テクノロジーは効率化から脱出できるのか?
遠回り・痛み・笑顔─シンギュラリティの先を見据えた3つのヒント
~NEC未来創造会議 2019年度第1回有識者会議レポート~
シンギュラリティ以後の2050年を見据え、テクノロジーによって社会・経済・文化が大きく変わっていくなか、わたしたちはどのような未来を目指すべきなのか。実現すべき未来とそのための課題を解決する方法を構想すべく、NECは「NEC未来創造会議」を2017年度から実施している。
NEC未来創造会議では、「人が生きる、豊かに生きる」ためには”AIを中心とした技術開発”だけではなく”人の意識向上”の両面に取り組むことが重要だと捉え、国内外の実にさまざまな分野の有識者を招いて議論を重ねてきた。昨年度までの有識者会議を通じて、人とAIの特性をどちらも理解することから議論を始めることの重要性、さらに、さまざまなレイヤーで発生している「分断」が未来の課題の本質にあるという議論に至り、この分断を乗り越えて実現されるビジョンとして「意志共鳴型社会」を提示してきた。
今年度はさらに議論を深め社会実装に繋げていくために「RELATIONSHIP」「EXPERIENCE」「VALUE & TRUST」「LEARNING/UNLEARNING」といったテーマを設け、全4回にわたって会議を実施する。各回では法学者から僧侶、ゲームクリエイターまで、テーマに沿った有識者を招聘する予定だ。
「分断」を乗り越えるために
第1回「RELATIONSHIP~わたし“と”わたしたち“の「分断」をいかに乗り越えるか~」に参加した有識者は、大阿 闍梨・塩沼 亮潤氏(慈眼寺)と情報学者のドミニク・チェン氏(早稲田大学)、NECフェローである江村克己だ。モデレータは、『WIRED』日本版編集長の松島倫明氏が務めた。
近年さまざまなレイヤーにおける「分断」の発生が指摘されているが、テクノロジーが効率化を加速させたことで生じた分断も少なくない。近代化が社会基盤を整備し恩恵をもたらす一方で、コミュニティの解体が並行して進んでいったのだろう。しかし、個人と社会の間の分断を解消しなければ、いくらテクノロジーが進化しても、人間一人ひとりが豊かに生きていくことは難しいだろう。
この分断を乗り越えるうえでキーとなるのが、個人と社会の間をつなぐ「コミュニティ」だ。分断を乗り越え、意志の共鳴を引き起こすコミュニティをつくるにはどうすればいいのか。個人と社会の関係性を問うために、「コミュニティは個人と社会の分断をいかに解消できるか」「コミュニティを実装するうえで意志の共鳴はいかに引き起こせるのか」というふたつの問いをめぐって議論を重ねていった。
「遠回り」にこそ価値がある
ひとつめの問い「コミュニティは個人と社会の分断をいかに解消できるか」をめぐり、まず最初に、「フィルターバブル」と呼ばれる現象の加速によって人類は非常に原始的な二項対立によって分断されてしまっていることをドミニク氏が指摘した。ドミニク氏によれば、フィルターバブルとは「退行」と呼べるレベルの状況だという。
「人間の意識が快適なものばかり求めた結果、意識が肥大化して『意識でっかち』になり、先進国では無意識や身体性のもつ価値が軽視されてしまった。加えてそこに数値信仰とでも呼ぶべきエビデンス主義が蔓延している。すべてが数値化され効率が問われるようになれば、人は保守化していかざるをえない」
ドミニク氏がそう語るように、現代社会では極度にコストパフォーマンスが重視され、すべてが投資のようにコストとリターンの多寡によって価値を決められる。もちろん効率化を進めることで人々はより快適に過ごせるようになるが、一方ではある種の効率化がコンバージェンスを進め多様性を奪っていくのも事実。コンバージェンスが人間の「尊厳」にまで働いてしまうと個人の自由も失われてしまう。
こうした時代の変化にともなって、若者の生き方も変化している。大学で教鞭をとるドミニク氏は、近年の学生が就職活動に向かって人生がコンバージェンスしていく感覚を抱いていることを明かした。「就活」のプロセスは学生一人ひとりの個性を砕いていき、ついには学生が自身の個性を「フェイク」せざるをえない状況をつくりだしているのだという。
ドミニク氏の指摘を聞いた塩沼氏は、そもそも家庭の教育から崩壊しているのではないかと語る。「特に先進国ではみんな均一じゃなければいけないムードがある。みんないい学校に入れようとするけれど、その目的は不明瞭。本来は個性に合わせて個人の力を伸ばす教育をしなければいけない」
