次世代中国 一歩先の大市場を読む
中国の顔認証、高まる個人情報保護意識
国家が目指す独自のソブリンAIの姿とは
Text:田中 信彦
中国で顔認証に関する個人情報保護の意識が高まっている。
今年4月、上海市は市内の宿泊施設で宿泊客に顔認証を要求することを事実上、禁止した。各地方は次々と同種の決定を下している。かつて中国の商店やショールームなどでは顧客の同意なしの顔画像の撮影、個人データの収集・分析が野放図に行われていた。しかし、この数年で関連する法整備が進み、状況は大きく変わりつつある。
背景にあるのはプライバシー意識の高まりだ。コロナ禍での過酷な隔離経験などを経て、「顔認証による個人の特定」への関心が高まったこともその一因である。
その一方で、中国国内では政府が「国家安全」を最優先に掲げ、国民の個人情報を一手に掌握し、ほぼ制約なく利用できる状況が存在する。民間の個人情報保護意識の高まりとのギャップは大きい。そこには「中国的ソブリンAI」の姿がある。
顔認証技術は、AIが重要な役割を担う今後の世界で、その中核的なテクノロジーの一つだ。顔認証システムの輸出で中国は世界のトップを走る。その動向は注視しなくてはならない。
今回は激変する中国の顔認証をめぐる動きについて話をしたい。
田中 信彦 氏
ブライトンヒューマン(BRH)パートナー。亜細亜大学大学院アジア・国際経営戦略研究科(MBA)講師(非常勤)。前リクルート ワークス研究所客員研究員
1983年早稲田大学政治経済学部卒。新聞社を経て、90年代初頭から中国での人事マネジメント領域で執筆、コンサルティング活動に従事。(株)リクルート中国プロジェクト、ファーストリテイリング中国事業などに参画。上海と東京を拠点に大手企業等のコンサルタント、アドバイザーとして活躍している。近著に「スッキリ中国論 スジの日本、量の中国」(日経BP社)。
ホテルでの顔認証は事実上、禁止
かつて中国でホテルに宿泊すると、フロントに設置された機器で顔画像の撮影を求められるのが常だった。それがコロナ後、久しぶりに上海を訪れてみると、機器は撤去され、撮影は不要になっていた。年々、身の回りの監視カメラが増える一方の中国で珍しいことだと思っていたら、今年4月、冒頭に触れたように、ホテルの宿泊客に対する顔認証の要求を事実上、禁止する上海市公安局の正式なお触れが出た。
それによると「有効な身分証明書を提示している旅客に対して顔認証を強制することを厳禁する。顔認証をしないと宿泊できないことがあってはならない」とある。ここで「厳禁」しているのは、あくまで顔認証の「強制」で、顔認証自体を禁止しているわけではない。しかし、市の公安局からこのような指示が出れば、顧客の手間が増える顔認証をあえて求める宿泊施設はなく、事実上の顔認証禁止令と受け止められている。上海市に続いて、広東省深圳市や浙江省杭州市、江蘇省蘇州市などでも次々と同様の通達がなされており、今後、全国に広まるものとみられる。民間の商業領域では個人情報保護の動きが本格的に広まり始めた顕著な現れといえるだろう。
個人情報の野放図な収集に強い批判
その背景には、中国社会の意識の変化がある。地域や個人によって差はあるが、ほんの数年前まで普通の人々の間では「個人情報」自体の認識が薄く、みずからの属性に商業的価値があるとの意識はほとんどなかった。
一方で情報技術の進化は急で、人々が気づかないうちに自らの情報が収集され、商業利用される状況が生まれた。そして、その実態を人々が知るにつれ、自らの個人情報の意味に気付き、その恣意的な利用に対する不満と反感が芽生えてきた。
その流れを象徴するのは、2021年3月15日の「世界消費者権利デー」に国営の中国中央テレビ局(CCTV)が放映した恒例の特集番組だ。毎年この日の特番は、消費者の権利をないがしろにする企業を厳しく告発することで絶大な人気があり、社会に与える影響は大きい。同年は個人情報保護をテーマに、顧客の同意なしに顔データを収集、顧客管理や販売促進などに活用していた大手企業2社をやり玉にあげ、強い批判を展開した。
それによると、浴室やトイレなどの水栓金具や衛生陶器を製造販売する企業は、中国国内の1000店を超える店舗で、すべての来店客の顔データを同意なく収集、それらに個別のIDを割り当て、AIが識別した性別や年齢、メガネの有無、アジア系人種か否かなどの情報を保存していた。システムにはAIによる感情認識も組み込まれており、客の表情の動きなどから来店時の精神状態を判定する機能もついていた。
また,ある輸入車を扱う大手ディーラーは、中国国内の100店舗以上で顔認証の機能を備えた顧客管理システムを導入。やはり来店客の同意なく顔データを収集。以前に商談記録のある来店客については、その収入や資産状況、家族構成、趣味などの個人情報と顔データを結びつけていた。自社の他店舗への訪問状況が確認できる機能もあり、これらのデータはスタッフのスマートフォンで即座に見ることができた。
