次世代中国 一歩先の大市場を読む
中国版「AIインクルージョン」の意味
「計算力クーポン」の分配は「共同富裕」への道か
Text:田中 信彦
この春、中国ではAIエージェント「オープンクロー(OpenClaw、中国での呼称「小龍蝦」)が爆発的なブームになった。2月初旬の1週間、オープンクローの利用による大規模言語モデル(LLM)の処理量は初めて米国を上回った。自分で文書を書き、ソースコードを生成し、顧客対応もこなす。人間が担ってきた労働を自律的なAIが引き受ける時代が、現実のものになろうとしている。
人に代わってAIが働く時代は、極論すれば「人間の労働力=AIの使用量」となる。だとすると、次の焦点は「AIを使う権利」を持つのは誰か――という問題になる。AIが何でもするなら、その能力を配分するのは誰なのか。そして「労働の果実」は誰のものになるのか。
この問いに対して、中国で今、注目すべき動きが始まっている。政府が「計算力クーポン(算力券)」の配布を通じて、AIの能力を「分配」するという政策だ。それは「AIインクルージョン(AI普恵)」という枠組みの下で進められている。「社会の格差縮小」を旗印に、AIの能力を国家が配分する。それによって政権が掲げる「共同富裕」を実現する。
これはある意味で、新時代の生産手段公有を指向する動きともいえる。今後、中国の政治・経済体制に大きな影響を与える可能性がある。今回は「中国型AIインクルージョン」の現状を追いつつ、その意味を考えてみた。
田中 信彦 氏
ブライトンヒューマン(BRH)パートナー。亜細亜大学大学院アジア・国際経営戦略研究科(MBA)講師(非常勤)。前リクルート ワークス研究所客員研究員
1983年早稲田大学政治経済学部卒。新聞社を経て、90年代初頭から中国での人事マネジメント領域で執筆、コンサルティング活動に従事。(株)リクルート中国プロジェクト、ファーストリテイリング中国事業などに参画。上海と東京を拠点に大手企業等のコンサルタント、アドバイザーとして活躍している。近著に「スッキリ中国論 スジの日本、量の中国」(日経BP社)。
AIが労働を代替する時代
AIエージェント「オープンクロー」が中国で大きく広がっている。AIエージェントを自分向けに「育てる」には、大量のトークン(AIが言語を処理する際の最小単位)を消費する。3月の第3週、中国のAIモデルは、グローバルなAIモデル集約プラットフォーム「OpenRouter(オープンルーター)」上で7.36兆トークンを消費。全世界の36%を占め、米国モデルを3週連続で上回った。報道によれば、オープンクローの導入支援を行うテンセント(騰訊、広東省深圳市)の本社前には1000人近い行列ができた。年齢層もさまざまで、遠方から駆けつけた人も多く、中国の幅広い層にAIエージェントが浸透しつつあることを印象付けた。
AIエージェントは、ユーザーが「やりたいこと(ゴール)」を伝えるだけで、自分でやるべき仕事を分解し、ソースコードを書いて実行まで進めてくれる。人間がAIをツールとして使う段階から、AIが仕事のプロセス自体を再設計する段階への移行がすでに始まっている。
企業も積極的に動いている。アリババグループ(浙江省杭州市)は3月中旬、AI事業を統合するATH(Alibaba Token Hub)事業群の設立を発表。呉泳銘CEOは「今はAGI(汎用人工知能=人間のように幅広い知的能力を持つAI)の爆発前夜だ。AIが自ら判断して業務を改革し、仕事を進める時代になる。大量の仕事を無数のAIエージェントが支え、人間とデジタル世界のインタラクションの主要な担い手となる」(発言の大意)などと語り、大きな期待を示した。
AIが生んだ利益は、社会に分配されうるのか
このような「AIが人の代わりに働く時代」に議論になるのが、「労働の源泉となるAIを使う権利は誰にあるのか」という問題だ。一部のプラットフォーム企業や開発者に集中するのか。それとも社会全体に分配されうるのか。この問いに対して、中国政府は独自の回答を模索し始めている。
その答えの一つが「AIインクルージョン」の考え方にある。政府の施策によってAIの計算力を誰でも使えるようにして、社会の格差を縮小しようという発想だ。
動きが加速したのは2025年1月にリリースされた、中国発の推論特化型のオープンソースAIモデル「DeepSeek-R1」の登場からだ。DeepSeek-R1の訓練コストは、OpenAIのGPT-o1と比べて20~30分の1とされる。計算力の利用料も格段に安い。中国社会にとって、AIへの距離が格段に縮まった。中国共産党中央機関紙「人民日報」は「AIインクルージョンの新たな基準点」と位置付け、「AIインクルージョンの新座標を定める」ものと高く評価した(同年2月18日付)。
「インクルージョン」に相当する中国語の「普恵」は、「普遍的に恩恵をもたらす」という意味で、例えば「普恵金融(Financial Inclusion、金融包摂)」などの用例が広く知られる。これまで農村部や低所得層などへの金融サービス普及に使われてきたこの語が、AI普及の文脈でも使われ始めている。
