業務を生成AIで再デザイン
「鉄道版生成AI」の開発に挑戦するJR東日本
深夜の最終列車終了後に鉄道設備のメンテナンスを行ったり、安全・安定輸送確保のため分刻みに発着する列車ダイヤを守ったりする鉄道事業者の社員。私たちが当たり前のように利用している鉄道は、こうした人々の技術と経験に支えられている。しかし、少子高齢化による生産年齢人口の減少によって、人手だけで鉄道インフラを守ることが難しくなってきている。このような社会課題に対し、JR東日本は、生成AIによって業務を変革しようとしている。NEC データサイエンティストの本橋 洋介がJR東日本の青柳 宗之氏に話を聞いた。
SPEAKER 話し手
東日本旅客鉄道株式会社

青柳 宗之氏
イノベーション戦略本部
マネージャー
NEC

本橋 洋介
コンサルティングサービス事業部門
アナリティクスコンサルティング統括部
上席データサイエンティスト
鉄道を取り巻く環境の変化と生成AI活用の必然性
本橋:JR東日本は、なぜAIの活用に取り組んでいるのでしょうか。
青柳氏:JR東日本は、鉄道を中心とした交通サービスの「モビリティ事業」と、非鉄道領域で不動産やホテル、金融やSuicaなどの「生活ソリューション事業」を2軸とし、移動や生活の枠を超えて暮らしそのものを再構築する「ライフスタイル・トランスフォーメーション(LX)」を目指しています。事業エリアは、関東、甲信越、東北と幅広く、鉄道においては69路線、路線距離(営業キロ)7418.7km、1682駅を有し、1日の輸送人員は約1600万人にものぼります。また、このようなサービスを提供するために4万4790人(2025年4月現在)の社員が働いています。
そうした中で、最近は自然災害が増えるなど、鉄道インフラの保全や復旧の難易度が上がっています。これまでは、人手を中心に対応してきましたが、少子高齢化による生産年齢人口の減少によって、人材確保も難しくなっており、人手を中心にして鉄道インフラを守ることの限界が見えてきました。
そこで、期待しているのがAIです。グループ経営ビジョン「勇翔2034」では、「鉄道運行オペレーションにおけるAI利用についてデファクトスタンダードを確立」「生成AIで業務そのものを改革し、人ならではの仕事に注力して生産性を向上」「高度化した生成AIのエージェント機能を業務システムと連携させることで企画・調整業務を移管」など、AIを活用した業務変革の具体的なビジョンを掲げ、全社を挙げて取り組んでいます。
イノベーション戦略本部
マネージャー
青柳 宗之氏
本橋:生成AIは、どのように活用していますか。
青柳氏:まず2023年度に生成AIチャットツールを開発し、全社に展開しました。ただ、あくまでもインターネット上の公開情報に基づいて回答する汎用的なものでしたから、翌2024年度にRAG(検索拡張生成:Retrieval-Augmented Generation)を活用して、社内規程や技術文書などを取り込み、当社の独自業務に関する質問にも答えられるようにしました。
そして現在、法令や規則はもちろん、多くの熟練者が蓄積してきたノウハウの結晶であるマニュアルや教育資料、設計資料、報告文書などを通じて、鉄道固有の専門知識を取り込み、社内の多様なシステムとも連携しながら業務遂行を支援する「鉄道版生成AI」の開発に着手しています。
鉄道版生成AIの実現に向けて4つの課題解決に取り組む
本橋:鉄道版生成AIの開発は、非常に興味深いですね。開発状況を教えてください。
コンサルティングサービス事業部門
アナリティクスコンサルティング統括部
上席データサイエンティスト
本橋 洋介
青柳氏:基礎的な鉄道知識を備えた「鉄道事業基礎AI」、専門的な鉄道知識を備える「鉄道事業専門AI」、複数の鉄道専門分野の知識を備える「鉄道事業汎用AI」と、目標を3段階に整理し、開発に取り組んでいますが、4つの課題に直面しており、それらを克服しようとしているところです。
1つ目の課題は、大規模言語モデル(LLM)のサイズの見極めです。大規模なモデルは、多くの知識を取り込める一方、学習に必要なデータ量とコストが膨大になります。一度、構築したとしても、いずれ制度改正や規則変更に合わせて再学習が必要となる可能性が高く、そのたびに時間や費用がかかることを考えると、「大きければ良い」とはいえません。専門領域ごとに分割する案も含めて、慎重に見極めなければなりません。
2つ目は、データの準備です。鉄道業界は紙資料が多数残されており、膨大な資料は存在するものの、多くは非構造化データとして散在しており、AIの学習には適していません。また、先ほども述べたように、今後、法令や規則が改正されるたびに知識を更新する必要もあります。ですから、すべてを学習させるのではなく、RAGを使って最新情報を参照する仕組みを有効活用したいと考えています。
