あなたに最適な医療が見つけられる世界へ
~4人の有識者による豊かな未来への提言~
創薬の研究開発をはじめライフサイエンスの環境は劇的に変化している。その大きなドライバーとなっているのがAIをはじめとしたさまざまな最先端技術だ。IT技術は研究開発のみならず、治療や疾患予防の場でも積極的に使われるようになりつつある。こうした状況の中、NECでは「2030年のありたい世界」を具体的に描き、その社会実装に向けた具体策について議論を行う「NECヘルスケア・ライフサイエンス有識者会議(Life Science WG)を開催した。ライフサイエンス領域で私たちが思い描く未来像を実現するには、どのような技術や道筋が必要なのか。4人の有識者による豊かな未来に向けた提言についてご紹介したい。
SPEAKER 話し手
橋本 千香 氏
ガラサス合同会社
代表
赤松 謙子 氏
Japan Bio Community(米国認可NPO)
代表
古井 祐司 氏
東京大学 未来ビジョン研究センター
データヘルス研究ユニット 特任教授
自治医科大学 客員教授
藤本 康二 氏
東京医科歯科大学 特任教授
同大学 統合イノベーション機構
オープンイノベーションセンター 副センター長
日本でも医療デジタル化が本格始動
近年研究が進んできた抗体医薬品や再生医療、遺伝子治療など、化学的に合成された薬以外の選択肢が、がんや難病に有効な治療手段として利用され始めている。こうした創薬モダリティ(※)の進化と多様化をもたらしたのが、ライフサイエンス研究の飛躍的な発展にもとづく創薬技術の進歩だ。
創薬の領域では、グローバルなコラボレーションが進んでいる。その一例が、新型コロナウイルスのワクチン開発におけるバイオベンチャーと大手製薬会社との国境を超えたパートナーシップだ。基礎的な研究の継続があった上ではあるが、新型コロナウイルスワクチンにおいて従来は考えられなかった程の短期間で、変異の多いウイルスに対応したワクチンが供給されている。また、近年では、AIドラッグデザイン会社やゲノム情報のプラットフォーマー、IT企業などと製薬会社によるコラボレーションも盛んになっている。
一方、ヘルスケア領域ではプレシジョンメディスン(Precision Medicine:患者の個人レベルで最適な治療方法を分析・選択し、それを施すこと)が世界的なトレンドとなり、ゲノム検査やAI診断に基づいて、患者個人に最適な治療法を提供しようという考え方が広まりつつある。
さらに、ヘルスケアの方向性もデジタルトランスフォーメーション(DX)を活用し、予防を含めた医療の質の向上へと大きくシフトしつつある。日本政府は「骨太方針2022」の中で「医療DX推進本部」を新設して、行政と民間が一丸となって医療デジタル化を進めていくことを明言した。コロナ禍によるリモート会議の普及を追い風に、オンライン診療や健康アプリの活用が進むことも予想されており、デジタルツールの治療への活用は世界の潮流となりつつある。
- ※ 創薬モダリティ:モダリティ(modality)は、一般的に「様式」「様相」などと訳されるが、創薬においては医薬品開発の基盤技術の方法・手段、もしくはそれに基づく医薬品の分類のことであり、抗体、タンパク質、核酸、細胞、遺伝子などがある。
2030年に向け、個別化医療へのシフトが加速
こうした中、2030年に向けてさらなる普及が期待されるのが、一人ひとりに最適な治療や予防法を提供する「個別化医療」だ。
「現在の医療は、診断後の治療やフォローは“1対1対1”という1つの流れに沿って行われます。もし、個人別のデータベースがあれば、AIによって診断方法や治療法が複数提示され、AIが治療の優先順位を示してくれる世界がやってくるでしょう」と、ガラサス合同会社 代表の橋本 千香氏は語る。「個別化医療が発展すれば、患者ごとに治療法や投薬実績、その効果や副作用などのデータを蓄積してトレース(追跡)できるようになることから、治療精度はさらに高まるでしょう」と橋本氏は期待を寄せる。
また、Japan Bio Community代表の赤松 謙子氏は「患者さんを中心とした医療を行うためには、縦割りになっている診療科や医療機関、地域や制度を横につなぐことが必要です。それを可能にするのがAIを含むICT技術であり、その活用がイノベーションにつながります」と語る。
個別化医療の進展による成果が期待されているのは、治療の場だけではない。それは、病気予防の場でも大きなカギを握ると考えられる。東京大学 未来ビジョン研究センター データヘルス研究ユニット特任教授の古井 祐司氏はこう語る。
「治療にとどまらず、疾病予防や健康増進についても、個別化を意味する“プレシジョンヘルスケア(Precision Healthcare)”という概念が注目されています。個々人ごとの加齢変化をいかに捕捉できるかが大きなテーマで、国民皆保険制度を活用したビッグデータの解析など、全国の大学と民間企業との産学連携でプレシジョンヘルスケアの研究が進みつつあります」。
