前橋市の実践に学ぶ。
デジタルエシックスが支える官民共創の意思決定
本企画は、AIやデジタル技術が進化する中で重要性を増す「デジタルエシックス」について、各業界の有識者との対話を通じて深く探究するシリーズです。
今回は、前橋市でデジタルグリーンシティ構想のもとスマートシティ推進や「めぶくID」などの取り組みをリードしてきた、元前橋市スマートシティ推進監の谷内田(やちだ)修氏を迎えました。
デジタル化が進むほど選択肢は増える一方で、価値観の違いも表面化しやすくなります。そんな時に鍵になるのが、多様な価値観を尊重しながら合意形成を進め、「納得解」をつくるプロセスです。本鼎談では、谷内田氏の前橋市での実践を手がかりに、デジタルエシックスが納得解の創出を支える行動原理になることと、自治体や企業のプロジェクトリーダーが現場に持ち帰れるヒントを探ります。
NECの考えるデジタルエシックスとは
デジタルエシックスとは、デジタル技術の活用において『何ができるか』だけでなく『何をすべきか』を問い、リスク管理に留まらず信頼や社会的価値を生み出すための行動指針です。
AIやデジタル技術の進化が急激に進む中、企業経営で問われるのは「いかに信頼を築けるか」です。デジタルエシックスが、企業価値を守り、持続的成長を可能にする新たな経営判断の軸となると考えています。
SPEAKER 話し手

谷内田(やちだ) 修 氏
日本通信エグゼクティブアドバイザー
デジタル庁企画調整官
めぶくグラウンド(MGI)エグゼクティブアドバイザー
共愛学園前橋国際大学 非常勤講師
1964年前橋市出身、1989年前橋市役所入職、2011年「赤城山ヒルクライム」実施、2012年秘書課副参事(政策秘書)として政策全般対応、2015年より政策推進課課長として「民間共創(前橋ビジョン、太陽の鐘)」「スーパーシティ」「デジ田交付金」、2022年スマートシティ推進監として「デジ田(type3)、Digi田甲子園(優勝)、MGI設立等」、2023年より現職。

今岡 仁
NEC フェロー
顔認証技術の研究開発とグローバル事業化を主導。現在はその技術的なバックボーンを活かしながら、デジタルエシックスの浸透とさらなる探求を目指し、企業・自治体とのワークショップや対話・書籍執筆などを通じて発信を続けている。著書に『顔認証の教科書:明日のビジネスを創る最先端AIの世界』『デジタルエシックスで日本の変革を加速せよ』など。

松本 真和
NEC フェロー室長
兼 ビジネスイノベーション統括部 ディレクター
官公庁、通信キャリアを経て2021年よりNECに参画。政策・ルールに係る立案・活用に官民双方の立場から従事した。現職では、AIを活用した事業開発を統括、デジタルエシックスの体系化やパブリックアフェアーズを通じて、DXの推進に係る提言活動を推進している。これまで世界経済フォーラムフェロー、SDGs デジタル社会推進機構相談役などを歴任。
01.行政の壁と、対話が生み出す「納得解」の重要性
今岡:今日は前橋市の取り組みを起点に、デジタルエシックスが現場でどう機能するのか、その役割や可能性を掘り下げたいと思います。まずは谷内田さんのご経歴から伺ってもよろしいでしょうか。どんな背景で前橋市の施策に関わるようになったのでしょうか。
谷内田氏:実は若い頃は映画監督を目指していた時期もありました。その一方で、「街や人が幸せになる仕事がしたい」という強い思いがあって、前橋市役所に入りました。
行政の現場では、最初はシステム開発から入り、そこから都市計画、まちづくりへと、関わる領域が広がっていきました。
都市計画で特に印象的だったのが、赤城山を自転車で登る「まえばし赤城山ヒルクライム」の企画です。街中からスタートするヒルクライムは日本初だったこともあって、警察から「沿線住民全員の許可が必要」と言われました。結果として、100回以上、自治会や関係者に説明会を開いて、納得を得ることができました。
日本通信エグゼクティブアドバイザー
