次世代中国 一歩先の大市場を読む
「タオバオ特価版」のアリババ流「水道哲学」
~中国地場産業のデジタル化で最強の商品をつくる~
Text:田中 信彦
アリババグループが提供するeコマースアプリ(サイト)「タオバオ(淘宝)特価版」が急速に支持を高めている。
全国に散らばる地場産業の集積地と連携し、そのデジタル化を支援することで品質の向上や低価格化を実現、それをアリババの物流網で全国に直送することで産業全体を効率化していこうという壮大な取り組みだ。工場の能力を高めることで消費者にメリットをもたらし、社会全体を豊かにしていくという考え方は、松下幸之助がかつて自社の使命として掲げた「水道哲学」にも相通じるものを感じる。
今回は、一介の「安売りアプリ」には留まらないユニークな構想を持つ「タオバオ特価版」(以下「特価版」)の今日的な意味を考えてみたい。
田中 信彦 氏
ブライトンヒューマン(BRH)パートナー。亜細亜大学大学院アジア・国際経営戦略研究科(MBA)講師(非常勤)。前リクルート ワークス研究所客員研究員
1983年早稲田大学政治経済学部卒。新聞社を経て、90年代初頭から中国での人事マネジメント領域で執筆、コンサルティング活動に従事。(株)リクルート中国プロジェクト、ファーストリテイリング中国事業などに参画。上海と東京を拠点に大手企業等のコンサルタント、アドバイザーとして活躍している。近著に「スッキリ中国論 スジの日本、量の中国」(日経BP社)。
中小企業の支援は「祖業」への回帰
アリババグループの歴史を振り返ると、「特価版」はいわば「祖業」回帰の意味合いを持つ。
アリババの創業は1999年9月、企業間の電子商取引を支援するマッチングサイト「阿里巴巴(アリババ・ドットコム、Alibaba.com)」から始まった。創業者のジャック・マー(馬雲)は「世界中の個人や中小企業を支援する」ことを当初から理念として掲げ、事業の原点はインターネットの力で中小企業の販路や仕入れルートの拡大をサポートするアリババ・ドットコムにある。
アリババ・ドットコムのうち中国国内向け部分は2010年、「1688.com」という名称に変わり、現在でも数百万社の中小企業や自営業者らが参加し、地味ではあるが、中国の企業間商取引の重要な基盤として機能している。2003年にB to C(企業対消費者)およびC to C(個対個人)の取引サイトとして淘宝網(タオバオ)をスタート、2008年には一定の信用力があるブランド中心のB to Cサイト「天猫」(Tmall)を立ち上げるなど中国のeコマース市場をリードしてきた。
なぜいま「特価版」なのか
「特価版」はeコマースサイト「タオバオ」の一機能として2019年春に誕生し、2020年3月、独立したサイト(アプリ)としてスタートした。同年末には早くもアクティブユーザーが1億人を超えるなど、急速に成長している。すでに「タオバオ」や「Tmall」などのeコマースサイトがありながら、アリババはなぜあえて「特価版」を新たに立ち上げたのか。それは中国の国内市場が大きく変わりつつあるとの判断があるからだ。
クレディ・スイス証券の2019年の調査によれば、資産額で世界の上位10%に入る中国人はすでに1億人に達したという。これだけで日本一国の規模に匹敵する数の富裕層が存在するわけで、これまで中国の消費を引っ張ってきたのはこうした層の人たちだった。そのマーケットは大きいが、スマートフォン(以下スマホ)の普及率はほぼ天井に達し、今後の市場として大きな成長は見込めない状況になりつつある。
注目される低所得層の「下沈市場」
一方で、中国の平均可処分所得は現時点では都市住民が月額3530元(1元は約16円)、農村住民は同1190元と、それぞれ5万6000円、1万9000円ほどにとどまる。2020年5月、李克強首相が記者会見で「中国には月収1000元(1万6000円)の人が6億人もいる」と述べたのはこのあたりのことを指す。ボリューム的に圧倒的な比率を占めるこうした農村部中心のマーケットを「下沈市場」と呼ぶ。大都市で売れた商品が、地方の中核都市、小都市、農村部と沈み込むように順次売れていくイメージから名付けられた。
しかし近年、農村部の都市化が進み、企業や工場などの地方進出も増えて農業以外の収入を得る人が増加したこと、都市部に出荷する商品作物の栽培が拡大したことなどで農村部の収入は着実に増えてきた。所得の伸び率は過去11年間、連続して都市部を上回っており、格差は縮小の方向にある。スマホの普及も急速に進んでおり、2021年2月の調査では中国全体のスマホ所持者9億8600万人のうち農村部が3億900万人と31.3%を占め、2020年の1年間で5471万人も増えた。この勢いは当面続くとみられている。
