次世代中国 一歩先の大市場を読む
「健康」は最も重要な個人情報
新たな段階に入った中国の個人情報管理
Text:田中 信彦
スマートフォン(以下スマホ)アプリ「健康コード」(中国語は「健康码」)の存在感が、中国で急速に高まっている。
「健康コード」とは、簡単に言えば、その人のウイルス感染に対する「安全度」を判定し、表示するアプリである。本人の申告内容やアプリが集めた行動履歴などと政府や企業が保有するさまざまなデータを照合、分析し、その人の感染リスクを3段階に分けて表示する。「Alipay(支付宝)やWeChat(微信)がなくても不便なだけだが、“健康コード”なしでは生きられない」。こんな言い方がなされるほど、生活に密着したアプリになっている。
すでに中国ではこのアプリなしには公共交通機関も使えず、オフィスビルやショッピングモール、マンションの敷地にも入れず、買い物や食事すらままならない状況が現出している。「健康コード」の登録と利用は任意だが、これがないと身動きが取れないので、使わないという選択肢は事実上ない。
この「健康コード」は、個人情報の管理と活用の概念を大きく変えるのではないか。そういう見方が出ている。それは、この「健康コード」が文字通り健康や生命を左右しかねない存在で、生きるために使わざるを得ないからである。感染症が今後、どのように社会に影響していくのか、先が読めない時代にあって、この仕組みの中国社会における存在感はますます大きくなっていくだろう。
そして、このことは決して中国だけの問題ではない。今回はそんな話をしたい。
田中 信彦 氏
BHCC(Brighton Human Capital Consulting Co, Ltd. Beijing)パートナー。亜細亜大学大学院アジア・国際経営戦略研究科(MBA)講師(⾮常勤)。前リクルート ワークス研究所客員研究員
1983年早稲田大学政治経済学部卒。新聞社を経て、90年代初頭から中国での人事マネジメント領域で執筆、コンサルティング活動に従事。(株)リクルート中国プロジェクト、ファーストリテイリング中国事業などに参画。上海と東京を拠点に⼤⼿企業等のコンサルタント、アドバイザーとして活躍している。近著に「スッキリ中国論 スジの日本、量の中国」(日経BP社)。
「緑」のコードは「通行手形」
「健康コード」については最近、日本でも伝えられるようになっているので、ご存じの方もいるかもしれない。名称は「健康」と称しているが、有体に言ってしまえば、そのアプリを持っている人が新型コロナウイルスに感染している危険度がどの程度あるかを判定し、表示するアプリである。
本人の「危険度」に応じて、低い方から「緑」(危険度は低い)、「黄」(中程度)、「赤」(高い)──の3段階で、アプリの画面にそれぞれの色のバーコードが表示される。これは交通信号の色に着想を得たとされている。「緑」が表示されていれば、お上から「通行手形」をもらったようなもので、とりあえず大手を振って外を歩ける。万一「赤」や「黄」になったら一大事で、「赤」は14日間、「黄」は7日間の隔離を意味し、お迎えがやってくることを覚悟しなくてはならない。当然のことではあるが、数の上ではほとんどの人が「緑」表示になる。
自分の存在位置を自己申告する
ではそれをどうやって判断しているのか。主なルートは3つある。
第1は自己申告だ。自己申告には2種類あって、一つはアプリをダウンロードし、登録する際に、自身の属性に関する基本的な事項に加え、「自分自身が感染者か」「感染者との濃厚接触者か」「過去14日以内に高リスク地域に立ち入ったか」「発熱などの体調不良はないか」といった質問に回答する。これが最も基本的な情報になる。
もう一つの自己申告は、自分がある場所を訪れるごとに、そこにある2次元バーコードを自らスキャンする。例えば、中国で地下鉄に乗ると、車内のあちこちに2次元バーコードが貼ってある。それをスマホでスキャンする。すると「某月某日、何時何分に、地下鉄何号線の、どの車両のどの位置に乗ったか」が情報として蓄積される。バスやタクシーも同じ。飛行機や高速鉄道はもともと実名での座席指定制なのでバーコードはないが、これも情報として蓄積される。
こうした自己申告用バーコードは乗り物以外にも、公園や建築物など街のあちこちにあり、自発的に「居場所登録」することが呼びかけられている。面倒なのでやらない人も多いが、やっておけば、その訪問場所付近で感染者が出た場合、早く自分の対策が取れるので、かえって安心だと考える人も多い。
2番目の判断材料は本人の行動経路である。主にスマホの位置情報や衛星測位システムによって検知される。AlipayやWeChatPay(微信支付)などの決済アプリを使えば、それも本人が、いつ、どこにいたかという行動履歴の一つになる。これらによって感染者の近くにいなかったかどうか確認し、感染リスクの判定に反映する。
国家の身分証システムと連携