近年注目されている医療のキーワードの1つに、“Beyond the Pills(薬を越えて)”がある。これは、“デジタル技術などの活用によって、薬だけではできない治療を可能にする世界”のことだ。
「“Beyond the Pills”とは、薬に頼らないヘルスメンテナンス(健康維持)という考え方もできます。つまり、どうしたら病気にかからないのかという知識や、高額な医薬品を処方するより効果的なヘルスメンテナンスの方法、医療費を効率的に使う方法、薬以外の治療の選択肢を提示すること。それらが、今後のヘルスケアにおける大きなイノベーションと捉えることができます」と橋本氏は説明する。
「生涯にわたる切れ目のない健康管理」をいかに実現するか
こうしたコンセプトに基づき、服薬管理や健康増進のためのさまざまなアプリやウェアラブルデバイス、医療機器が開発されている。その多くは、専用デバイスで測定データを収集・分析し、利用者に有益な情報をフィードバックするもので、一般的には「デジタルヘルス」と総称される。
なかでも、有用性を示すエビデンスがあるとして規制当局に承認されたものは「プログラム医療機器(Software as a Medical Device : SaMD、サムディー)」と呼ばれ、日本でも禁煙治療アプリや高血圧治療用アプリが保険適用となっている。また、診療現場における画像診断支援ソフトウェアの利用も拡大。治療を目的としたSaMDは「デジタルセラピューティクス(Digital Therapeutics : DTx)」と呼ばれ、薬事承認を受けた信頼性の高い新たなヘルスケアサービスとして期待が寄せられている。
デジタルヘルスの普及が進んでいるのは治療に限った話ではない。健康維持や疾患管理を目的としたヘルスケアデバイスも急速に進化しつつある。今では心拍数や血圧のみならず、血糖値やアルコール濃度、心電図や脳波までモニタリングできるウェアラブルデバイスが登場しており、ストレスや疲労、痛みをモニタリングできる。また、極小チップ内蔵の経口薬で、服薬履歴を記録するシステムも実用化。これらのことから、体内に埋め込んだデバイスが体調変化をモニタリングし、身体機能を自動的にコントロールするようになる日も、そう遠くはないだろう。
だが、単にツールを使うだけでは十分な効果は望めない。健康寿命を延ばすためには、生涯を通じて切れ目のない健康管理を行い、加齢変化と心身機能の低下をできるだけゆるやかにすることが重要だ。そのためには、異なる医療保険者間で個人の健診・医療データを共有する必要があるが、現在のシステムではデータの共有が容易でなく、「生涯にわたる切れ目のない健康管理」を難しくしているのが実情だ。これについて、古井氏はこう指摘する。
「現在のシステムの大きな弱点は、データをその時点時点で切っていくという、微分的な考え方にあります。例えば、65歳の高血圧患者の治療を行うにあたり、病気や検査のデータ、ワクチン接種歴などを40代から積分的に蓄積しておけば、個別化治療やQOL向上にも大いに役立つと考えられます。
データ蓄積には、健康な状態から治療や介護を受け、亡くなるまでのヘルスケアデータを、生涯を通じてカバーするシームレスなシステムが必要です。今は、“加齢変化を個々人ごとにいかに捕捉できるか”が大きなテーマ。健康保険組合などの保険者や、社会保険診療報酬支払基金、企業が共創しながら、データヘルスを標準化し、すべての国民をカバーするヘルスケアモデルの構築(データヘルス計画)が進みつつあります」。
もう1つ、健康寿命の延伸に欠かせないのが、一人ひとりに適したヘルスマネジメントだ。とはいえ、ヘルスマネジメントに必要な自己管理の意識を、誰もが持ち合わせているとは限らない。どうすれば、自己管理の意識を向上させることができるのか。
「例えば、60歳時の体格や姿勢や運動機能から、後期高齢期になった時の身体の状態をシミュレーションして、AIによるアドバイスを提供する方法が考えられます。老化に伴う機能低下をゆるやかにするため、現時点から自分が気を付けるべきことを認識できれば、予防治療に対するモチベーション向上につながると思います」と赤松氏は提案する。
「人体で起こっていることは、臓器間、組織間が複雑に絡み合った結果であり、病気は全身の不調として捉えるべきです。人体の中で複雑に絡み合っている仕組みがどう動いているかを見えるようにして、疾病を多角的に診る総合診療を支えるユニークなシステムは、次世代のヘルスケアにつながると思います」と語るのは、東京医科歯科大学 特任教授の藤本 康二氏だ。さらに、子どもへの健康教育によって、家族のがん検診受診率が向上したという研究成果を紹介し、「健康リテラシー向上には、義務教育の段階で実践的な正しい知識を教えることが大切」と提言する。
カギを握るのは「ビッグデータ」と「AI」の活用