デジタル庁企画調整官
めぶくグラウンド(MGI)エグゼクティブアドバイザー
共愛学園前橋国際大学 非常勤講師
今岡:100回以上ですか。それは大変でしたね。行政でも民間でも、新しいことを進めるのは簡単ではありませんが、具体的にはどんな壁がありましたか。
谷内田氏:行政では、トラブルがないことや調整力が評価される傾向があります。公平や平等を強く意識しすぎて、新しいことがなかなか前に進まない場面もあります。例えば民間のアイデアを取り入れたくても、「入札をかけましょう」「担当部署と調整しましょう」となって、スピードが落ちてしまうことがありました。
今岡:その状況で、どうやって「納得」をつくっていったのでしょうか。実務としては相当難しいですよね。
谷内田氏:私は「納得が解決のヒントになる」と思っています。対立や敵対の構図になってしまうと、前に進まない。だから、相手に「私もそう思ってた」と言ってもらえる状況をつくる。ここが大事です。
それと、100%の正解を求めないことです。多様なエシックス(倫理観)が存在することを認める。一人ひとりの最適解があって、正解は1つじゃない。そういう土壌があると、対話を重ねる中で「誰もが共感できる納得解」が生まれやすくなります。
もう一つ、前橋市では、面白いアイデアがあれば市長と政策部門で即決できる、市長直結の仕組みもつくりました。もちろん反対意見は出ます。ただ、仕組みや意思決定プロセスを丁寧に説明して、納得感を得られるように努めました。
今岡:今のお話を聞いて、納得解は結果ではなく、プロセスそのものが重要なのだと感じました。行政や民間それぞれで異なる価値観やエシックスがある中で、対話を重ねて「私もそう思ってた」と言い合える状態をつくる。ここが、納得解を生み出す起点になりますね。
そして、100%の正解を求めず、多様な最適解を認め合う姿勢は、「デジタルエシックス」の実践と深く結びついていると思いました。
02.民間主導の都市ビジョン「めぶく。」はどう育ったのか。共感を広げる仕掛け
今岡:納得解をつくるには、対話だけでなく「どこへ向かうのか」という方向性を共有することも欠かせないと感じます。2016年に前橋市が発表した、民間主導の都市ビジョン「めぶく。」についてもお聞きしたいです。どのような工夫があったのでしょうか。
NEC フェロー
谷内田氏:「めぶく。」は、「デジタル×スローシティ」を基本に、多様性のあるまちづくりを目指す都市ビジョンです。
ここでも大事だったのは、官民の多様なメンバーが揃ったチームが、それぞれの役割を尊重し合いながら、「私もそう思ってた」と言ってもらえる仕組みをつくることでした。
0から1を生み出す人と、1を100にする人が互いを尊重する。これが効きます。
0から1を生み出す民間のメンバーとしては、メガネのJINSの田中仁さん、コピーライターの糸井重里さん、ポルシェやアディダスのブランディングを手掛けるドイツのKMS社などが参画してくださいました。田中さんは自社のビジョンづくりの経験を前橋市に活かしてくださいましたし、糸井さんはKMS社の分析から出てきた「Where good things grow(良いものが育つまち)」というワードを、「めぶく」という言葉に変えてくださいました。
できあがったビジョンは、4,000人の市民が集まる中で宣言しました。市民に周知して浸透させる意味で、発表会をやったのは本当に良かったと思います。ビジョン発表会での市民への周知と継続的な対話による共感形成によって、民間主導のまちづくりは、市長が変わっても文化として根付きました。
今岡:先日、「パーパス経営」や「エシックス経営」を執筆された名和先生と対談した際にも、「パーパスは自分ゴト化されて初めて動く」という話が出ました。前橋市の話を伺っていると、パーパスとビジョン、そして対話によって生まれた納得解や行動原理がセットになっている印象を受けました。
谷内田氏:山登りをパーパスに例えると、ビジョンは「この山の頂上には素晴らしい景色がある」と、目的地の景色や体験を共有することだと思います。