そして3番目の判断材料は、政府や企業などが持つその他さまざまな個人情報である。たとえば中国はすでに従来のカード式身分証をアプリ化した「CTID(Cyber Technology ID)」と呼ばれるシステムが主要都市で稼働している。説明によれば、このシステムは「公安部(警察)のネットワークと従来の身分証プラットフォームの個人情報を連結し、顔認証システムなどの技術を使って本人を証明するもの」とされている。以前、この連載でも書いたが、当局はその気になれば、街角の監視カメラで国民の顔を撮影するだけで、瞬時にほぼ100%の確率で個人を特定し、身分証番号や住所、氏名などの個人データを呼び出すことができるとされている。それはこのCTIDによるものである。
「健康コード」が運用されている「国家防疫健康情報コードサービスシステム」(国家防疫健康信息码服務系統)はこの「CTID」のプラットフォームと連動しており、それを通じて入出国情報や航空機・鉄道などの利用区間と座った座席の情報、公的機関が保有しているその他必要な情報などと照合し、分析されているという。その処理能力は極めて高く、二次元バーコードの生成能力は1秒間に1万件、読み取り能力は同7万5000件に達する。
開発の主体は民間
このように現在では国家の基幹システムとの連結が進んでいる「健康コード」だが、その成立のプロセスで中心的な役割を担ったのは民間企業である。ここでも登場するのは、おなじみアリババ(阿里巴巴)とテンセント(騰訊)の2社である。
武漢市での深刻な事態が明るみに出たのが2020年1月20日前後。同23日には同市が封鎖され、感染者、死者ともに急増していく。「健康コード」の原型となったシステムが構想されたのは2月初め、浙江省杭州市にあるアリババグループのアントフィナンシャル(蚂蚁金服、以下「アント」)のAlipay開発拠点でのことだった。
感染拡大後、人の移動の管理が厳しくなり、建物に入る際などに身分を登録する手続きが必要になった。当初は手書きで行っていたが、あまりに煩雑で対応しきれない。Alipayの開発チームは、既に全国で10億人以上の実名登録があり、社会基盤の一つになっているAlipayを活用し、人々がスムーズに移動できる仕組みができないかと動き始めた。
試作品から10日で全国展開
2月4日に試作版第1号が誕生。非常時とあってアントはAlipayの開発に携わる大量のエンジニアを動員、24時間体制で開発を続け、2月9日にはAlipay内部に「健康コード」の前身となるアプリ「疫情登記」が付加機能として加えられた。基本的な内容は、本人の自己申告やAlipayのデータベースなどに基づき「この人は過去14日間に感染リスクの高い地域に行っていませんよ」ということを示すものだった。
このAlipayの動きに、地元・杭州市政府は当初から支援の姿勢を見せていた。2月17日、市政府の「疫情防控工作指導グループ」は全市内の公共施設、公共交通機関で「杭州健康コード」を使用するよう指示を出した。それと並行して同アプリは全国各都市にも次々と広がり、浙江省内の他地域をはじめ四川省、海南省、上海市などでも導入を決定。2月15日には中央政府の国務院(内閣に相当)の電子政務事務室がアントに対し「健康コード」の全国一体化を1週間以内にメドを付けるよう指示を出している。
アントとほぼ同時期に開発に着手したテンセントも、中国で事実上、コミュニケーション手段のスタンダードとなっているWeChatの強みを生かし、間もなく同種のアプリを開発、Alipayに劣らない普及を見せた。アプリの構想が生まれ、試作品の開発、全国展開までわずか2週間というスピードは、両社のアプリの圧倒的な普及度の高さ、さらに両社のずば抜けた技術力と大量の動員力、さらには若いエンジニアたちの社会貢献意識の強さなしでは到底、考えられない。民間と政府の強力な関係が底力を発揮するさまを見せつけたといえる。
スタート時は民間企業の活力と技術力で生み出され、社会に定着すると、次第に「お上」との関係が濃くなっていくプロセスは、決済システムのAlipayやWeChatPay、アントが開発した個人信用評価システム「ジーマ・クレジット(芝麻信用)」などがたどった道筋と類似性があるように思われる。
「健康コード」の活用継続、「常態化」の動き
3月後半、感染拡大が峠を越えたかとみえ始めた頃から、「健康コード」はやや異なる方向へと「成長」を始める。
3月25日、広東省広州市は記者会見で「穂康コード」(「健康コード」の広州での呼称)を、新型コロナウイルス感染期の一時的なツールで終わらせるのではなく、市民の身分証明のアプリとして長期的に存続させる方針──という趣旨の発表を行った。
このニュースを受けて、中国共産主義青年団北京市委員会機関紙「北京青年報」は同27日付で論評を掲載、「健康コードはウイルスとの闘いに顕著な効果を挙げており、社会の健全な管理、安全な社会の実現に大きな意義がある。これまでに投じた大きな労力を考えれば、仮に感染が収束したとしてもこのまま役割を終えるのはあまりにも惜しい。市民の身分認証システムとして長期存続させるべきだ」との趣旨の主張を行った。当局側の本音を代弁したものと言っていいだろう。
