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2022年04月27日

時空間を越えた「多世代共育」から見える学びの未来

 テクノロジーの発展や働き方・ライフスタイルの変化をはじめ社会が急速に変わっていくなかで、「教育」のあり方も変わろうとしている。カリキュラムに則った学習や文系/理系の区別は効率よく多くの人々が学べる機会をつくったかもしれないが、それだけでは社会の変化に追いつけなくなっているからだ。

 『WIRED』日本版編集長 松島倫明氏によるモデレーションのもと、「Data Science, Design & Arts(DSDA)」を教育に取り入れている東京女子学園 校長の河添健氏、「哲学対話」を通じて新たな学びの場をつくるこども哲学・おとな哲学アーダコーダ代表理事を務める角田将太郎氏、複数の教育機関と「多世代共育」をテーマに世代を越えた学びを生む活動に携わってきたNECの福田浩一が参加し、制度や世代を越えたこれからの教育のあり方を議論した。

エデュケーションからラーニングへ

 受験産業の激化や就職活動の負担増加により、現代日本ではいい大学やいい企業へ入ること自体が学習の目的へとすり替わってもいる。テクノロジーの発展や働き方・ライフスタイルの変化をはじめ社会が急速に変わっていくなかで、「教育」のあり方も変わろうとしている現在、そもそもわたしたちにとって「教育」や「学習」、「学び」がいかなる行為だったのか、改めて見直す必要があるのだろう。

 今回のセッションに参加したメンバーは、それぞれが異なる観点から新たな「学び」を模索してきた存在だ。たとえば東京女子学園 校長の河添健氏は2020年度から「Data Science, Design & Arts(DSDA)」をテーマに掲げて教育へデータサイエンスを取り入れ、多様な課題に向き合い多角的な視点で解決策を考える力を生徒たちに身につけるプログラムをつくろうとしている。こども哲学・おとな哲学アーダコーダ代表理事 角田将太郎氏は、答えのない問いについて世代を越えた人々が議論できる哲学対話を実践しながら、人々が自由に思考できる場をつくってきた。NECの福田浩一も、これまでNECが行った有識者との議論の中で提唱された未来像やスペキュラティブデザインを通じて構想した社会像を活用し、各地の教育機関と連携しながら中高生が未来やテクノロジーについて考える機会をつくっている。果たして「学び」の現在地とはどこにあるのだろうか。

 「まず知識を身に着け、次にメソッドや作法を知り、最後に自ら主体的に新たなメソッドを創造することが『学び』です。知識やメソッドについては義務教育によって多くの人が学んでいると思うのですが、日本のように受験産業が激しいと、最後の主体的で自由な創造が疎かになってしまいがちです」

東京女子学園 校長 河添 健氏

 河添氏はそう語り、本来あるべき学びのパッケージが日本の教育制度においては機能不全に陥っていることを指摘する。福田は河添氏の指摘を受けて頷きながら、次のように「エデュケーション(education)」と「ラーニング(learning)」を区別することで、教育制度から失われてしまった学びを取り戻そうとしていることを明かす。

 「ぼくたちはエデュケーションとは人から言われたことを学ぶことで、ラーニングは答えのない問いを議論することで新たな学びを得ることだと位置づけています。もちろんぼくたちのプログラムでも最初はいろいろな知識を学生に提供するのですが、最終的には自分自身の意見を考えられる場をつくろうとしています」

 角田氏による哲学対話の実践も、まさにラーニングと位置づけられるものだろう。「ぼくたちの取り組みでは生徒自身がテーマを決めることも多いですし、先生が偉いのではなくみんなが責任をもつような場をつくっています」と角田氏は続け、アーダコーダの実践は学校とは異なる学びの場をつくっているのだと続ける。「生徒に何かを教えるというよりは、知識を活かして思索を深めていく時間をつくっていくことがぼくたちの役割なのかもしれません」

こども哲学・おとな哲学アーダコーダ代表理事 角田 将太郎氏

型から外れる勇気をもつこと

 三者の指摘を受け、松島氏が「従来の教育がカバーできなかった領域を学校で学べるようにすることは可能なのでしょうか」と問いを投げかけると、河添氏は学校教育のジレンマを明かす。

 「現在は文科省も教科書から離れた学習も大事だと考えていて、中高では『探究(総合的な学習)』の時間を設けることになっています。ただし新たに始めるとなると大変なので、外部の企業が提供する探究プログラムのパッケージをそのまま採用しているところもあります。そうなると画一的になってしまい、自由な学びは生まれない。日本の人々は共通の価値観の中で生きることを重視していて“型”から外れることを恐れがちです。一人ひとりが他の人と違うことをする勇気をもつ必要があると感じます」

 生徒が自由に学べる時間をつくっている学校があるのも事実だが、「探究の時間」としてカリキュラムに組み込まれた途端に画一化してしまう側面もあるのだろう。本来決まった“型”から外れるために採用された時間が新たな“型”として機能してしまい、「自由な学び」さえもパターン化されてしまうのだ。河添氏が「生徒だけではなく企業も同じ問題を抱えている」と言うように、日本社会においてはほかの人々や企業と異なる行動をとることを忌避する文化が醸成されている。こうした環境においては単に自由な時間をつくったところで自由な学びが生まれるわけではないだろう。

 「ぼくたちのプログラムでは2050年の社会像のように答えのないテーマについて問いを投げかけるのですが、予め決まった正解を求めている生徒も少なくありません。生徒たちは自分に何を求められているのか気にしていて、なかには大人から評価される回答を出すことが正解なのだと考えている生徒もいるかもしれません」

