2020年07月22日
次世代中国 一歩先の大市場を読む
コロナ禍で加速する「帰雁経済」
大都市離れ、ローカル指向強まる中国の社会
最近、中国で「帰雁経済」という言葉が聞かれるようになった。「帰雁」とは文字通り雁の群が海を渡って故郷に帰るように、人々が都会を離れて故郷に帰り始めた様子を表わした言葉だ。
大都市の生活コストが上昇する一方、農村部の富裕化、都市化が進み、これまで都会に出て働いていた人たちが故郷やその周辺の都市に戻る現象は、この10年ほど、次第に顕著になりつつあった。今回のコロナ禍で、都会の生活に不安を感じる人が増え、その動きが加速しつつある。日本でも私が子供の頃、「出稼ぎ」という言葉は日常的に使われていたが、経済成長とともに、いつしか死語になった。中国もそういう時代が来たように見える。
過去40年間の「改革開放」の時代、都市部と農村部の経済格差、人々の所得格差は中国経済成長の原動力のひとつだった。しかし、そのような時代は終わり、逆に格差の縮小、つまり内陸部、農村部の発展を国の成長の原動力にする時代になる。経済は内需中心、内向きの発想がますます強まる。コロナ禍、さらに言えば昨今の米中対立もその大きな促進要因になるだろう。今回はそんな話をしたい。
にわかに値上がりを始めた不動産
私事にわたるが、私の配偶者は中国人で、江蘇省無錫市の出身である。無錫は上海の北西、車で2時間ぐらいのところで、南京、蘇州に次ぐ江蘇省第三の都市だ。域内の農村部を含めて人口は約650万人。この地方都市の郊外で、昨年後半あたりからマンションの価格がにわかに上昇を始めた。
奇妙なことに、高層ビルやショッピングモールが立ち並ぶ街の中心部では、不動産価格に大きな変化はないのに、中心から10㎞以上も離れた工業地域の周辺で上昇が著しい。私の義弟(妻の弟)も周辺で工場を経営しているので、そういう話が入ってくるのである。義弟を通じて不動産業界の人にいろいろ聞いてみると、確かに急激に値段が上がっている。
例えば、市内南東部、新呉区内の築6年、26数階建てのマンション6階、96㎡ (中国では共有部分も含めた建築面積で表記)の2LDK の物件は、昨年秋の時点で1万元/㎡(1元は約15円)ほどだったものが、コロナ禍が落ち着き始めた4月には1万4000元/㎡に上昇、7月10日現在では1万8000元/㎡になっている。1年弱で1.8倍に上昇したことになる。
もちろん地域や個別の物件によって状況は違うが、この地域ではおおむねこのくらいのペースで相場が上がっている。公式のデータでみると、2020年1~6月の無錫市の分譲住宅の平均成約価格は1万9508元/㎡で、前年同期と比べて15.49%の上昇。コロナ禍が一段落して不動産市場が再始動した今年3月の分譲住宅成約面積は44万5000㎡で対前月比2.8倍に増加しており、不動産購入意欲の強さがうかがえる。新型コロナ蔓延で不動産どころではないかと思っていたら、そうとも限らないようだ。
「地方都市の郊外」が人気を呼ぶ理由
「なぜこんなに上がるのか」と業界の人に聞いてみると「最近、周辺の工場で働く人を中心に小さめの物件(中国で100㎡以下は小さい部類に入る)の引き合いが多い。その割に物件の数は少ないので価格が上がりやすい」という。工場以外に何もないこんな町外れに住みたい人がなぜ多いのか、さらに聞いてみると以下のようなことだった。
以前、地方から出てきて工場で働く人は、上海のような大都会を目指した。しかし今では上海に行っても、家賃や食費も高く、生活は大変だ。加えて住宅価格の高さは常識外れで、普通の若者が何十年頑張っても家を買える見込みもない。結婚して子供ができても地元の戸籍がないといい学校に入れない。こうした人たちが、住宅価格が安く、生活条件も悪くない無錫のような地方都市に向かっている。
こうした地方都市でも中心部の住宅はそれなりに高いが、郊外なら頑張ればまだ家を買える。地方都市は外から人材を求める姿勢があるので、移住者に一定の配慮がある。そして北京や上海とは差があるにせよ、農村部と比べれば子供の教育環境は恵まれており、それなりにいい学校がある。「地方都市の郊外」が人気を呼ぶ背景にはこのような理由がある。そして、今回のコロナ禍で大都市に住むリスクが明らかになったことで、こうした動きはさらに加速しつつある。
感染抑止のため不法な住宅シェアを取締り
