2020年08月26日
世界一を誇るNECの顔認証技術。その知られざる開発秘話に迫る
米国国立標準技術研究所(NIST)のベンチマークテストで、5回1位(※)の評価を獲得しているNECの顔認証。空港の出入国管理、オフィスの入退室管理をはじめ、店舗における買物決済、工場での出退勤管理など、「精度世界一」の技術はさまざまな領域での応用が進んでいる。しかし、ここまで来る道のりは決して平たんではなかった。一時は研究員が2人となり、風前の灯火の状態に陥ったこともあったという。そこから、どうやってほかを圧倒する性能をたたき出すまでに至ったのか。また、新型コロナウイルスの感染症対策として、新しい生活様式への転換が求められる今、生体認証にはどのような可能性があるのか。顔認証の“生みの親”であり、NECフェローとして生体認証技術を統括する今岡 仁に話を聞いた。
(※) 米国国立標準技術研究所(NIST)による顔認証技術の精度評価で5回第1位を獲得
NISTによる評価結果は米国政府による特定のシステム、製品、サービス、企業を推奨するものではありません
エラー率「約0.3%」の精度に世界中が驚いた
マウスを持つ手が、小刻みに震えていた。
2010年4月、米国国立標準技術研究所(NIST)の顔認証技術ベンチマークテストの結果が公開される日のことだ。前年のベンチマークテストでトップの成績を残していたものの、「2009年は参加した企業数も少なく、まだ世界レベルでみとめられたわけではありません。ここで世界一にならなければ、なんの意味もないと思っていました」とNECの今岡 仁は当時を振り返る。
テストから結果の公開まで約1カ月。考えても仕方ないとわかっていても、考えずにはいられず、頭の中をからっぽにするため、時間があればがむしゃらに走って汗をかいていたという。そして発表の日、結果が掲載されるURLが送られてきた。
「もしかしたら研究が打ち切られるかも知れない…。研究者人生、それも自分1人ではなく、スタッフみんなの人生もここにかかっている。そう考えるとなかなかクリックできず、ほかの人に開いてもらったのを覚えています」
結果はある意味、衝撃的だった。エラー率「約0.3%」。つまり、照合率「約99.7%」。他社の数値は2位でさえエラー率「2~3%」であり、ほかはさらに悪い数値だった。それをよそ目に、NECの顔認証は1桁上の数字を示していた。さらに処理速度も1画像当たり0.3秒と他社を大きく引き離し、文句なしのNo.1、世界一だったのである。
その時の心境について「ホッとした、というのが正直なところです」と今岡は言う。ここには2つの意味がある。1つは、これからも研究を続けられるという安堵感。もう1つは、エラー率「約0.3%」という数字で、顔認証が実用化に耐えうる精度を出せることを世界で初めて証明できた、責任を果たせたという安堵感だ。
実際、この年のベンチマークテストの結果が与えた影響は大きく、NECの顔認証はさまざまな領域で実装されることになる。モバイル端末のログイン、空港の出入国管理、オフィスの入退室管理、コンサート会場・スタジアムへの入場管理など、NECの顔認証によって効率化、合理化が実現しているシーンは想像以上に多い。
ただ、ここまでくる道のりは決して平たんではなかった。研究者は魔法使いなどではなく、課題に向き合い、その課題を地道に1つずつ克服し、ブレイクスルーしていく以外に道はない。今岡の研究者としての歩みも同じである。NECへの入社は1997年、当初は脳の視覚情報処理にかかわる研究に取り組んでいた。顔認証の研究に携わるのは2002年からだ。
一歩ずつ進むしかない、アルゴリズムの構築
2002年当時、NECでは指紋認証の研究が先行しており、それに続く生体認証の領域として顔認証の人員強化を進めていたという。しかし、そのころの顔認証は技術的な黎明期にあり、エラー率は「10~20%」と、製品として普及していく目途は立っていない状況だった。
「顔の領域別に特徴が合うか合わないかを判定する、極めて原始的な方法が主流でした。ですが、顔認証は向きや照明、経年変化などの変動要素が多く、指紋認証などより複雑になります。条件が変わったとき対応できない技術では意味がなく、次のフェーズに進むために機械学習的なものが必要なのは明白でした」