飲食やホテル、美理容業などの従事者の管理にも活用
このような「健康コード」の長期活用と「常態化」の動きはその後も広がり、4月13日には浙江省杭州市が、飲食業やホテル、食品加工場、美理容、幼稚園・保育園、スイミングクラブなど、公衆衛生に関わる業種を対象に、業務に従事する人の健康管理アプリとして「健康コード」を活用する方針を打ち出した。
同市はさらに5月22日、「健康コード」の機能を拡充、個人の既往症歴や診断歴、喫煙歴などの健康情報をデータベース上に取り込み、「健康コード」を個人の総合的な健康管理ツールとして活用していく構想を発表した。もともと新型コロナウイルス感染のリスクを示すツールだった「健康コード」が、「健康」を軸に個人情報をさらに緻密に管理、活用するツールへと「成長」させようという動きだった。
さすがにこの構想には、メディアからも「意図はわかるが、個人のプライバシー保護上、疑義がある」「拙速な導入は望ましくない」といった意見が続出し、いわゆる「体制内」の言論人の中にも慎重な扱いを求める発言が相次いだ。形勢不利と見た同市はその後「これはサービスの一環としての構想であり、強制ではない」などとトーンを後退させている。
とはいえ、ここまでの個人情報を盛り込むかどうかはともかく、新型コロナ禍を期に誕生した「健康コード」が、国家統一の身分証と並ぶ本人確認、個人情報管理の重要ツールとして、感染収束後も引き続き大きな機能を果すことは間違いなさそうだ。
「健康」で人を評価する動き
これまで過去の連載でも紹介してきたように、中国ではスマホアプリを入り口にした個人情報の収集と管理、ランク付けなどの仕組みがここ数年、次々と導入されてきた。その間、技術の進化と同時に、中国の人々のプライバシー意識も次第に成熟し、これらの仕組みも、うまくいったものもあり、目論見通りに定着しなかったものもある。
参考
膨張する中国「個人信用情報管理」 ハイテク「アメとムチ」で模範国民を育てるしくみ(2018年12月26日)
https://wisdom.nec.com/ja/business/2018122701/index.html
覚醒する中国人のプライバシー ~デジタル実名社会で揺れる個人の権利意識(2018年01月25日)
https://wisdom.nec.com/ja/business/2018012301/index.html
「信用」が中国人を変える スマホ時代の中国版信用情報システムの「凄み」(2017年04月11日)
https://wisdom.nec.com/ja/business/2017041101/index.html
しかし、今回の「健康コード」は、これまでとはいささか情況が異なる。冒頭に触れたように「健康コード」は人間の健康や生命という妥協の余地のない価値に直結している。そして、その情報は極めてプライベートなものである。そして最も注意すべきなのは、「健康情報」は、それで人を評価したり、判断したりすべきものでないとの建前は誰しも認めるが、その一方で、その情報を知ることで他者がメリットを得るケースは十分にあり得る──という点である。この情報を「活用」したいとの誘惑は政府、企業の双方にとって非常に強いものがあるだろう。
仮に個人の詳細な健康情報が、商業目的や進学、就職、人事評価などの材料に供されるようなことがあれば、人間社会を構築してきた基本的な枠組みが崩壊しかねない。もちろん現在の中国社会がそうなっているという状況ではないし、中国でも、こと健康情報に関しては慎重に対応すべきだとの意見は強い。このあたりは中国社会の議論の行方を注目していきたい。
「健康」を軸に人が情報化する時代
しかしながら、有効なワクチン開発の具体的なメドはなく、今後、ウイルスとの闘いが長く続くとなれば、中国の「健康コード」的な仕組みがその有力な武器になることもまた事実だろう。中国に限らず、こうした仕組みが世界の人々の必携ツールになる可能性もある。すでに中国国内では「これまではAlipayやWeChatPayのように“お金”を軸に人は情報と一体化してきた。これからは“健康”を軸に人と情報が融合していく時代だ」といった論調も出てきている。
現時点では、感染拡大の阻止という大義名分と、「感染したくない」「他人に感染させたくない」という切迫した意識の下、さまざまな問題点をはらみながらも「健康コード」は人々に受け入れられている。しかし非常時を口実に統治者が自らの都合で仕組みをつくってしまうことは許されないし、そのような態度は後に禍根を残すことになるだろう。
「健康コード」という強力な仕組みをあっと言う間に構築し、果敢に運用して感染拡大を抑え込んだ中国の「民間+政府」のパワーには驚嘆せざるを得ない。そこにはある種の羨望すら感じるが、同時に、そのあまりに効率一辺倒な体制に危うさを感じずにはいられない。
次世代中国