は他にどのようなものがあるのですか。

今岡:
 NECが実用化しているものですと顔、虹彩、指紋・掌紋、指静脈、声、耳音響の6分野があり、いずれも世界最高水準の精度を実現しています。

中村:
 耳音響というのは何ですか。

今岡:
 マイク付きイヤホンを装着して認証用の検査音を出すと、耳の中で洞窟のように反響するので、返ってきた音で認証する技術です。耳穴や頭部の空間構造には個人性があるので、返ってくる音も人それぞれです。

中村:
 耳の穴の形はすべて違うんですね、知らなかった。

顔認証を支える3つの技術

中村:
 スマートフォンだけを挙げても、いくつもの企業が顔認証技術を開発していて、認証精度に違いがありますよね。何が精度を左右するのですか。

今岡:
 主に3つのステップで識別するのですが、「顔検出」「特徴点検出」の技術はほぼ横並びで、「顔照合」で用いられるディープラーニングのノウハウが精度の差として表れます。

今岡:
 NECは米国国立標準技術研究所(NIST)の評価テストで世界1位※2の精度だと認められているのですが、「本人ではない」と判断してしまう認証エラー率は1200万人の顔画像で0.5%。2位は1.8%ですから、手前味噌ですが、一歩抜きん出ています。

 顔照合の技術は同じ「ディープラーニング」ですが、どのような指標で学習させるのか、どのネットワーク構造を使用するのかといったノウハウの違いによって、精度はまったく異なってきます。

 また、登録人数が多くなるほど似た人が増えるため認証は難しくなりますが、NECでは人数にほとんど依存せず精度を保っています。

中村:
 これから社会実装して登録数が増加することを考えると、とても心強いことですね。

※2:米国国立標準技術研究所(NIST)による顔認証技術の性能評価で5回目の第1位を獲得。https://jpn.nec.com/press/201910/20191003_01.html

 NISTによる評価結果は米国政府による特定のシステム、製品、サービス、企業を推奨するものではありません。

20年かけて生み出したイノベーション

中村:
 そもそもNECが生体認証の研究を始めたのは、いつ頃のことですか。

今岡:
 最初は指紋認証からスタートし、1971年から10年あまりの研究によって実用化され、その後NISTベンチマークで第1位になるなど、世界最高水準の精度を実現しました。

 顔認証はなかなか精度が上がらず、生体認証技術の研究者からは、その当時、「三文判」と評されていました……。1989年から研究を始めて2002年に私が引き継ぎ、その当時は3人程度で細々と進めました。

 精度が上がらず、もう諦めようかという声も聞こえた時期がありましたが、私は利便性の高さから「もし実用化できれば革命が起こせるかもしれない」と思って奮起したんです。

  地道に研究を続けた結果、実用的な精度が出るようになりました。ところがNECには顔認証での知名度がないので、なかなか受け入れられなくて。

 そこでNISTのベンチマークに出したところ、No.1を獲得できて。そこから一気に世界中から問い合わせが急増しました。

 現在NECの生体認証は世界70以上の国と地域で数多く採用されていますが、顔認証は利便性が高く、 空港やコンビニ、金融など幅広い場所で利用されています。

中村:
 ビジネスとして立ち上がるまで、20年もかかったんですね。

 ベンチャーの勢いや新しいアイデアも大事ですけど、同時に大企業が20年ぐらい根気良くやり続けるからこそ生まれるイノベーションもある。NECの顔認証技術が世界のトップに立っているのは、その例のように感じます。

今岡:
 生体認証は、どうしてもセキュリティとプライバシーのコンセンサスを得る期間も必要ですから時間はかかるな、と。

中村:
 日本は慎重に議論しているので時間がかかりますが、その後は後戻りなく着実に浸透していくでしょう。

「認証」ツールではない生体認証の可能性

中村:
 もう一つ聞きたいのですが、最初に研究した指紋認証でNo.1を獲得したのに、なぜ別の生体認証技術を研究してきたのでしょうか。

今岡:
 ウェブサービスで使うパスワードは、以前なら1つで十分だったのに、破られるケースが増えてきて、今では二段階認証を導入するサービスが増えてきましたよね。生体認証も、複数必要になった時に備えておく必要があるわけです。

 ビジネスの観点で見ても、今はベンダー間の競争は単一的な認証方法の精度やコスト、導入のしやすさに焦点があたっていますが、今後は確実に2つ以上の認証技術を高いレベルで保有しているかが焦点になるはずです。その時に他社を引き離したい狙いもあります。

中村:
 手ぶら決済も高額のときは念のため強固にしてほしいですよね。カードなどとの組み合わせも考えられますが、それでは利便性を欠いてしまいます。

今岡:
 そうですね。そこで、必要に応じて複数の生体認証を組み合わせることを「マルチモーダル」といいます。セキュリティ強化だけでなく、認証で取り残される人がいないようにするためにも必要で、たとえば病院で患者の取り違え防止策として期待されています。

 指紋認証だと、指をケガしている可能性もある。顔認証が優れているのは、誰にでも顔があって触れる手間もない点にあるのですが、包帯が巻いてあるかもしれません。でも、目を開けられるなら虹彩認証が使えます。

中村:
 「認証」という言葉のイメージが先行して、サイバーとフィジカルをシームレスにつなぐためのカギとして捉えていたんですが、マルチモーダルの話を聞いて見方が変わりました。

 使い方次第で可能性を広げることができるツールなのだから、「認証」に代わる言葉に置き換えてもいいのかもしれませんね。

 認証の枠組みを超えたマルチモーダルの利用用途として、他に何が考えられますか。

今岡:
 耳音響はイヤホンを付けて移動している間、ずっと認証を継続できるという特徴があります。導線を分析するような使い方もできますし、付け替えたことが分かるので自動的に音楽やディスプレー表示を変更することも将来的には実現できると思っています。

 顔からは、表情と視線を読み取ることができます。これらの組み合わせで、たとえば2人がケンカしているのか、普通に会話しているのかが分かります。私たちも普段、人と向かいあって会話をするときは、顔色や表情から相手の気分や体調を想像しながら話しますよね。同じような分析が、AIで可能になってきているんです。

中村:
 人体とサイバー空間がつながる方法について、これまで非常に狭い視野でしか考えられていなかったのではないでしょうか。

 デジタル化の手段として6つの生体認証技術のいずれかを組み合わせる、あるいは適材適所で選択する。マルチモーダルは、イノベーションによって人間中心社会を築くためのキーテクノロジーになりそうです。

 2020年4月から起業家を輩出するための教育機関「iU」(情報経営イノベーション専門職大学)の学長となるのですが、イノベーションの発想を豊にするためにも、マルチモーダルについて今岡さんから伝えていただきたいですね。

今岡:
 ぜひ協力させてください。

中村:
 顔認証で世界No.1は達成して、今後は何を目指すつもりでしょうか。

今岡:
 顔認証の研究は世界で今なお上を目指していて、NISTのベンチマークのレベルが上がり、登場するライバルも増えています。それは素直にうれしいことなのですが、10年連続No.1だからこそ、余計に負けたくない。さらに期待に応えられるよう、技術を磨いていきます。

(取材・編集:木村剛士 構成:加藤学宏 撮影:竹井俊晴 デザイン:月森恭助 作図:大橋智子)

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