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次世代中国 一歩先の大市場を読む

国が強くなれば英語はいらない!?
中国「英語不要論」台頭の背景

田中 信彦 氏

ブライトンヒューマン(BRH)パートナー。亜細亜大学大学院アジア・国際経営戦略研究科(MBA)講師(非常勤)。前リクルート ワークス研究所客員研究員
1983年早稲田大学政治経済学部卒。新聞社を経て、90年代初頭から中国での人事マネジメント領域で執筆、コンサルティング活動に従事。(株)リクルート中国プロジェクト、ファーストリテイリング中国事業などに参画。上海と東京を拠点に大手企業等のコンサルタント、アドバイザーとして活躍している。近著に「スッキリ中国論 スジの日本、量の中国」(日経BP社)。

英語学習の労力とコストに疑問

 中国は過去40年の改革開放で、非常に積極的な英語教育を進めてきた国である。その中国で昨今、「英語不要論」への共感が高まりつつある。

 日本も含め、英語を母語としない国の人々にとって、事実上、世界の共通語である英語を学ぶ負担は重い。不公平な話だと思う。しかし文句を言っても始まらない。とにかく英語を勉強しなければ、この世界ではどうにもならない。日本の人々はそういう現実を受け入れているように思える。

 ところが、どうも中国は様子が違う。確かに現時点で英語は完全に不要と主張したり、英語中心の世界を拒否しようとする人は多くはない。しかし、中国の人々の英語に対する姿勢は、「そういう世界なのだから仕方ない」という諦めの姿勢ではなく、「英語を学ぶのは、それが自分たちに有利だからであって、別に英語がなくても困らなくなれば、その必要はない」という、極めて実用主義的な発想が基本にある。

 そして、国力の増大にともなって、「英語を学ぶ必要性は、現状まだ確かにあるが、確実に下がり始めている」との認識が広まりつつある。そこには、いかにも大国というか、あくまで自分を軸として考える中国という国の発想が端的に表れているように思う。

 どうしてそのような発想になるのか。今回はそんな話をしたい。

外国語を大学入試から外す議論も

 今年3月、中国の国政助言機関である全国政治協商会議(政協)の会議が北京で開かれた。政協は国会に相当する全国人民代表大会(全人代)と合わせて「両会」と呼ばれ、毎年1回、春先に重要会議が開かれる。

 この場で、建築の専門家で、メディアなどでも積極的に発言している許進委員が現在の英語教育に疑問を呈し、「義務教育段階では、英語など外国語は語文(国語)や数学と同等の「主課」からは外し、その分を(芸術や体育など)人としての素養を高める教育に充てるべきだ。また外国語を「高考」(全国統一の大学入試)の必須課目とするのをやめ、義務教育の生徒の民間による外国語試験への参加も禁止するべきだ」(訳は筆者)という趣旨の提言を行い、大きな反響を呼んだ。

 こうした議論が国政の場で行なわれるのは初めてではない。2017年3月には全人代で、河南省代表、民営の工業大学の創立者でもある李光宇氏が、やはり同様に、外国語を大学入試の受験課目から外すことや、初級中学、高級中学(それぞれ日本の中学、高校に相当)で英語を必修科目から選択科目にすることなどを提言している。

 中国では基本的に小学校3年生(一部都市では1年生)から必修の英語教育が始まる。報道によれば、同氏は「都市部の学校では、授業や予習・復習、宿題、課外学習(塾など)を合わせ、小学生で1日1時間、初級中学1.5時間、高級中学2時間を英語学習に費やしている。高級中学卒業までに1人あたり5000時間以上も英語学習に使っている計算で、広東省深圳市の調査では、小中学生の42%が睡眠不足の状態にある」などと発言している。

 これらはあくまで提言であって、中国政府教育部(文部科学省の一部機能に相当する国家機関)は正面からは回答していないが、メディアではいずれも大きく報道され、個人のブログや微博(中国版ツイッター)などのSNSでも数多く引用され、論議が高まった。

※資料画像。本文の内容とは関係ありません

「英語不要論」の背景

 こうしたいわば「英語不要論」もしくは「英語抑制論」が近年、人々の高い関心を集める背景には昨今の中国を取り巻くさまざまな状況の変化がある。

 主な背景をまとめると、以下のようなものだ。

  1. 国力の増大にともなうナショナリズムの高まり、伝統文化の再評価
  2. 米国を中心とした西側民主主義社会への失望感
  3. 試験地獄、子供の学習負担が重すぎることへの反省機運
  4. ITによる異言語コミュニケーション手段の進化
  5. 「中華文明論」の台頭

 いずれも中国を取り巻く政治や経済、社会情勢と深いつながりがある。「英語不要論」の盛り上がりは、極めて敏感なテーマであることがわかる。

 それぞれ順を追ってみていこう。

1. 国力の増大にともなうナショナリズムの高まり、伝統文化の再評価

コロナ抑制で強まった「体制への自信」

 中国の国力増大については周知のことと思うので、ここでは繰り返さない。さまざまな異論はあるものの、少なくとも中国の人々はそう遠くない時点で自国が経済規模で米国を抜き、世界最大となることを当然と思っている。そして米国の3倍以上の人口があるのだから、順当に考えて、圧倒的な差をつけて世界No.1の国として存在するのが自然だと考えている。