こうした状況に対し、世論の批判が強まり、政府に対しても何らかの規制や業界の指導を求める声が高まった。
急速に進む顔認証関連の法整備
世論を背景に顔認証に関連する法規の整備は一気に進んだ。
2021年1月1日、中華人民共和国初の民法である「民法典」が正式に施行された。そこでは顔認証の情報に対する人格権(111条)、財産権(127条)、肖像権(1019条)、個人のプライバシー権(1032条)がそれぞれ新たに規定された。
続いて同年11月には「個人情報保護法」が施行。顔認証技術やAIなどの新たな技術に関する個人情報保護について広範な規則や基準を定めた。例えば、第51条および第73条では個人情報を扱う者は適切なパスワードを設定したり、匿名化を行うことなどを求めている。これを受けて同月、中国を代表するIT大手のテンセント(騰訊科技)などが中心となり、「顔認証安全技術規範」(T/AII 001-20212)と題する業界標準を制定。政府の指導の下、さまざまな企業が顔認証の安全について自主的に一定の基準を守ることを求めたものだ。
2022年10月には政府の一部門である全国情報安全標準化技術委員会が、「顔認証データ安全要求」の国家標準(GB/T 41819-20222023)を定め、2023年5月、発効した。国家標準(GB)とは、国内で統一が必要な技術について法律とは別に国が定める標準のことだ。「顔認証データ安全要求」は「基本安全要求」「安全処理要求」「安全管理要求」の3部分からなり、データの収集や保存、利用、公開など具体的な行動に求める基準を定めている。
個人のセンシティブな情報の収集・分析は禁止
そして2023年8月には、中国のインターネット関連政策を取り仕切る国家インターネット情報弁公室が「顔認証技術応用安全管理規定(試行)」の草案(以下「規定」)を公表した。この「規定」は名称に「応用安全」とあるように、顔認証技術の現場での応用や安全管理について具体的に指針を示したもので、各業界の今後の行動を規定するものだ。
「規定」は第6条で「宿泊施設の客室や公衆浴場、更衣室、トイレなど個人のプライバシーを侵害する可能性のある場所では画像の収集や顔認証を行ってはならない」と特定場所での顔認証の使用を禁止。また第9条では「ホテルや銀行、駅、空港、体育館、博物館、美術館、図書館などでは、「法律で(顔認証システムの)使用が認められた者以外、業務効率やサービスの向上などの目的のために来訪者に顔認証の使用を強制してはならない」とする。
また同11条では「国家安全の維持などに必要な場合を除き、顔認証技術を人種や民族、宗教信仰、健康状況、社会階層などセンシティブな情報の分析に用いてはならない」と定める。1万人以上の顔認証データを収集した者は、30営業日以内に当局に届け出なければならないとの条文もある。
このように、中国では顔認証技術の商業利用に関しては、法制度の整備が進み、個人のプライバシーを保護する方向で事態は進みつつある。
監視カメラが全土を網羅する「天網プロジェクト」
しかしその一方で、「規定」のもう一つの特徴は、民間の商業的な利用と非商業的な利用を明確に分け、後者はこの規定の適用外と明示している点にある。上述の第11条に「国家安全の維持など必要な場合を除き」とあるように、規定の随所に「国家安全の維持」「公共の安全」「人の生命財産の安全確保」といった例外条件が記されており、これらの目的の下に進められる政府や公的機関の活動は、この規定の適用は受けないことを示している。
中国では「天網(てんもう)プロジェクト」と呼ばれる、高精度の監視カメラを中心とするAIを用いたコンピュータネットワークが構築されていることは、これまで日本でもしばしば報道されている。中国国内に設置されている監視カメラの数は2億台とも6億台とも報道され、はっきりしないが、膨大な数の監視カメラに覆い尽くされていることは中国の街を歩けばすぐにわかる。
日本の朝日新聞デジタル(2021年6月9日付)は同プロジェクトについて以下のように伝えている。
「(天網プロジェクトは)数秒間で20億人を識別して、対象となる人物を特定できるとされるシステムだ。(中略)英BBCの記者が17年、中国南部・貴州省貴陽市の警察当局の協力を得て、『天網』システムの実験をした。自身の顔写真を提供してシステムに登録。『指名手配犯』として警察署から逃亡を図ったものの、わずか7分後に『拘束』された」。