地方都市の側にも事情はある。経済成長に見合う働き手が足りないのである。無錫は上海と比べて本格的な成長の開始に10~20年のタイムラグがあるので、この10年ほどが都市改造の真っ盛りだった。旧市街を再開発して高層ビルを建て、地下鉄をつくり、市街地にあった工場をどんどん郊外に移転させている。義弟の工場もそうした中のひとつである。外資系企業の進出も少なくない。工場を開くには働く人を集めねばならない。
それには住む家が必要で、最初はみんなお金がないから、古いマンションに二段ベッドを詰め込んで一部屋に10人以上も住み着くような行為が横行した。今回のコロナ禍で、密集を避けるため、不法な集団居住の取締りが強化され、押し出されて住む場所がなくなった人がたくさん発生した。それが不動産値上がりの一因だという説もある。
しかし就労後、一定の年数が経ち、収入が安定してくると多くの人は家を買う。中国には「住房公積金」という一種の強制住宅資金積立みたいな制度があって、それをベースに銀行からお金が借りられるようになる。普通はそれでは足りないので、あとは親や親戚などから出してもらって小ぶりな中古物件を買う。そうやって若い人が持ち家を取得していく。そういうことが地方都市の郊外で起きている。
かならずしも都会から自らの故郷に戻るわけではないが、従来なら大都会に向かっていた人たちが地方都市に行き先を変えるという意味では、これも「帰雁経済」の一種と言っていいだろう。
コロナ禍がトドメを刺した「出稼ぎ時代」
農村部から都市部に出て働く「農民工」の中身も大きく変化した。中国では毎年、春節(旧正月)の時期には3億人とも4億人ともいわれる人々が大挙して帰省のため「民族大移動」を始め、都市と農村を行き来することが年中行事になってきた。
そういう大移動が起きるのは、地域ごとの賃金格差が大きかったからである。先に豊かになった都市部が、賃金水準の低い農村部の人を雇用する。いわば国内の賃金格差を利用して成長してきたのが中国経済の基本的な構造といえる。そうなったのは、中国政府が「豊かになれる人(地域)から先に豊かになる」という方針を貫き、いわば格差拡大は覚悟の上で、迅速な経済発展を追求してきたからだ。
しかしこうした旧来の構造に新型コロナの感染拡大がトドメを刺した感じがある。今回の感染爆発がたまたま旧正月の帰省時期と重なったことで、数億人の大移動に乗ってウイルスが全国に拡散する恐怖を多くの人々が実感した。政府もこの状況を根本的に変えなければならないと考えている。「格差の利用」から「格差の是正」へ、つまり、農村部の貧しさを利用するのではなく、農村部の成長そのものを国の発展の原動力にする。その方向へ軌道修正しなければならないということである。
「自宅前就業」を進める農村
その文脈でいま注目されているのが「農産物の産地近くに工場を移す」という動きだ。簡単に言えば、これまでは「人」のほうが工場のある場所に動いていったのだが、昨今は工場のほうが「原材料」と「人」のいる農村のほうに動いていく。「技術下郷(技術が農村に下りていく)」といった言い方も使われ始めている。
例えば、中国の中央部、「農業大省」と呼ばれる河南省南部にある駐馬店市は、近年「自宅前就業(家門口就業)」と呼ぶ政策を進めている。同市は域内に広大な農村部を擁し、中国有数の小麦の産地として知られる。また人口が多く、大都市に大量の農民工を送り出す「出稼ぎの故郷」でもある。同市はこの条件を逆手にとり、広大な小麦畑の近くにまず製粉工場を誘致、最大のものは年間60万トンの生産高、6億元の販売額を有するという。
そして、さらにその周辺に「徐福記」「今麦郎方便面」「克明麵業」といった中国の有力食品ブランドの工場を呼び寄せ、地元の小麦を核にした食品加工と物流の工場群をつくりだした。農民たちは自宅から工場に通う。農作業の繁忙期には工場も協力して農民たちが営農を継続できるよう後押しする。このような「原材料の近くで生産する」やり方は効率が高いし、企業側としては安定的、長期的に従業員を確保できるメリットが大きい。
このような農村部の増収策もあって、河南省の農民の2019年1人あたり可処分所得は1万5163元と対前年比で10%近く伸びている(河南省国民経済和社会発展統計公報)。これはまさに典型的な「帰雁経済」といえる。
ITの普及がローカルビジネスを後押し