顔認証の進化は、機械学習のアルゴリズム構築の過程でもある。ただ、最適なアルゴリズムの構築は一筋縄ではいかず、構築し、システムに落とし、検証する。それを繰り返して最適解を見つけるしか道はない。数カ月、まったく成果が上がらない時期もあったが、課題を1つずつつぶしていく作業を地道に続けた。世界を見渡すと、他社も苦労しているようだった。エラー率「2~3%」が1つの壁になっており、それを突き抜けたという報告はどこからもなかったのである。やがて頭打ちになり、顔認証という技術そのものの将来性も疑われるようになっていた。100人のうち2~3人を誤認識するようなら実用化する意味がないからだ。
2007年から2008年にかけて世界的に研究者の数は減り、NECの顔認証チームも今岡と後輩の2人、ほかは外部スタッフで研究を進めていた時期があったという。そんな状況で、挫けそうになったことはないのだろうか。
「実はそのあたりから、私自身としては研究が面白くなってきたんです。機械学習の仕組みがわかり、アルゴリズムを構築するノウハウもたまり、勝てる技術をつくる道筋が少しずつ見えてきたことが大きかった。自分がやりたいようにやるには、機動力の高い少人数のほうがいい。そう考えることもできるじゃないですか。2004年にNECの指紋認証が世界No.1の精度を実証したことも励みになりました。顔認証でNo.1を獲るのを、遠い夢ではなく具体的な目標として設定できましたから」
技術と価値証明、2つのブレイクスルーが必要だった
自分の研究が世界一と評価される機会には、なかなか巡り合えるものではない。顔認証チームは、自分たちの創意工夫と頑張り次第でそれができる場にいた。そうした環境の中で、モチベーションを保ち、今岡たちは寸暇を惜しんで研究に没頭する日々が続いたという。
「どんなにプレッシャーがあっても自分のやることは変わりません。自分の信条を守り、性能をあげていくことだけ。ネガティブなことを考えれば考えるだけ能率は下がる。自分の少ないCPUをどう割り当てるか。それなら勝てる確率を高めるほうに割り当てたほうがいいですよね」と今岡は笑う。
そして2009年、初めて参加したNISTのベンチマークテストで世界No.1の精度を実証してみせる。「自信はあったわけではなく、正直、半信半疑でした。技術的にはやり切ったという思いがありましたが、他社がどこまでの精度を出してくるか想像できなかったからです」と今岡は振り返る。しかし、結果は2009年だけでなく、2010年と連続して世界No.1、それも他社をはるかに凌駕する数字を叩きだし、NECの顔認証技術の高さを世に知らしめたのだ。
顔認証に特化したアルゴリズム構築によって技術的なブレイクスルーを果たしたが、その先で、今岡らの研究チームは事業化という壁に直面することになる。世界No.1の認証精度は確かに特筆すべき快挙だが、「それをどう事業化するのか」という点だ。
「世界中の顔認証の研究者たちから驚きや賞賛の声が多く寄せられましたが、経営層を含む社内、そして社外に『ここにどんな価値、可能性があるのか』を広く周知しないと、事業化という次のステージには進めません」
考えた末に目をつけたのは、新しく始まったR&Dのマスコミ向け説明会だった。そこで技術解説だけでなく顔認証のデモを計画するが、初日はうまくいかず失敗してしまったという。その夜、今岡は徹夜で考えた。顔認証の複雑さと研究成果をわかりやすく見せるには、どうしたらいいのか。顔の向き、光の当たり方よりも経年変化、昔の顔と年齢を重ねた今の顔を瞬時に認証できるとしたら、どうだろう。
こうして、今岡は自分自身の高校生時代の写真と23年後の写真を使い、それだけの経年変化があっても認証できるデモを作成した。マスコミの前で披露すると技術の革新性が伝わり、新聞、テレビなどでも取り上げられるようになっていく。
「1枚の写真として見せたことで、この技術の価値や可能性がストンと、腹に落ちたのだと思います。以降、問い合わせが増え、事業化の話も具体化していったため、あのデモが大きなブレイクスルーになったのは間違いありません」
さらに快挙は続いた。NISTのベンチマークテストで、NECの顔認証は2009年にNo.1の評価を得て以来、2019年まで、5回世界No.1に輝いたのだ。
