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2019年04月26日

次世代中国 一歩先の大市場を読む

「996問題」に見る、中国「野蛮な成長」の終わり
~遠ざかるチャイナドリーム

「8116+8」の思い出話も共感を得られず

 ジャック・マーとほぼ同時期に、Eコマース大手、京東の創業者、劉強東も自らの見解を発表している。そこで劉は「京東は996を強制しないが、京東人はひたすら仕事に打ち込む気持ちがなければならない」と述べたうえで創業当時のエピソードを語っている。当時の劉は996どころか「8116+8」だったという。「8116+8」とは「毎日午前8時から午後11時まで、週に6日働いたうえで、日曜日にも8時間働く」ことを指す。「自宅の家賃を節約するため、4年間、事務所の床で寝ていた。2時間以上連続して寝たことは4年間で一度もない」という。「今ではもちろんこんなことはできないが」としてはいるが、このような「気分」に強いノスタルジーを感じているのはわかる。

 また中国の代表的なスマートフォン企業の一つ、シャオミ(小米)の創業者で会長兼CEO、雷軍は4月4日、北京の清華大学での講演で996について語り、「これからは優秀な、会社が管理する必要がない人を採用したい。管理する必要がない人とは、毎日夜中の12時まで喜んで残業するような、強い責任感と自己駆動力を持った人だ」と発言した。

 この2人の発言も、メディアで伝えられるや、「中国を代表する成功者の創業時代と、現在の若者の労働時間の話を結びつけるのはおかしい」「仕事に真剣に取り組むことと残業を事実上強制することは違う。午前9時から午後5時まで働く人を、お気楽に働いていると見るのは間違っている」といった批判が噴出した。

「チャイナドリーム」の終わり

 ジャック・マーは1964年生まれ、雷軍と劉強東はそれぞれ1969年、1973年の生まれである。中国が本格的にインターネット時代に突入した1990年代末から2000年代前半にかけて、彼らは時代の最先端にいて、目の前に広がるインターネット世界の、とてつもなく巨大な可能性に目が眩む思いで、何かに突き動かされるように仕事に没頭した。当時の様子は、昨今、中国で相次いで出版されている彼らの伝記などを読むとよくわかる。彼らのような「チャイナドリーム」を体現した世代が、世界的な大富豪となって中国IT業界の中心的な位置にいる。

 しかし、今回の「996騒動」の推移を見ていると、こうした中国の立志伝中の人物の時代は、過去のものになりつつあると思える。

 中国電子商務研究センター特約研究員で労働問題などに詳しい黄偉弁護士は中国メディアのインタビューに答えて、「996問題の背後には、インターネット企業の利益率が全体的に低下し、プログラマーの人件費を節約しつつ、一人当たりの生産性を高めたいとの思惑がある」と語る。

 確かに中国では15~60歳の労働人口ではほぼ全員にスマートフォンが行き渡る時代になり、Eコマースも日常的な購買手段として完全に定着し、もはや急激な伸びは期待できない状況だ。996問題に若い世代が強い拒否反応を持つ背景には、「必死に会社のために働いても、従来ほどのリターンは見込めない」との冷めた視線が存在するのは間違いない。

中国でも「低欲望社会」到来か

 今回の996問題の背後に、中国も日本と同様「低欲望社会」に入る予兆を見る向きもある。4月6日、北京市内で「格差社会──何が問題なのか」 (橘木俊詔著、岩波新書)の中国語版出版イベントが開かれた。パネラーの1人として登壇した中国社会科学院社会学研究所、李春玲研究員は「日本では過去に働きすぎによる過労死の問題などが発生し、若い世代が会社そのものや働くことに対する期待感を失った。これは日本の大きな失敗だった。結婚しない、子供もつくらないという”低欲望社会”化する一因となった」と指摘した。

 そのうえで同研究員は中国の996問題についてコメントし「996でひたすら働いて、病気になってICUという残業文化の下で、どうして会社や仕事に対する期待を持つことができるだろうか」と語り、このままいけば中国の若い世代は日本と同様、「低欲望社会」への道をたどることになるとの危機感を明らかにした。

「上から与えられる成功」はいらない

 アリババのジャック・マーは、明確な志(こころざし)を立て、周囲を激励し、目標に向かって引っ張っていく、典型的な理念牽引型のリーダーである。そしてその理念を見事なまでに実現し、周囲を驚かせ、半ば神格化されるまでの英雄となった。彼の「996幸福論」の根底には、当然ながらその成功体験がある。しかし、現在の若い世代には、その成功体験が現実的とは思えなくなっている。苦労はあっても、頑張れば無人の野を行くがごとく事業ができた時代と、現在のように資金、情報、人材があらゆる領域に満ちあふれた成熟の時代を、同じ発想で成功できるとは到底思えないのである。

 1980年代、90年代生まれの世代が求めているのは、英雄に「上から与えられる成功」ではない。自らの自由な意志で仕事を選択し、自らの選んだ働き方でお金を稼ぐことができる環境である。成功できるかどうかはわからないが、成功を強制されたいとは思っていない。だから「996に反対するような人間は、お気楽な人生を送りたがっている」と決めつけられれば強く反発する。彼らにとって「反996」は法律に定められた当然の権利であって、それに反対するからと言って怠け者のように言われる筋合いはない。ましてや「深夜12時まで喜んで残業する人間が優秀な人材」などという価値観は到底受け入れられるものではない。

中国「野蛮な成長」の終わり

 今回の「996問題」で若者たちが知ったのは、大成功した「IT企業家第一世代」が、法律という枠組みすらも意識する必要がないほど「野蛮な」社会環境の下、思いのままに事業を進め、今に至るもその発想から抜けていない──という事実である。「あ、彼らの発想はいまだにこんな風なんだ」と驚いたというのが実態に近い。かつての「なんでもあり」「早い者勝ち」「強い者勝ち」の「野蛮な」社会環境がなくなりつつある今、中国のIT企業がかつてのような成長を維持できるのか、またそれをする必要があるのか、社会は疑問を持ち始めている。

 若い世代の反応を見ていれば、今後の中国社会の向かう方向はある程度、見通しがつく。社会全体が「成功」に向けて熱病に浮かされたように突っ走っていた時代は終わり、今後はルールに則った、当たり前の社会になっていく。若者たちは誰もが大成功を目指すのではなく、自分の個性に合った、自分自身の人生を追求するようになるだろう。そして、そのことは中国や世界の国々にとって決して悪いことではない。今回の996問題が明らかにしたのはそういうことだと思う。

田中 信彦(たなか のぶひこ)氏

BHCC(Brighton Human Capital Consulting Co, Ltd. Beijing)パートナー。亜細亜大学大学院アジア・国際経営戦略研究科(MBA)講師(⾮常勤)。前リクルート ワークス研究所客員研究員
1983年早稲田大学政治経済学部卒。新聞社を経て、90年代初頭から中国での人事マネジメント領域で執筆、コンサルティング活動に従事。(株)リクルート中国プロジェクト、ファーストリテイリング中国事業などに参画。上海と東京を拠点に⼤⼿企業等のコンサルタント、アドバイザーとして活躍している。近著に「スッキリ中国論 スジの日本、量の中国」(日経BP社)。

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