また同市の別の地区では、花きや植木などを栽培する農園を開設、観光客を呼び寄せるなどの施策で農民の収入の安定と増収を図っている。(「工人日報」ウェブ版、2020年6月20日付など)。このようなことが可能になる背景には、「タオバオ(淘宝網)」やJD.COM(京東商城)といったEコマースが広く普及し、物流網の整備で全国どこからでも商品を販売できるネットワークが確立していることが大きい。まさに出稼ぎ不要の「自宅前就業」が内陸部の農村で次々と可能になっている。
さらにこうした動きに呼応して、冒頭の無錫の例でも触れたように、大都市での成功の可能性は低いとみた若い世代が故郷、もしくはその周辺の都市に戻り始める動きが出ている。もちろんここでもその背景には新型コロナの心理的影響がある。
農村部の都市化を狙った「都市圏」構想
このように地方都市周辺の農村の都市化を進め、沿海部に集中していた人口や各種の経済機能を全国に分散し、格差を縮小していく発想は、中国政府の国づくりの基本構想になっている。1年ほど前、この連載で「世界レベルの都市が足りない! 都市の連合で人の分散を図る『都市圏』の発想」という文章を書いた。
その中で「全国に多数の巨大な都市圏をつくることで、北京、上海中心の『二本足打法』的な構造から、『八ヶ岳』的な都市連合の構造へと、中国社会の骨格は変化していく方向にある。このことはビジネス面でもさまざまな影響を与えていくことになるだろう」という言い方をした。冒頭に紹介した無錫の郊外は、上海から蘇州、無錫、常州、南京へと長江下流域に連なる中国最大級の都市圏の周縁部に相当する。今後、全国の都市圏の周辺で、これと同様の動きが広まっていくだろう。今後、いつまた爆発するかわからない感染症に対する警戒感と超大都市での生活の不安感が追い風になることは間違いない。
「これから中国は鎖国だから」
そしてもうひとつの無視できない要素として、米国との対立の深刻化がある。事態は米国一国に留まらず、いわゆる西側諸国との政治的、イデオロギー的対立の色彩すら帯び始めている。これまでのようなオープンな世界経済とのリンクは次第に難しくなり、中国は内需を軸とした内向きの経済にならざるを得ないとの見方が中国国内でも強まっている。
先日、中国のある経営者とチャットで話したら、「これから中国は鎖国だから」と自嘲ぎみに語っていた。もちろん冗談ではあるのだが、大胆な「改革開放」で、グローバル経済の恩恵を一身に受けて成長してきたはずの中国が、今後は中国国内で完結する方向で動く流れに向かいつつあることを経営者たちは察知している。
その文脈からすれば、「都市圏」の構想に基づいた農村部の新たな都市化と成長は最大のフロンティアになる。内陸部や農村部の市場は大きく成長する余地があり、中国のあらゆる業種、業態の企業がより内向きに、「ローカルな中国」のビジネスに力を入れるようになるはずだ。その動きに沿って人も動く。これはまさに「帰雁経済」そのものである。
「一攫千金」「都会で一旗揚げる」といった意気込みで北京や上海、深圳などの大都市に打って出て行った人たちが、中国のオープンな時代の象徴とすれば、「帰雁経済」は、すでに世界の大国となり、巨大な国内市場を基盤に、ローカルを重視し、内向きの発想で動く時代を象徴する表現と言っていいかもしれない。
考えてみれば、もともと大国とはそういうもので、過去40年ほどの「改革開放」の中国が例外的な時代だったと考えるべきなのだろう。「外国頼み」でない「素(す)」の中国の姿が見えてくるのはこれからで、外国人、外国企業の出番は少なくなるだろうが、ローカル市場に根付いた一部の日本企業には、むしろチャンスは広がるかもしれない。中国の変化を冷静かつ、しっかり見極める時だと思う。
BHCC(Brighton Human Capital Consulting Co, Ltd. Beijing)パートナー。亜細亜大学大学院アジア・国際経営戦略研究科(MBA)講師(⾮常勤)。前リクルート ワークス研究所客員研究員
1983年早稲田大学政治経済学部卒。新聞社を経て、90年代初頭から中国での人事マネジメント領域で執筆、コンサルティング活動に従事。(株)リクルート中国プロジェクト、ファーストリテイリング中国事業などに参画。上海と東京を拠点に⼤⼿企業等のコンサルタント、アドバイザーとして活躍している。近著に「スッキリ中国論 スジの日本、量の中国」(日経BP社)。