Apple社のスティーブ・ジョブズ氏も、まず「こんなサービスを実現したい」というビジョンを掲げ、それに合わせて技術や仕組みを作るスタイルだったと聞きました。DXも同じで、まず何を目指すかを明確にすることが重要です。
それから、山に登る方法は一つではありません。まっすぐ登る人もいれば、ゆっくり登る人もいる。ヘリコプターで登る人もいるかもしれない。ビジョンやパーパスを実現につなげていくための手段が、エシックスであり、デジタルだと思います。
松本:今の例え、すごく分かりやすいですね。ビジョンが崇高でも、道筋が一つしかないと反発が出る可能性があります。登り方はいくつも用意して、誰も取り残さないように目配りをする。そのときに「何を良しとするか」の判断軸として、エシックスが必要になるということだと思います。
では、デジタルの役割については、どう考えていらっしゃいますか。
NEC フェロー室長
兼 ビジネスイノベーション統括部 ディレクター
谷内田氏:いろいろな方法がある中で、デジタルを活用できるようになると選択肢が広がり、自由度がさらに高まります。その結果、それぞれが自分に合った最適なサービスを利用できるようになります。
松本:選択肢が増えるほど、安心して選べる状態をつくることが必要になりますね。だからこそ、行動原理としてのエシックスの重要性はむしろ増していく。多様なメンバーが集い、単に技術を導入するだけでなく、「何を大切にすべきか」を議論し続ける姿勢こそが、デジタルエシックスの現場実践においては重要になると思います。
03.官民共創のアーキテクトチームが実現した信頼の基盤「めぶくID」
今岡:ここまで伺ったような、多様な意見や価値観の合意形成プロセスがあったからこそ、前橋市では信頼できるデジタル認証基盤「めぶくID」の設計と運用に至ったのだと思います。改めて、めぶくIDについてもお話を伺えますでしょうか。
谷内田氏:「めぶくID」は、官民共同出資で設立した「めぶくグラウンド」という会社が運営しています。マイナンバーカードによる本人確認を実施したうえで、スマートフォンのICチップに秘密鍵を入れるなど複数の技術要素を組み合わせて、安全なデジタル認証基盤を構築しています。特定の技術ありきではなく、人を中心において都市全体で安心して使われることを前提に設計した点が特徴です。
そして、こうした技術基盤を社会実装するには、幅広いステークホルダーの信頼と合意形成が不可欠です。そこで設計プロセスでは、行政・民間・研究者・デザイナーなど多様なメンバーが集まり、アーキテクト層として1年半で170回に及ぶ会議を重ねました。そこでは、異なる価値観や懸念を一つ一つ検討して、合意形成を図っていきました。
松本:アーキテクトチームの存在が、推進力そのものになっていたということですね。デジタルエシックスの視点から見ても、対話して合意をつくる場は大事な装置だと感じました。
谷内田氏:その通りです。アーキテクト層がレイヤーとして存在して、企画だけではなく、意思決定やデザイン、データガバナンスまで多様な視点を持ち寄る。そうすることで、市民の信頼につながる納得解を導き出せます。単なるトップダウンではなく、現場の知見や市民目線を反映した持続可能な共創を実現しました。
今岡:対話を「仕組み」にしていることは、170回という数字にも表れていますよね。個人情報など、データの取り扱いへの懸念も多かったと思いますが、どのように対応されたのでしょうか。
谷内田氏:めぶくIDは、本人の同意が前提の自己主権型の設計です。自分の情報を外部に知られたくない人は匿名で利用できるなど、必要に応じて利用方法を選択できる仕組みです。
ただ、データの取り扱いは、ルールの制定が追い付かないグレーな部分が多い状況でした。だからこそ、問題が起きたときに必ずデータの扱い方を確認し議論する、データガバナンス委員会を設置しました。消費者の代表や、データガバナンスに詳しい弁護士、市議会代表などがメンバーです。これにより、市民の信頼と納得感を得ることができたと思います。