中国メディアは、農村部の住民や高齢者、中小零細企業など、「AI弱者」への技術普及を促進する政策を「AIインクルージョン」と呼ぶ。またグローバルサウス諸国などへのAI技術移転の場面で、「LLMの劇的な低価格化で、AIインクルージョンは新時代に入った」といった使い方もする。相対的に力の弱い層に対する支援策として使われるイメージだ。
政府が「計算力クーポン」を分配
その「AIインクルージョン」の具体的な仕組みとして動き出しているのが、「計算力クーポン(算力券)」配布の政策だ。中央政府が超長期特別国債で財源を出し、地方政府が実施する「中央設計・地方実施」の構造で進められている。
AIが労働を代替する力の源泉は「計算力」にある。LLMを動かすには莫大な量の高性能なGPU(Graphics Processing Unit)クラスターが必要だ。多額の資金や人材がいる。そのため、どうしても大企業に能力が集中しやすい。この状況を緩和するために、中国政府が導入したのが「計算力クーポン」制度である。
「計算力クーポン」は、いわば政府が発行する「計算力の補助金証書」のようなものだ。これまで中国政府はAIデータセンターの建設など、計算力の「供給側」への直接補助を中心にしてきた。それを今回は、計算力を利用する「需要側」への補助を加えた。なかでも中小零細企業や地方の企業、地場産業などの支援を狙う。
しかし同クーポン分配の本質的な狙いは、実はコストではない。それは計算力の「誘導機能」にある。計算力を提供する大手テック企業は、政府からクーポンの対象に選定されないと、事業の継続上、不利になる。AIサービス全般に対する既存の各種規制も考慮すると、提供するサービスの中身は、政府の意向に沿ったものになるだろう。利用者の側も、政府が利用を認めた、いわば「お墨付き」の計算力を使うことになる。この計算力の「誘導機能」こそ、計算力クーポンの核心といえる。クーポンの配分というソフトな形を取りつつ、AIの計算力を国家の思惑に沿って活用しようとの政策的意図がある。
「先利用・後払い・即時利用」
クーポンの支給方法は、どの地方でもほぼ同じだ。計算力を利用したい企業は、その地方の「計算力クーポン管理サービスプラットフォーム」に登録する。正当なニーズがあり、適正に納税している企業であれば受給資格がある。補助率は20~30%程度が標準的だ。計算力を購入する企業がLLMのプロバイダーに代金を支払った後、政府に申請すれば補助金分が払い戻される形式が多い。
2023年初め頃から、中国の各地方政府は次々と同クーポンの配布を始めている。上海市では、2025年7月、最高30%の補助をスタート。総額6億元(約140億円)の規模で企業のAI利用を支援している。今年3月には、国内最大の計算リソース配分プラットフォームを新たに構築、年間10億元(230億円)のクーポンを発行、一部のプログラムでは「先利用・後払い、申請不要で即時利用」を謳い文句に、より幅広いサービス提供を始めた。
このほか、北京市や広東省深圳市、四川省成都市、安徽省合肥市、江蘇省無錫市、広東省中山市などが次々と同クーポンの配給を開始、全国規模で広がっている。企業規模が小さく、社内にAI部門や大規模な計算の予算を持たない企業でも、先端レベルのAIモデルを低コストで利用できる環境が生まれつつある。
地方都市の製造業にもAI導入が波及
計算力クーポンの政策は、2025年に全国規模へ拡大したところで、まだ普及途上の段階にある。しかし、中国の国内メディアでは、さまざまな地方でAI導入による「仕事の革新」が伝えられている。AI導入の影響が直接的に現れやすいホワイトカラーの仕事だけでなく、製造業の現場でも導入は進んでいる。
例えば、安徽省の小都市、池州市のある特殊新素材製造企業では、政府の同クーポンを活用して、生産・検査・管理の各工程にAIを導入。年間820万元(約1億9000万円)のコスト削減を実現した(国営通信社・新華社2025年12月9日)。
中国工業情報化部(工業や通信を所管する中央官庁)のデータによると、「第14次五カ年計画(2021~2025年)」の期間を通じて、IoTやAI、ロボット技術を活用したスマート工場は、全国で3万か所以上に達した。そのうち同部が高度な技術を持つと認定した230工場では、アップグレード後、全社平均で、製品の研究開発サイクルが28.4%短縮、生産効率は22.3%向上、不良品率は50.2%低下、炭素排出量は20.4%減少した――と発表されている(同部ホームページによる)。
米国型は「競争と独占排除」、中国型は「分配と誘導」
興味深いのは中国型「インクルージョン」の特徴だ。中国語の「普恵」はもともと「普遍的恩恵」という意味から来ている。英語由来の「インクルージョン」が「誰もがアクセスできる固有の権利」という「権利論」のニュアンスが強いのに対し、中国語の「普恵」は、「上から広く与える」という語感を持つ。そこには同じ「インクルージョン(包摂)」の実現でも、米国型は「競争と独占排除」、中国型は「分配と誘導」が主な方途になる――という違いがある。