個人の力を伸ばすにはどうすべきなのか。塩沼氏によれば、それは「遠回りで面倒くさい道」を選ぶしかないのだという。その道は効率化や最適化によって閉ざされつつある道でもある。しかし、これからはいかに「遠回り」するかを考えることこそが、価値を生むのである。
ポジティブ/ネガティブの対立を超えて
「遠回り」は一見ネガティブな印象を受けるが、ドミニク氏によればウェルビーイング研究の観点から見てもそれは重要な要素なのだという。「『内発的動機づけ』研究の第一人者であるエドワード・L.デシ氏が確立した自己決定理論によれば、自分の決定による変化を体感できなければ持続的にウェルビーイングが達成できないといわれている。自律性が重要」とドミニク氏は語る。遠回りで面倒な道を進むことは、こうした自律性を高めることでもあるのだろう。
ドミニク氏の話を聞いた江村は、昨年のNEC未来創造会議で議論された身体性の問題が参考になるかもしれないと切り出した。「腑に落ちる」という表現に代表されるように、じつは深く納得する際に働いているのは頭(精神)ではなく腹(身体)なのだという。だからこそ、自律性なくやらされていることは身体にもしっくりこないのではないかと江村は続けた。
あらゆるものが数値化されモデル化され比較可能と考えられつつある時代だからこそ、身体がもつようなアナログ性の価値は高まっているのかもしれない。塩沼氏もこれまで数え切れないほど護摩行を繰り返しているが、興味深いのは護摩行を始めた瞬間にその日の調子のよし悪しがわかるということだ。それは事前に予測できるものではなく、いざその場に入った瞬間に決まるものなのだという。
塩沼氏の話を受けて「それは東洋医学と西洋医学の差に通ずるものがあるかもしれません」。と江村は指摘する。「西洋医学はまるでセンサリングするように身体を調べて、対処療法で治そうとする。一方で東洋医学は、患者さんがその日診察室に入ってきたときの立ち姿から身体を見ていこうとします」と続けた。
ドミニク氏によれば、ウェルビーイングにおいても従来の西洋的な考え方ではただポジティブな感情を増やしていけば幸せになると考えられていたが、じつはネガティブな感情もふくめて生の豊かさは生まれていると考えられつつあるという。そしてそれは、「遠回り」に価値をおく姿勢ともそのままつながっているものだといえるだろう。ポジティブ/ネガティブの二項対立を超え、面倒を引き受けていくこと──それこそが多様性豊かな個人を育み、ひいては分断を埋めていくのだ。
個から脱却し、相手を察する
つづいて、議論はふたつめの問い「コミュニティを実装するうえで意志の共鳴はいかに引き起こせるのか」へと移っていく。
松島氏は「SNSの『いいね』は『共感』止まり。むしろ共感だけならインフレとも呼べる状態になっている。そこから意志を発動して、『共鳴』へとアップデートさせられていないのがいまの社会」と語り、「共鳴」と「共感」を区別した。そしてドミニク氏が提唱する日本的ウェルビーイングにこそ、共感を共鳴へとアップデートするヒントがあるのではないかと問いかける。それに対し、ドミニク氏は次のように語る。
「個からの脱却が必要。先ほど話した自律性も重要だが、それだけだと個に固執し他者との優劣を比較してしまいがち。人はそれぞれ独立しているのではなく、お互いがお互いの一部でもあるような可能性を考えなければいけない」
ドミニク氏のこの日本的ウェルビーイングに関するアイデアは、仏教の「縁起」なる概念から思い至ったものなのだという。この世界のすべてのものが関係しあっているとする縁起の精神は、他者は自身の一部であり自身もまた他者の一部であることを意味している。この話を聞いた塩沼氏は「仏教の心はいつくしみの心」と語る。いつくしみの心、それは他者を思う心だ。それは自身を他者の立場に置き、想像力を働かせることにほかならない。
つまり、個から脱却することとは、相手を察することなのである。ドミニク氏は「相手を察することは、実はすごく高度な技術」と語る。「相手を察しようとするときは相手になっている。いま相手はこう苦しんでいるのかなとか、こう喜んでいるのかなと考える。それは自分を飛び出して相手を投射している、まさにそのとき個から脱却できている」と続けた。
”個(I)”から脱却し”We”で考える