3つ目は、図表類の理解の壁です。鉄道の現場で利用する文書は、駅構内の信号機や線路を切り替えるための転てつ機(てんてつき)の配置や列車の進路制御論理をあらわした「連動図表」をはじめ、さまざまな図表で情報が整理されています。これらは、人にとっては、直感的でわかりやすい表現なのですが、AIにとっては、決して、そうではありません。無理に学習させると、回答精度が低下したりするため、図表を一度構造化データに変換するパイプラインを整備するほか、画像とテキストを同時に扱えるマルチモーダルAIの活用も検討しています。
そして最後が一般的なLLMとの使い分けです。最新の汎用LLMは、鉄道用語を用いた専門的な質問や依頼にもある程度対応できるほど進化しています。そのため、私たちが開発に取り組んでいる鉄道版生成AIと、それらの汎用LLMのすみ分け、併用をどのように考えるかが重要になっています。精度やコスト、運用効率の観点から、最適なすみ分けを検討しなければなりません。
本橋:完成後、鉄道版生成AIは、どのように業務を変革するのでしょうか。
青柳氏:例えば、信号・通信設備の故障復旧支援は、非常に専門性の高い業務で、従来はベテラン指令員の経験に依存していました。鉄道版生成AIが、それに代わって復旧手順や所要時間を提示することを考えています。
また、自律的に稼働するAIエージェントと約2,000の社内システムを連携させることも考えています。例えば「設備の交換計画案をつくって」と指示すれば、AIエージェントがシステムにある検査データや工事情報を自動的に集め、それらを統合して計画案を自動生成するといった連携です。
本橋:AIエージェント化は、現在、生成AIの活用における大きなテーマですね。NECも積極的に取り組んでおり、候補となる定型業務をピックアップし、AIエージェントによる変革を試しながら改善を繰り返しています。現在、社内では少なくとも23種以上のAIエージェントが稼働しています。
例えば、専門用語や業界慣行への適合が求められるサステナビリティ関連レポートの作成業務においては、リスク評価や調査タスクにおいて大幅な作業効率化を既に実現しています。このように有識者の専門知見を形式知化し、今後はさらに活用領域を拡大する予定です。
変革を成功させ、まざまなインフラ事業者の力になりたい
本橋:鉄道版生成AIの開発は、どのような体制で行っているのでしょうか。
青柳氏:鉄道版生成AIの開発を担っているのは、当社の研究開発センターです。ここは新幹線高速化や線路・構造物などハード系インフラの研究開発を手掛けてきた組織ですが、近年はAIの研究開発にも取り組んでいます。
研究開発センターのメンバーは、必ずしもIT分野の研究者だけではなく、現場で活躍していた社員も多く所属しています。研究者の技術力と現場社員の経験やノウハウを組み合わせ、最終的に現場に実装することを前提とした開発体制を築いています。
とはいえ、私たちだけで研究開発を進められるわけではありません。高い技術力を持つNECのようなパートナーは、欠かせない存在です。
本橋:長い間続くJR東日本との取り組みは、私たちにとっても貴重な場となっています。鉄道という社会インフラを支える現場での検証を通じて、机上では得られない多くの知見や経験を積み重ねることができました。NECは、そこで得た知見や、自身の社内での挑戦における成功や失敗の経験などを体系化して、社会に提供していきたいと考えています。
例えば、お客様がすぐにAIエージェントを活用できるよう、営業やSCMなど、特定の業種・業務に特化したソリューションを用意しています。また、IT部門やDX部門に向けては、AIエージェントの開発を支援するリファレンスアーキテクチャを提供。具体的には、ハルシネーション対策、セキュリティ、エージェントの監視・行動ログ、権限設計、プロンプトだけに依存しない業務フローや図解起点の開発手法、非構造データや行動履歴のデータ管理、複数エージェントの相互接続と状態管理のためのフレームワークなどです。
青柳氏:これまでもNECは、運行管理の高度化、顔認証改札機の実証実験、駅の案内AIチャットボットの実証など、私たちと共にさまざまなプロジェクトに挑戦してくれました。その豊富な経験や積極的な姿勢を非常に信頼しています。
本橋:ありがとうございます。最後に、今後の展望を教えてください。
青柳氏:繰り返しますが、鉄道は労働力人口の減少や自然災害の増加などを背景に、大きな変革期を迎えています。その変革を支える要素の1つが生成AIです。私たちが変革に成功すれば、その技術や経験は、日本の社会を支えるさまざまなインフラ事業者の力にもなると考えています。
これまで、当たり前に人が担ってきた業務をAIでデザインし直し、鉄道事業をサステナブルにしていく使命を果たしながら、すべての人の心豊かな生活を実現し、安心と感動を未来へつないでいくために、これまでの「当たり前」を超える社会を築いていきたい。そう考えています。