こうしたことから、成長スピードが鈍化する都市部に代わって、巨大な潜在力を持つ「下沈市場」が今後のカギを握る状況になってきた。過去数十年の中国の経済成長が都市部に偏重していたことは事実で、成長の第2ラウンドは農村部の発展にある。ここに「特価版」の主要なターゲットがある。
「消費の同権(消費平権)」がキーワードに
そうした文脈の中で、いま注目されているのが「消費の同権(消費平権)」という概念だ。メディアでも最近、この言葉をよく見かける。
「消費の同権」とは何かというと、簡単に言えば、農村部でも都市部でも、所得水準が高くても低くても、同じようなレベルの製品、サービスを享受できるような社会にすべきだ――という考え方である。
これまで中国の市場は、質の良いものは値段が極端に高く、値段が安いものは品質が劣悪であるという両極端しか選択肢がない傾向が強かった。それは上述したように、富裕層と「下沈市場」に市場が二分化されており、その中間が薄かったからである。農村部の人たちは、自分たちは都市部とはクラスが違うと自ら諦めてしまっていたようなところがあった。
しかしここへ来て「下沈市場」の消費力が高まってきた。都市部の富裕層と同じとまでは言わないが、そのライフスタイルに準じた(テレビのCM のような)現代的な生活を実現したい。そういう欲求が強まってきている。要は農村部にも生活の都会化が現実的な流れとなって押し寄せてきたということだ。
従来並みの値段で、ワンランク上の生活を
とはいえ、所得は伸びているものの都市部には遠く及ばない。同じ商品を同じように消費するのは無理がある。そこで「特価版」が狙ったのが、従来並みの値段で、ワンランク上の生活を実現できる高品質な商品を大量に供給するという考え方である。
その具体的な事例としてしばしば語られるのが女性用の洗顔シートの爆発的なヒットだ。農村部の女性はこれまで普通のタオルを使って洗顔するのが当たり前だった。タオルは洗うのが面倒であり、衛生面の懸念もあるが、使い捨ての洗顔シートは値段が高く、そもそも手に入らないため、そういう概念自体がなかった。
しかし「特価版」で「80枚入り3パック全国送料込み9.9元」(約160円)、「同50枚入り10パック14.9元」(同240円)といった値段で洗顔シートが大々的に売り出されると、一気に需要に火が付き、対前年比5.5倍の売上を記録。洗顔シートで顔を拭くのが農村部の若い女性には当たり前のことになりつつある。
電動歯ブラシもヒット商品のひとつだ。これまでも商品自体はあったが、1本が日本円で1000~2000円以上するのが普通で、「下沈市場」には無縁の商品だった。ところが「特価版」が江蘇省揚州市のある工場と研究を重ね、商品化した電動歯ブラシは1本9.9元(160円)全国送料込み。2020年は1日あたり平均20万本を売り上げ、対前年比17.7倍という爆発的な人気商品となった。
ほかにもキッチンペーパー、中国産ワインなどといったものが前年の数倍から数十倍の売上を記録し、どんどん農村部の生活に浸透した。洗顔シート、電動歯ブラシ、キッチンペーパー、ワイン……。商品の顔ぶれから「ワンランク上の生活」というものがうかがわれ、なんとなく微笑ましい。
「特価」は工場が強くなった「結果」である
このような「特価版」の発想の根底には、「良い商品を低価格で継続的に提供するには、まず工場を強くしなければならない」という考え方がある。過去にも中国には「工場卸」「工場直販」といった工場からダイレクトに商品を販売する手法はあった。しかしその大半は売れ残り品や倒産工場から流れてきた商品などを販売するもので、価格は安くても品質は保証がなく、商品供給の継続性も乏しかった。
それに対して「特価版」は、消費者に関する感度の高い情報を持つアリババが生産者と一緒に商品の企画から生産段階まで関与し、商品を低価格で大量に、しかも安定的、継続的に提供できる体制をつくるところに狙いがある。つまり、まず工場に消費者のデータを提供し、経営や生産のデジタル化を進め、工場を「強く」する。そしてその力を最大限に活用し、市場最低価格の商品を大量に供給する。それが消費者の利益になるという考え方である。
「特価」は工場が強くなった「結果」として初めて実現できるもので、仮に手早くシェアを取るために資金力による値引きで低価格を実現しても、それは表面的なもので、本当の強さにはならない--と考える。この点で「特価版」の最大のライバルと目され、同じく「下沈市場」をターゲットにしたeコマースサイト「拼多多(ピンドゥオドゥオ、PDD)が100億元ともいわれる多額の補助金を提供し、圧倒的な低価格でシェア獲得につなげている戦略とは異なる路線を志向している。