 もちろんそこには党や政府の宣伝工作や、いわゆる「愛国教育」などの影響もあって、全体的にいささか自信過剰に陥っているとは思う。しかし、そうした強気の気分にともなって、「中国は素晴らしい」というナショナリズムが、かつてないほど強まっているのは事実だ。

 特にコロナの感染拡大を抑え込んで以降、中国の統治システムに対する国民の信頼感は確実に強まった。逆に、民主主義を標榜する先進国の制度的な弱さが露呈したとの理解が中国社会では一般的で、「中国的な仕組み」の優位性を信じる人が増えている。

中国伝統文化を再評価

 また中国の「強国化」が鮮明になってきたことで、これまでは西洋との対比でネガティブに見られがちだった自国の伝統文化に新たな価値が見いだされるようになってきた。若い世代の間で特にその傾向が強い。漢服(中国服)の流行や、あえて漢字を使ったロゴマークや伝統的な意匠をデザインに取り入れた商品が人気を呼ぶなど、マーケットでも国産品を好む傾向が強まっていることもその表れだ。TikTokの世界的な人気が象徴するように、いわゆる低価格品だけでなく、ソフトも含めた製品やサービスが海外で高い評価を受け始めたことも自信につながっている。

 そうした流れの中で、海外の先進的な文化や最新の技術を学ぶことを強い動機として進んできた中国の英語教育が明確な目標を失い、転換点を迎えつつある。英語学習にかける膨大な労力と時間、コストが割に合わないと感じる傾向が出てきている。

2. 米国を中心とした西側民主主義社会への失望感

「要はお金があるかないか、の違いだった」

 上記の話と表裏一体ではあるが、米国を中心とした先進国の文化や社会体制に対する失望感もある。中国では、不景気とはいいながら、それでも年々、中産階級の比率が高まり、生活の向上を実感している人が多い。それに対し、いわゆる西側諸国では、どこを見ても成長が鈍化し、景気は一向によくならず、社会は貧富の格差が拡大、明るい未来があるようには見えない。

 ある中国の友人が言っていたことが印象に残る。「以前、欧米や日本の人たち、同じ中国人でも香港や台湾の人たちはなんとカッコよくて、センスがいいのか、中国とは何か根本的に違うのだろうと思っていた。でも、自分たちがある程度、豊かになってみてわかったのは、それは詰まるところ『お金があるかどうか』の違いだった。同じようにお金を持てば、自分たちだって何も違わない。大事なのは主義や思想より、金持ちになることだ。そう思うようになった」

それでも英語を学ぶのか

 要するに「先進国」とは、「先に金持ちになった」というだけで、何か独自の真似のできない違いがあるわけではない。「先進国を過大評価していたのではないか。あんなに憧れて損をした――。」中国で、そんな気持ちを持つ人が多くなっている。

 とはいえ、民主主義体制の将来に希望を見いだせないのは日本から見ても同じで、今後、従来のやり方の延長で、明るい未来が開けるとは思えない。しかし、それでも日本では「英語を学ぶ必要はあるのか」という議論にはならない。そこが中国と日本の違いであり、大国的マインドと小国的マインドの違いだろう。このことはまた後で触れる。

3. 試験地獄、子供の学習負担が重すぎることへの反省機運

「学習塾禁止令」につながる文脈

 上述の李光宇氏が指摘するように、中国の児童・生徒の学習負担が重すぎることは中国社会で大きな問題になっている。これは英語に限った話ではないが、英語は自分1人では学習が難しく、レベルに見合った教師が必要なこと、両親が必ずしも子供に適切な支援をできるとは限らないことなどから、子どもたちや両親の負担感が特に重い。

 前回の記事「誰もが成功できる時代」の終わり 中国の「宿題、学習塾禁止令」が目指す選抜社会で触れたように、中国政府は既存の学習塾に事実上の「禁止令」ともいえる厳しい規制を実施した。そこには英語学習も含まれる。また未就学児童対象の外国語教育も禁止するなど、子どもたちの「勉強漬け」の状況を変えようと強権を発動している。

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 英語の場合、学習に時間と労力がかかる割には、社会に出てから日常的にそれを使う人の割合は高いとはいえない。この点も負担感を増幅する要因のひとつだ。理工系の領域に進む場合、もしくはグローバルなビジネスに携わる人、国内でも外国人に頻繁に接する機会のある仕事などを除いて、中国国内で日常の仕事に英語が必要なケースは多くない。実務上、英語が不可欠な人は大卒以上に限っても10%程度との見方もある。

 もちろん英語の学習には、実務的な必要以外に、世界に視野を広げる、文化・芸術的な素養を高める、異文化の多様な価値観を知るといったメリットがあるが、それらのメリットに対して習得の負担が大きすぎるとの見方は強い。前回の記事でも触れたように、「普通の人」は、いわば「身の丈に合った勉強をし、相応の仕事に就くのがむしろ幸せなこと」という方向に国の政策も変わりつつある。