自分とは異なる他者を察すること。それはときに他者と「痛み」を共有することを意味する。他者の痛みが理解できなければ、人と人との関係性に自律性といつくしみを取り込むことなど不可能だ。これは利己(I)ではなく利他(We)の視点だ。ドミニク氏は、現在盛んに議論されている”We-mode”について言及する。「相互作用論でいま注目を集めているのが”We-mode”という概念です。これは、客観科学主義には限界があって、観察者も観察対象の中に入らないと見えない情報の世界があるという考えです」。個(I)と個(I)の相互作用によって、集合的(We)モードになることで、個人の視点が他者の視点へと変わり、注意の焦点や信念など、他者の持つ情報への関与へと飛躍的に増大させると考えられているのだ。個から脱却した先に、Weモードへ繋がるのだろう。
ドミニク氏によれば、わたしたちはこれまで芸術や文学を通じてそれを行なってきた。わたしたちは小説を読んだり映画を観たりするとき、登場人物へと没入していく。その対象が自分とまったく異なる境遇の存在であったとしても、芸術を通じてならわたしたちは他者の痛みに共感できる。
一方で、「小説や映画なら没入できるのにSNSではできない」と江村が指摘するように、本来他者が存在するはずのSNSは他者への没入を拒むようなアーキテクチャがつくりあげられてしまっている。そこではむしろ他者と自分を比べて妬んだり悲しんだりする人も少なくない。それは、人々がSNS上で「痛み」や「弱さ」を隠そうとしてしまうからだと考えられる。
「SNSはいろいろな人の人生が乱反射する万華鏡のような空間で、みんなが自分の強みを見せようとアピールしてくるので自分の人生を考える余裕さえ奪われてしまう」。そうドミニク氏は語り、SNSには共鳴を起こす余地がないのだと指摘する。
「わたしたちは意志という強い言葉に引っ張られて、人間が本来的にもっている弱さを忘れつつある」と江村は語る。他者の弱さを知り、他者の痛みを自らのものとして共鳴させるためには、人間が弱いものであることを認めなければいけないのだ。
すべてを数値化し効率化/最適化する思想は、物事を単純化し分断を生むだけではない。人々に「弱さ」を隠すよう仕向け、失敗を恐れさせようとしている。失敗を恐れるものは挑戦できず、挑戦できなければ人々は画一化していくばかりだ。
こうした流れを受けて塩沼氏が語った「人生は有限なのだから明るく楽しく。笑顔じゃないとダメ」という言葉は象徴的だ。いつの時代であっても、技術がどれほど進化しても、人が豊かに生きていくためには、なにより人が楽しく生きていくことが重要なのである。
ドミニク氏は議論の最後に、「笑顔は自身の弱さをさらけ出すこと。そして、笑顔はまた別の笑顔につながっていく。笑顔は非常に能動的な振る舞いでもある。そもそも笑顔はひとりだけだとなかなか生まれない。リレーションが存在することで初めて笑顔は生まれる」と語った。
分断を乗り越え、意志の共鳴を引き起こすコミュニティをつくるにはどうすればいいのか。その問いに有識者が答えたヒントは、「遠回り」「痛み」「笑顔」と極めてシンプルだった。しかし、これこそがシンギュラリティへと突き進む社会と時代の中で、より価値を生むものとなっていくことは間違いないだろう。
かくして、2019年の第1回NEC未来創造会議は幕を下ろした。「RELATIONSHIP~わたし”と”わたしたち”の「分断」をいかに乗り越えるか~」をテーマに個人と社会基盤の関係性を問うことを目的としてスタートした議論は、ウェルビーイングの概念を軸としながら現代のテクノロジーがもたらした功罪を明らかにし、そのさらなる可能性を示唆してもいた。4人の議論はテクノロジーのみならず宗教や文化もふくめた幅広いテーマを飛び交いながら進んでいき、「意志共鳴型社会」というNEC未来創造会議のビジョンそのものもアップデートしたといえるだろう。
つづく第2回の有識者会議のテーマは、「EXPERIENCE~ミラーワールドから"体験"を再定義する~」だ。インターネットのような情報技術の発展とともない体験の価値は高まっているといわれている。NEC未来創造会議がビジョンとして掲げている「意志共鳴型社会」のなかで、体験はいかなる価値をもちうるのか。そしてそこでテクノロジーはいかに活用されうるのか。多様な個人が豊かに生きる社会のあり方を模索していくべく、これからもNEC未来創造会議は議論をつづけていく。