個人の識別から、個別のサービス、情報提供へ
世界一という評価を背景に、NECの顔認証は大きな広がりを見せている。しかし、今岡は現状に満足してはいない。「顔認証をさらに身近で便利なものにしていきたいと考えています。まだまだ顔認証を始めとした生体認証は、大きな可能性を秘めていると思っています」。
それではどんな可能性を秘めているのか。その1つが「One ID Platform」だ。海外旅行をするとき、空港だけでなく、交通機関でのホテルへの移動、チェックイン、そしてショッピングなど、すべて顔をIDとして承認、決済できるようになれば利便性は格段に上がるだろう。
さらに今後は「WhoからWhatへ」という潮流になっていくという。現在の顔認証は個人の識別、つまり「Who」の段階だが、そこから個々の嗜好に合わせたサービスや情報を提供する、「What」にまで発展していく可能性があるわけだ。「ある人がクルマに乗ったら、その人の好みに合わせてセッティングを変えたり、好きな音楽を流したり。顔認証を入口にして、ほかのテクノロジーと組み合わせていくのが次のフェーズだと思います」。
また、医師が顔色や表情から体調の変化を見て取るように、顔には個人識別以上の情報がある。顔認証を医療分野へ応用することで、予防医療や健康経営、ストレスケアにもつながる可能性があるわけだ。
afterコロナ、withコロナ時代と生体認証の可能性
さらに近年、もう1つのキーワードとなるのが「COVID-19」だ。新型コロナウイルス感染症対策の文脈で、顔認証は新しい視点から注目されるようになっている。NECの顔認証は、マスクやサングラスなどを装着していても、事前登録した画像データと照合することで、高精度な識別が可能になっている。ほかにも、感染症防止と社会持続性を両立させるために、「非接触」を新たなスタンダードとするべく、さまざまな取り組みを進行中だ。
「COVID-19という課題に直面し、私自身、顔認証の技術を今までとは異なる角度から見られるようになりました。非接触の認証は新たな社会価値となる可能性を秘めており、社会から求められるものも変わりますし、研究者もより幅広く、事業化の道を模索すべきでしょう。顔認証は、モノに接触しないタッチレス、人と人が直接触れないコンタクトレスな承認を可能にします。タッチレスでいうと、オフィスや工場への入退管理はもちろん、そこに体表温度測定を組み合わせた水際対策も可能になります。コンタクトレスでわかりやすいのは顔認証による決済でしょう。施設内の混雑度分析、マスク未装着者の検出などによって“密の見える化”を行い、感染症対策に反映させることもできるはずです」
実際、穴吹工務店では顔認証を活用した新しいセキュリティサービスを開始。タッチレスでの入館やハンズフリーの荷物の受け取りも可能になっている。また、ダイドードリンコでは、日本初、自動販売機での顔認証決済の実証実験も開始されており、生体認証は暮らしの利便性、安全性を増す身近な存在となっていくだろう。
今岡は史上最年少でNECフェローに就任後、生体認証の「顔」という立場に加え、技術側の責任者として、事業部と連携しながら生体認証の活用を進めていく役割を担っている。
「プレッシャーはありますが、課題を1つずつクリアして、一歩ずつ前に進んでいくという研究の基本スタンスは変わりません。それに、生体認証の研究は自分との闘いでもあります。プレッシャーにさらされ、挫けそうな局面に向き合ったとしても、最終的には自分がどれだけ性能を上げられるかで評価は決まります。若い研究者に伝えたいのは、100%の結果で満足するのではなく、常に120%を目指せということ。全員が目の前の研究、課題をやり切った先に、新しい世界が広がっていると確信しています」
生体認証資料ダウンロード:NECの生体認証について
目次
- 急速に進むデジタル化の波
- デジタル化の波が起こす変化
- NECの価値創造の考え方
- 生体認証で変わる社会・生活
- NECの生体認証が目指す世界ほか
- NECの生体認証への取り組み、世界No.1の生体認証技術など
- 生体認証事業のグローバル展開実績、お客様事例
- さまざまな認証方法など