今岡:今のお話でポイントになるのは、市長や企画部門だけで回すのではなく、多様な専門家や官民のメンバーが集まり、対話を重ねることで、信頼ができていったという点だと思います。アーキテクトというレイヤーを設け、異なる視点を持つ人々が合意形成に関わる仕組みが、持続可能な官民共創の推進力になったのだと実感しました。
そしてデジタルエシックスは、誰もが納得できるサービスを共創するための行動原理になります。デジタルで多様なサービスを提供できる時代だからこそ、エシックスと技術、サービスのバランスが重要です。そのバランスが取れることで、行政から一方的に提供されるサービスではなく、「自分で選び、使い分けられる仕組み」として受け止められるようになる。そう感じました。
04.デジタル庁での実践とこれからの官民共創モデルのあり方
今岡:前橋市では、対話を仕組みにして納得解や行動原理をつくってこられました。一方、デジタル庁の「デジタル化横展開推進協議会」では、現在はどのような取り組みをされていらっしゃいますか。
谷内田氏:「デジタル化横展開推進協議会」では、これまでのDXの課題として「システムやサービスを作ること自体が目的化し、実際に現場で使われない」という問題意識が共有されています。そこで今後は、「作るから使う」への転換、すなわち市民や事業者が実際に利用し、価値を実感できるサービスづくりに重点を置くことが方針になっています。
またそのためには、行政と民間が共同で標準化すべき協調領域(インフラ)と、自治体や企業ごとに工夫を凝らす競争領域を明確に分けることが必要です。そしてそこでは、多様なステークホルダーが参加するフェアな協議の場で、合意形成を進めることが重要になると思います。
今岡:まさに、前橋市で培われた官民共創や、アーキテクト層による合意形成の知見は、協調領域の設計や合意プロセス、そして他の自治体や企業のプロジェクトにも大きな示唆を与えるものだと思います。
特定のリーダーや資本だけで動かすのではなく、多様な人材が集うアーキテクトチームの力を活かすことで、未来の自治体・企業・社会づくりが進む。今日はそこがはっきり見えました。
そして、デジタルエシックスは、誰もが納得できるサービスを共創するための行動原理として、官民の合意形成やサービス設計の根幹に位置づけるべきものだと感じました。
NECとしても、デジタルエシックスの考え方を根幹に据えた官民共創の取り組みを、今後も積極的に支援していきたいと思います。本日は貴重なお話をありがとうございました。
- 本記事に記載されている会社名、サービス等の名称は、各社の商標または登録商標です。
企画・制作・編集:
NEC BluStellar ブランドマーケティンググループ(鈴木章太郎、若山拓巳、権田麻実)
編集後記:
前橋市の実践は、単なるデジタル施策ではなく、「どんな価値観を前提に都市をつくるのか」という問いから始まった取り組みだと感じました。
「めぶくID」は、本人同意を前提に、匿名利用なども選択できる自己主権型の設計を採っています。一方で、個人最適なサービスが進むほど、データの扱いは複雑になり、技術だけでは解決できない課題が顕在化します。そこで前橋市では、データガバナンス委員会を設置し、都度確認・議論する仕組みを整えることで、信頼を担保してきました。
また、印象的だったのは、こうした意思決定が一度きりではなく、行政・民間・研究者・デザイナーなど多様な関係者との対話を何度も重ねながら更新されてきた点です。その積み重ねこそが、サービス実現を支える土台になっています。
自己主権型サービスの実現に伴う課題に向き合い、対話を通じて納得解を探り続けるプロセスは、まさにデジタルエシックスの実践であり、他の自治体や企業にも応用可能なノウハウとして、大きな示唆を与えるはずです。本稿が読者の皆さまの現場で、デジタルエシックスを軸とした対話と合意形成を進める一助になれば幸いです。