 福田がそう語り、生徒たちが大人へ忖度することで自由な学びが阻害される可能性を指摘すると、角田氏も頷きながら次のように語る。

 「どうすれば先生が求めている答えを出せるのか考える子は多いですね。ブラジルの哲学者、パウロ・フレイレは知識を詰め込む教育を『銀行型教育』と呼んでいて、決まった答えばかりを求める銀行型教育を続けると生徒の人間性も失われてしまうと批判しています。答えのない授業って生徒も先生も不安なので、決まった型にはまろうとしてしまうのかもしれません。もちろんある程度授業の型をつくる必要はありますが、答えのない取り組みであっても先生が生徒を信頼できるような環境をつくっていくことが大事だと思います」

 学びとは学習のプログラムや生徒の価値観・姿勢、教師の教え方のみによって成り立っているわけではなく、教師と生徒の関係性も深く関わっているのだろう。これまでにない取り組みを行うことは常に不安を伴うが、その不安に身を投じなければ自由な学びの場をつくることは難しいのだ。

NEC 福田 浩一

大人も子どもも「パートナー」になる

 これからの教育や学びを考えるためには、従来の学校や教育機関だけではなく日本の社会や価値観、ライフスタイルを見直さなければいけないのかもしれない。NECが取り組む「多世代共育」やアーダコーダによる世代を越えた哲学対話の実践は、学びを狭義の「学生」に留めず多くの世代へと広げることで社会を変える試みだと言えそうだ。

 「そもそも『こういう社会だからこうあるべき』と凝り固まった考えをもっている大人が教育に携わると、生徒たちの価値観も凝り固まったものになってしまう。ぼくたちのプログラムではこれからのICT活用について議論することもあるのですが、生徒たちの意見から新たな気づきを得ることもあります。たとえば自動で食事をつくる機械があれば効率的で便利だと大人は考えがちですが、生徒からは『家庭の味』が失われるので嫌だという声が上がったり。学びの場を通じて、子どもだけでなく大人の考えも変わっていくチャンスを得られるのだなと感じます」

 福田はそう語り、NECがこれまで行ってきた未来を構想する活動の知見を教育へと活かすために始まったプロジェクトを通じて、むしろ大人たちの考え方が変わっていったことを明かす。福田の発言を受け、角田氏は「正解のない問いの下では、大人も子どもも平等です。大人にとって子どもは教える対象ではなく、一緒に考えるパートナーになっていくんですよね」と語り、とりわけ哲学対話のような場では「教える/教わる」といった対立に留まらない関係性が育まれることを指摘する。

 近年、自由な発想を促すために常識や固定観念を手放す「アンラーニング」が重要だと言われる機会も増えているが、世代を超えた人々がともに考えるパートナーになれる多世代共育とはまさに固定観念から自由になれる場をつくることでもあるのだろう。河添氏は「ラーニングを続けていけばおのずからアンラーニングも起きるわけで、きちんと学び続ける姿勢こそが大事でしょう」と語り、アンラーニングとは特別なものではなく学びのプロセスのひとつでしかないはずだと主張する。

『WIRED』日本版編集長 松島 倫明氏

時空間を越えた学びの場へと向かって

 「そもそも学びと年齢は関係ありませんからね。日本では留年すると落ちこぼれといわれるし、大学を卒業したらすぐに就職して働きつづけるものだと思われがちです。でも、いつだって人は学べるものです。近年リカレント教育という言葉が注目されていますが、社会人が大学に入りなおしたっていいわけですし、本来は誰もが自由に自分の学びを設計できる力をもっているはずです」

 そう河添氏が続けるように、本来学びとは自然に世代を超えていくものなのかもしれない。教育や学びというとしばしば中学や高校の学習が想起されがちだが、本来はどんな年齢の、どんな立場の人であっても、常に学びに開かれている。角田氏が「どんな世代でも学びのパートナーになっていく価値観が大事ですよね」と語るように、年齢を問わず人をつなげていく力が学びの場にはある。ふたりの発言を受け、福田も次のように語る。

 「VUCAと言われるように社会の変化も激しいため、つねに学びつづける必要がある。以前NEC未来創造会議の有識者会議で、塩沼亮潤大阿闍梨が『近くて楽な道ではなく遠回りで面倒くさい道を選ばなければ人は成長しない』と仰っていたのですが、まさに学びとは遠回りの道を進むことなのだと感じます。そのためにも、共に学ぶ人たちをパートナーとして信頼していくことが重要なのでしょう」

 かつては大学まで学んで就職したらそのまま働きつづけることが是とされたが、人生100年時代を迎えつつあるいま、社会やテクノロジーの変化に応答しながら働きつづけるためには新たなことを学びつづける必要があるのだろう。

 「2050年の未来を考えると、相当大きな変化が起きていることは間違いないでしょう。ブロックチェーンや量子コンピュータなど新たなテクノロジーは広がっていくし、他方で環境問題やパンデミック、貧困、国際紛争などグローバルな問題も増えていきます。これからはテクノロジーや地球環境、ライフスタイルなどさまざまなテーマを総合的に考えなければ未来について考えられないはずです。学ぶことはいろいろなことに興味をもつことなので、型にはまらずに多様な可能性を受け入れながらさまざまなテーマについて考えていくことが重要になっていくのだと感じます」

 河添氏はそう言って、議論を締めくくった。わたしたちは「教育」や「学び」を考えるときにしばしば「学校」や「日本」、「同世代」のように限定された時空間を想起しがちだが、テクノロジーによって時空間を越えたコミュニケーションが可能となっている時代だからこそ、学びの可能性をもっと広げていく必要がある。学びの対象についても、社会が複雑化しているからこそ、テクノロジーやライフスタイルなどひとつの領域に縛られるのではなく、領域を超えてさまざまな可能性を想像しなければいけないのだろう。そうして多様な他者や多様な社会の可能性へと自らを開いていくことこそが、これからの学びへとつながっていくのかもしれない

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