全国に1000ヵ所の「スーパー工場」を育成
このような観点からアリババは「特価版」で全国に広がる「産業帯」(産業集積地)に着目、地元政府とも協力し、地場産業の情報化、デジタル化を進める取り組みを進めている。日本にも各地に「洋食器の街」とか「タオルの街」といった産業集積地があるように、中国にも数多くの産業集積地がある。例えば、福建省泉州市の靴、広東省仏山市の家具、浙江省金華、義烏の生活雑貨などといったものである。これらを中国では「産業帯」と呼ぶ。
冒頭にも触れたように、アリババはもともと中小企業どうしの電子商取引(「1688.com」)からスタートした企業で、地場の産業集積に関係が深い。その基盤を利用し、デジタル化を軸に工場のグレードアップを図る。アリババの副総裁で、「特価版」事業の責任者を務める汪海氏は2020年3月の記者会見で「今後3年以内に各地の地場産業集積地で1000ヵ所の工場を生産額1億元超の“スーパー工場”に育成し、100億元の新たな受注を生み出すと同時に、全国に総生産額100億元を超える産業集積を10ヵ所つくる」という戦略目標を掲げた。
その根幹は、徹底的な「性能価格対比」(性価比)の追求にある。ブランド化による付加価値を自ら否定、市場(相場)に合わせて価格を決めるのではなく、製造原価に工場が継続的に運営できる最低限の利益を加え、可能な限りの最低価格で供給してしまう。一品あたりの利益は少ないが、それに構わず圧倒的な量を売ることで自らがその商品のスタンダードになってしまおうという発想である。
いわば「儲け」の最大化を狙うのではなく、誰にでも受け入れられる妥当な品質かつ低価格の「標準品」をつくり、その標準品の「普及の最大化」が世の中全体のメリットになることを目指す。この商売のやり方はとても面白いと思う。
コロナ禍で輸出が急減、生産力を内需に向ける
「特価版」急成長の背景には別の要因もある。それはコロナ禍による産業の環境変化である。感染拡大の余波は中国でもあらゆる産業に及んでいるが、最も大きな影響を受けたのが輸出産業である。世界経済の停滞で輸出企業の受注が急減、各地の製造業は同年春以降、大量の生産余力が生じる事態となった。この状況を政府も憂慮し、急遽、輸出工場の生産キャパシティを国内市場に向ける方向に舵を切った。これがちょうど「特価版」の正式スタートと合致し、社会的にも注目を集める要因となった。
輸出主体で成長してきた工場は海外の先進的なデザインや製造技術を身につけており、高品質でおしゃれな「ワンランク上」の製品を供給するにはうってつけだ。しかも工場の稼働率が下がって低価格で生産しやすいメリットもあった。折しも米中の対立激化で、国民の間に「国内産業支援」「国産品を買おう」といったムードが高まっていたことも追い風になった。
アリババと「水道哲学」
こうした「高品質の製品を低価格で安定的に提供するために、まず工場を強くしなければならない」という考え方は、常識的には少数派に属する。一般には「安く売りたいから、工場からの仕入れを買い叩く」のが普通で、「特価版」の発想はその逆を行く。どちらかといえば、このような考え方は歴史的に製造業を強みとしてきた日本企業の発想に近いものがある。
ここで思い出されるのがパナソニックの創業者で「経営の神様」と讃えられる松下幸之助の「水道哲学」である。
松下幸之助は1932年(昭和7年)5月、会社の第1回創業記念式で講話を行った。そこで松下は「産業人の使命は貧乏の克服であり、物資の生産に次ぐ生産をもって、富を増大させなければならない。水道の水の如く物資を豊富にかつ廉価に生産提供することによって、この世から貧乏を克服し、人々に幸福をもたらし、楽土を建設することができる。わが社の真の使命もまたそこにある」という趣旨の話をしている。
時代背景も向き合う市場も全く異なるが、アリババの「情報化、デジタル化によって工場の功率を極限まで高め、その“強い”工場によって高品質で低価格の商品を大量かつ継続的に世の中に供給し、低所得層の生活をランクアップする」という考え方は、この「水道哲学」と一脈通じるものがある。
もちろん完成形にほど遠く、成功するかどうかもわからないが、こういう「真っ向勝負」の発想で世の中を変えようとするところが、ジャック・マーという稀代の経営者が生み出したアリババという集団の強みであり、面白さである。だからともすれば権力者に睨まれたりする。しかし、こういう発想の企業が現れない限り、社会は前に進まない。
地場産業と組んで良い商品をつくる仕事は、若者にスマホでお金を貸して利息を取る商売よりずっとアリババらしくて、よいと思う。
次世代中国