米国では「AIインクルージョン」を「市場競争によるコスト低下の帰結」と認識する。民間主導のイノベーションと競争原理が市場の大原則として存在している。OpenAIやAnthropic、Googleなどビッグテックが正しく競争することで、サービス利用の単価が下がり、中小企業や個人のアクセスが拡大する――という論理だ。政府が特定のAIサービスを企業に「分配する」という発想はない。
一方、中国政府の基本的な発想は「分配と誘導」にある。そこでは「国家が生産手段(AI能力)の配布者になる」ことで社会の格差を縮小し、インクルージョンを実現しようとする。AI利用は国家が国民に享受させる一種の恩恵であり、「計算力クーポン」はまさにこれに相当する。そこでは「誰に」「どれだけ」「どんな条件で」計算力を配るかは、政治の判断に左右される。
もちろん中国にも「権利」や「自由」の視点がないわけではない。しかし議論の出発点は、やはり違う。例えば、中国で発行されたAI産業のある報告書には、「オープンソースは、LLM技術の普恵(インクルージョン)と平権(権利の平等)を推進した」という表現が使われていた。「恩恵」と「権利」が並立の形で語られているところに、中国における「AIインクルージョン論」の微妙な立ち位置がうかがえる。
「公共インフラ化」するトークン
中国国家統計局のデータによると、2024年1月の時点で中国全体の1日あたりトークン消費量は約1000億だった。それが2025年末には100兆を超え、2026年2月には140兆規模に急増した。わずか2年で1800倍の伸びである。「AIが仕事をする時代」が拡大する流れを物語る。
このような時代に、AIの利用料を測る「物差し」となるトークンは、いわば電気や水道のような「公共インフラ」化していく。OpenAIのサム・アルトマンCEOは今年3月のイベントで「将来的にAIはオンデマンドで提供され、人々が必要な分だけメーター制で購入して利用する公益事業のような存在になる」と語った。前出のアリババの呉泳銘CEOも「AIが処理するトークン量が経済活動の規模を測る新しい単位になる。トークンを作り、送り、消費させる仕組みを持つ者が、AI時代の経済インフラを握る」と語っている。
電力や水道、ガス、電話網など「規模の経済」の効能が極めて大きく、競争よりも独占・寡占のほうが効率性に優れ、かつ社会的に不可欠な財を経済学で「自然独占」と呼ぶ。インフラの重複投資は非効率であり、利用者の乗り換えコストは高い。社会の依存性が高いため、価格支配力が強くなる。そのためこれら公共性の高い事業は、どの国でも規制産業になり、一部は国有化されたりもする。
トークンの「規制産業化」は必然か
トークンが「公共インフラ」化すれば、それは「自然独占」の条件を満たす。トークンが電気や水道のように「規制産業化」するのは、少なくとも中国では必然だろう。AIが行う計算処理の基本単位としてのトークンを、いわば電力のような「経済インフラの基本単位」として捉え直し、その生産から流通、消費の仕組み全体を政府が掌握する。このような「トークン経済」の管理は、中国の政治体制と極めて相性が良い。
前述したように、中国では「計算力クーポン」の配布という形で、トークンの利用に政府の管理が広く及び始めている。計算力が、どの都市、どの産業、どの企業に優先的に配分されるか、それは政治の影響を強く受ける。情報管理と補助金の支給が一体化し、AIの利用をコントロールする。形式的には民間企業ではあるが、実質的な経営判断は国家の意向に従う――という事実上の公有化状態の方向に、状況はすでに動きつつある。
アリババなど、現実的には政府の強い影響力下にあるプラットフォームを活用して、「生産手段(トークン)」そのものを政治が分配する。それによって、「社会全体がAIを武器に戦える土俵」を政策的に作り出す。「中国的AIインクルージョン」には、格差是正と同時に、このような意図を読み取ることができる。
AIの計算力は「新時代の生産手段」
そして、それは習近平総書記が掲げる「共同富裕」実現の有力な手段と目されている。
「共同富裕」とは「貧富の格差を縮小し、社会全体が物質的・精神的に共に豊かになる」ことを目指す政策目標だ。この言葉は1950年代からあるが、習近平政権以降、特に強く唱えられている。
同総書記は2021年8月、党の重要会議で「資本の無秩序な拡大に断固として反対する」と語り、市場に強い影響力を持つ民営企業や、その経営者らに対する管理・監督の強化を指示した。また同じ会議で同総書記は「(一部の層の)高すぎる所得を合理的に調節し、高所得層と企業が社会にさらに多く還元することを奨励しなければならない」などと指摘している。「共に豊かになる」ために、政府が強い力を行使する姿勢は明確だ。
この政策目標実現のために、AIの計算力という「公共インフラ」の掌握は大きな力となる。古典的なマルクス主義は、「生産手段の私的独占が搾取を生む」と言った。中国の現政権は、AIの計算能力という「新時代の生産手段」を広く社会に配分することで、「資本の無秩序な拡大」を抑え、格差の縮小を実現しようとしているかにみえる。
次世代中国