4. ITによる異言語コミュニケーション手段の進化

自動翻訳の精度、スピードは飛躍的に向上

 近年のITの進化も「英語不要論」に大きな影響を与えている。中国でスマートフォン(以下スマホ)と高速の移動通信システムが全国規模で普及して、約10年が経過した。10億人を超える人々が自らのスマホを持ち、自在に情報の発信・受信を繰り返している。

 英語を学ぶ目的とは、突き詰めれば他者とのコミュニケーションと、より豊富な情報の獲得にある。中国社会の情報流通量は「スマホ以前」に比べて爆発的に拡大しており、いまやITを活用すれば、自動的に必要な情報が集まってくる時代になった。AI(人工知能)の進化で自動翻訳の精度、スピードは飛躍的に向上、コストは大きく下がって、一般レベルでは十分実用に耐える水準になってきている。

 もちろん自分で英語を使えるのが理想的なことは言うまでもない。しかし、ITの力がここまで進化し、今後も飛躍的な成長が確実な現在、「普通の中国人」から見て、英語とはそこまでの代価を払って習得しなければならないものなのか。このような疑問は大きくなっている。

 英語は、一定水準までは教養として義務教育で学ぶのもいいが、それ以上は、英語が本当に必要な人、自分から学びたい人だけが勉強すればよいのではないか――という見方が世論の共感を集めやすくなった大きな背景がここにある。

5. 「中華文明論」の台頭

「中華文明の再興」を意識し始めた人々

 そして中国の「英語不要論」を最も深いところで支えているのが、「中華文明論」の台頭である。

 以前、このwisdomの連載で、「米中対立は“文明の衝突”か~大きく変わる中国の世界観」(2020年1月24日)という記事を書いた。

 そこで、中国の人々が国や民族よりも上位の枠組みである「文明」という概念を意識し始めていると指摘した。その感覚は、この1年半ほどの間に明らかに強まっている。

 かつて黄河文明が世界の四大文明のひとつに数えられていたことは誰でも知っているし、歴代の王朝が世界的なスケールを持つ大帝国であったことも事実だ。こうした世界に冠たる文明の所在地であり続けた中国が、世界の舞台で脇役に追いやられていたのは、歴史的に見ればむしろ例外的な時期だったとの視点を中国の人たちは持っている。

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浸透する「文明交代論」

 そのような視点に立てば、たまたま過去200年ほど、西洋文明が力を得て世界を支配する時代が続いてきたが、もはやその衰退は明らかで、繁栄は終わりに近づいている。すでに2つの文明は拮抗する時期に入っており、いずれ「文明の交代」が起きる。われわれはそれに備えて、責任ある大国として振る舞わなければならない――。こういう意識の流れになる。

 これはもちろん一方的な視点で描いた構図であって、そこに具体的な裏付けがあるわけではない。一種の願望というべきものだろう。しかし、現実にはこうした「文明交代論」が人々に強くアピールし、中国を中心としたアジアの新しい文明の時代が到来しつつあるとの歴史観は着実に支持を得ている。中国の「英語不要論」の土台には、このような社会の雰囲気がある。

英語の地位は絶対か

 賛成論、反対論、ネット上ではさまざまな意見が戦わされている。賛成派は「中国はITと生産力の結合で世界を変え得る力を持っている。世界の構造が変われば、共通語としての英語の地位は絶対ではない。中国語の学習者は世界中で着実に増えている」などと主張すれば、反対派は「中国は大きいとはいえ世界の一部にすぎない。英語の世界語としての地位は揺るがない。英語を軽視すれば、中国は世界から孤立する」と反論する。

 世界共通語として中国語が英語の地位に取って代わる可能性は、現状、ほとんど妄想のレベルだと私は思うが、世界に冠たる中華文明の復興を確信する気分は中国国内には確実に存在し、それが「英語不要論」を勢いづけるパワーになっている。このことは否定できない。

西洋文明への深い疑念

 こうした議論を通じてわかるのは、中国の人たちが、英語という存在を最初から絶対視していないことである。その根底をたどれば、中国の人々の「西洋文明」というものに対する深い疑念に行き着く。英語に対する感覚の日本との違いは、煎じ詰めればここに由来する。

 黒船来航以来、第二次大戦での敗北という悲痛な経験を経つつも、基本的に西洋文明の一角を担い、その恩恵を一身に受けて経済大国にのし上がった日本という国と、アヘン戦争以来、西洋文明の侵略、封じ込めに遭い続けてきた中国という国の民族的体験の違いがそこにはある。

 現実に可能性があるかないかはともかく、中国という国の統治者、そしてそこに暮らす人たちは、自分たちは異なる「文明」の担い手であって、世界を変える力を持ちうるのだ――という意識がある。英語中心の世界が永遠に続くと誰が決めたのか。

 このことが国際社会にとって吉と出るか、凶と出るか、それはまだわからない。中国の「英語不要論」が世界的な対立の象徴にならないことを祈るばかりである。

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