それでは、「2030年のありたい世界」を実現するために、どのような仕組みや技術が必要なのだろうか。
その1つがビッグデータの活用だ。ヘルスケアにおける個人のビッグデータとしては、主に医療機関で得られるEHR(Electronic Health Record : 電子健康記録)や、遺伝子を含む生体分子についての情報と、医療機関以外で得られるPHR(Personal Health Record : 個人健康記録)が挙げられる。ビッグデータを活用すれば、個人の精緻な客観化・分類に役立つだけでなく、将来の発病予想の精度を上げ、病気の予防や医療費削減につなげられるというメリットもある。
「低年齢者が重症化した場合、高齢者よりも高額な医療費が使われていることが、我々のビッグデータ分析によって判明しました。データ分析により、低年齢者の疾患予防がいかに重要かを再認識できたのです。標準予防を目指してビッグデータを活用するには、データの精度が重要です。精度の高いデータとテクノロジーを融合することで、最適解を導くAI開発が可能となるのです」と古井氏は語る。
潜在的な健康課題を顕在化させ、個々人に合ったソリューションを開発するためには、EHRやPHRの情報を集積・共有する仕組みが欠かせない。
このため、東京大学 データヘルス研究ユニットでは、ポータルサイト上で「全国の健康課題の見える化」や「予防医学的な介入策のデータの収集・集積」を行う仕組みを構築。国民皆保険制度の下で、すべての医療保険者がデータを共有し、国民の健康・医療をカバーするヘルスケアモデルの構築を目指している。
古井氏は「データ利活用を推進するためには、『自身の健康とヘルスケアの進歩のためなら、私の情報を使ってもよい』という社会的な合意形成が必要です。さらに加齢に伴うQOLの低下をゆるやかにし、最後まで重症化させないような医療健康ソリューションが、民間の力で社会実装されることが必要です。そのためのデータ利活用が、これからは非常に重要になるでしょう」と強調する。
こうした医療イノベーションを支えるのが、AIを含むIT技術だ。なかでもAI導入が進んでいるのが、内視鏡検査やCT、MRIに代表される医療画像診断の領域である。この領域では、AIによる病変の見落とし防止や読影時間の短縮による業務効率化が進み、内視鏡医の負荷軽減に一役買っている。
「眼底検査で血管の状態を調べることによって、診断が可能となる疾患は多い。生体認証技術を用いて、目の表面だけでなく目の奥の血管まで見られるとしたら、目の病気だけでなく糖尿病や高血圧などの全身状態を簡易的にモニターすることもできるでしょう」と赤松氏は語る。また、藤本氏は「口腔内と腸内の細菌叢の関連が明らかになれば、唾液などを用いたリキッドバイオプシー(Liquid biopsy:体液に含まれるDNAなどの生体情報を検査すること。近年はAIによる解析なども行われている)により、健康状態を簡易な方法で把握できる可能性があります」と期待を込める。
グローバルな共創により医療イノベーションを生み出す
こうした世界を実現するために、NECはヘルスケア・ライフサイエンスの領域でさまざまな取組みを行っている。その1つが、個別化医療の実現に向けた米国BostonGene社との提携だ。
NECは2021年、BostonGene社と戦略的グローバル・パートナーシップ契約を締結。米国で評価が確立した同社のがん遺伝子検査サービスを活用することで、がん患者一人ひとりに合った有効な治療法の選択を可能にし、より多くの患者が最適な医療を受けられる世界の実現を目指している。
もう1つはAI創薬だ。NECは創薬プロセスにおいてコンピュータ解析がますます重要になると考え、がんの創薬研究に取り組んできた。その経験を活かし、2019年に先進治療に特化した創薬事業への参入を正式に発表。AIを用いた個別化がん免疫療法や感染症ワクチンの開発など、さまざまな取り組みを行っている。
現在、仏Transgene社とNECが共同開発した個別化ネオアンチゲンがんワクチン(TG4050)を対象として、卵巣がんと頭頚部がんの第Ⅰ相臨床試験が行われている。また、NECとNEC Oncolmmunity(オンコイミュニティ)は、国際基金「感染症流行対策イノベーション連合(CEPI)」の協力を得て、新型コロナウイルスなど、ベータコロナウイルス属全般に有効な次世代ワクチンの開発を進めている。
「live as you あなたを知り、あなたらしく選ぶ」――これが「NECが目指すヘルスケア・ライフサイエンスのコンセプト」である。2030年に目指すゴールは、「意識せずに健康でいられる」「あなたのデータが誰かのためになる」「あなたに最適な医療が受けられる」社会の実現。同社はテクノロジーの力で医療にイノベーションをもたらし、その未来を手繰り寄せようとしている。
NECヘルスケア・ライフサイエンス ホワイトペーパー「個人に合わせた医療を科学で支える」