つい先日も、今年5月29日、黒龍江省通河県で70代の認知症を患う男性が行方不明になり、家族が警察に通報。本人の身体的特徴をもとに監視カメラ網などで捜索したところ、1時間ほどで近くの村にいた老人が発見され、無事家族の元に戻った――というニュースがあったばかりだ。監視カメラネットワークによる、この手の前向きなニュースや指名手配犯の発見、逮捕の報道は枚挙に暇がない。
その一方で、2022年11月、政府によるゼロコロナ政策に若者たちが抗議の意を示した「白紙運動」の取締りにもこれら監視カメラのネットワークが機能していたとみられる。
こうした国家の監視ネットワークで使われる顔認証のシステムは、当然ながら個人情報保護の適用外である。確かに強力な監視ネットワークが社会の安全に役立っている面が大いにあるのは事実だ。しかし一方で、所得水準が上がり、社会が高学歴化して、人々の権利意識が高まる中、「どこに行くにも政府に行動をリアルタイムで捕捉されている」社会に息苦しさを感じる人々が増えていることも間違いない。民間と政府の個人情報に対する扱いの違いが、将来的に問題の火種になる可能性はある。
EUや米国のAI規制に高い関心
そしてもう一つ、中国国内で昨今話題になっているのが欧州連合(EU)や米国を中心とするAI規制の動きだ。
今年5月末、EUでAIを包括的に規制する「AI法」が成立した。そこには公共の場所での顔認識や生体認証テクノロジーを用いた大規模な監視活動の禁止などが盛り込まれている。 AI規制の議論の中心にあったのは顔認証技術だ。顔認識(人物の識別と分類)および感情認識(表情などからAIで感情を認識・推測する技術)は、基本的人権擁護の観点から危険度に応じて4段階に格付けされたリスクのうち、「最も危険」とされる「許容できないリスク」にランクされた。顔認証技術の利用に対する欧州の警戒感は強い。
米国ではバイデン大統領が2023年10月、「安全で信頼できるAIの開発と使用に関する大統領令」に署名、それを受けて今年3月、「連邦政府機関のAI利用指針」を発表した。そこでは空港の顔認証システムなど米国民の権利や安全に影響を与える可能性のあるAIを連邦政府機関が使用する場合、アルゴリズムによる差別を防ぐなど、具体的なセーフガード措置を講じることを義務付けた。措置が不可能な場合、そのAIシステムの使用を中止するとしている。
独自のソブリンAIを重視する中国
こうした流れに対して、中国国内の関心は高い。例えば、中国共産党北京市委員会機関紙「北京日報」は今年5月31日付で「EUのAI法案がリスク管理に動く」と題する記事を掲載。EUの「AI法」が職場や学校などでのカメラによる感情認識を「許容できないリスク」と規定したこと、米国でも同様の動きがあることを伝え、「世界ではソブリンAIの概念が急速に強まっている。EUの『AI法』制定の背景には自らの地域でソブリンAIを確立しようとの狙いがある」と指摘している。
「主権AI(ソブリンAI)」は昨今、中国のメディアでしばしば見かける流行語だ。それぞれの国家や地域が独自のインフラやビッグデータ、人材、企業文化などを駆使して自前のAIを生み出す能力を指す。そこにはAIの構築や運用に使われるハードやソフトのインフラ、AIの運用やデータ保護に供されるポリシーや人材などが含まれる。AIが国境を超えて、グローバルな政治経済の動きに強い影響を与えるようになった現在、各国が独自の法案を整備し、ソブリンAIを育てようとするのは自然の成り行きだろう。欧米と正面から競争しようとしている中国には、特にその意識が強い。
中国独自のソブリンAIは機能するか
そう考えると、商業利用の領域では一定の民意を反映し、世界の潮流に合わせて個人情報の保護を謳い上げる一方、政治の領域では全土を監視ネットワークで覆い尽くし、「国家安全」を最優先する。こうした中国政府の一見、ご都合主義とも見える手法は、中国なりの新しいソブリンAIの姿なのかもしれない。
米国のシンクタンク、ブルッキングス研究所が23年1月に発表したワーキングペーパー「Exporting the surveillance state via trade in AI (「AI貿易を通じた監視国家の輸出」、訳は筆者)によれば、中国は世界最大の顔認識AIの輸出国である。2008~2021年の間、中国は顔認識AIを83か国に輸出し、その取引件数の合計は238件に達した。これは第2位の米国(48か国、211件)を大きく上回っている。
同ワーキングペーパーによれば、中国の輸出先は専制的な政治体制の国もしくは弱小な民主主義国が多い。この事実は、民間の商業利用と政治の論理をドライに使い分ける中国政府の発想と直結している。先進国を除く他の世界で、中国が顔認識AIのスタンダードを握る可能性は決して低くない。この点から考えても、中国の国情を反映した独自のソブリンAIが果たして思惑通りに機能するのか、注視していかなくてはならない。
次世代中国