「痛みを気合で我慢する」風潮を変え、スポーツを愛する子供たちをケガから守りたい
日本のスポーツ界には、「ケガや痛みはつきもの」「痛みを気合で我慢」という風潮が根強く残っている。だが、ケガや故障の中には未然に防げるケースもある。重症化を防いでスポーツを長く楽しむためには、定期的に体の状態を評価・分析し、ケガのリスクを最小化することが重要だ。スポーツを愛する子供たちをケガから守りたい──野球選手、そして少年野球のコーチとして自らが得た苦い経験を通して感じてきたこの想いは、フィジカルチェックシステムという1つのソリューションに結実した。システムの企画を立案した担当者が、ソリューション開発に賭ける想いを語る。
成長期のケガの蓄積が、深刻な故障を引き起こす
今春、メジャーリーグ(MLB)で二刀流デビューを飾った大谷 翔平選手が、2018年6月、右肘内側側副靭帯の損傷で故障者リスト入りしたのを機に、「スポーツ選手のケガ」というテーマが、あらためて世間の耳目を集めることとなった。
「降板する際、大谷選手が、すごく悔しそうな表情をしていたのが印象的でした。それは、痛みが出るほどのケガをしてしまったことに悔やんでいるだけでなく、しばらく試合に出られなくなることを悟ったようにも見受けられました。野球が大好きで、投手でも打者でも試合に出たいと常々思っているだけにその悔しさは人一倍なはず。改めて、スポーツ選手のケガを防ぐことは非常に重要なことであると再認識しました」
そう語るのは、NECのSI・サービス市場開発本部に所属する織戸 英佑。アマチュア野球歴30年の織戸は、度重なるケガに苦しんだ自らの経験を活かし、誰もが簡単に使えるフィジカルチェックのソリューション開発を企画した。現在は、法政大学スポーツ健康学研究科/スポーツ健康学部泉研究室と共同研究を進めながら、システムの開発に取り組んでいる。
「近年、『スポーツのケガはある程度予防できる』『早期発見をすれば軽症で済み、すぐに競技復帰できる』という考え方が徐々に聞かれるようになってきました。成長期に体を酷使すると、身体組織の疲労や損傷が積み重なって、プロ入り後に深刻な故障を引き起こすことが広く知られるようになったのもその1つです」と織戸は語る。とはいえ、こうした認識がスポーツの現場に浸透しているとは言い難いのが現実だ。
その背景には、スポーツにおいて痛みを我慢して良い成績を出したり、甲子園でエースが無理をして連投を続けることを、美談として語られる風潮がある。スポーツの現場においては無理をすることが”美しい”や”当たり前”という認識が根強く、長期離脱や最悪、競技継続不能となってしまうほどのケガを負ってしまう選手を生み出しているのも事実だ。
「特に子供たちは多少の痛みは試合に出たいがために我慢してしまいます。このため、よほど痛みがひどくならない限り、ケガをしているかどうか分かりにくいのが実情です。しかし、少年期のケガの影響は体内に蓄積され、大人になってから再発の誘因となります。子供の頃の骨折が影響して靭帯に負荷がかかり、それが引き金となって、深刻な故障を引き起こすケースも少なくないのです」(織戸)
ケガ治療の経験がソリューション創造のきっかけに
織戸がフィジカルチェックシステムの開発を志したのは、2つのきっかけがある。1つは自身の故障経験だ。3歳の時にグローブを買ってもらって以来、少年野球・高校野球と、野球一筋の日々を送ってきた。主にショートとして活躍したが、肩や肘の痛みに悩まされることも多かった。
「これまでに肩3回、肘2回の故障を経験しました。ケガをするとドアを開けることもできず、シャンプーをするたびに激痛が走る。痛みを訴えれば休むこともできたでしょうが、ライバルにポジションを奪われてしまうから、なかなか『痛い』とは言えなかった。それでも、若い頃は1週間休めばまた投げられましたから、それほど重症だという自覚はなかったのです」(織戸)
高校卒業後は草野球を楽しんでいたが、全く投球ができないほど肩の痛みが悪化したのは、28歳の時のことだ。
当初は接骨院に通ったが、半年経ってもなかなか改善しない。知人の勧めで、あるスポーツ専門整形外科に通い始め、週2回の治療とリハビリを続けた。理学療法士の佐藤 祐輔氏から、ケガの予防の話を聞いたのは、そんなある日のことである。
「ケガ予防には、1次予防、2次予防、3次予防の3つがあります。1次予防とは『発症する前に予防すること』、2次予防とは『発症したケガの早期発見』、3次予防とは1度落ちた機能を元に戻した上で、再発を予防することです。今、織戸さんがやっているのは3次予防。本来は1次予防、2次予防が重要なのです」(佐藤氏)
それを聞いて、織戸は衝撃を覚えた。その場しのぎの対症療法ではなく、そもそもケガをしない体を作る──これこそ”スポーツにおけるケガ対策”のあるべき姿だ。ITを活用すれば、自分にもできることがあるのではないか──織戸の胸中で、1つの思いが輪郭をとりつつあった。
もう1つのきっかけは、少年野球のコーチとしての経験だ。ある日、チームの選手A君(当時小学6年生)が、肘の痛みを訴えた。かかりつけのスポーツ専門整形外科を紹介したところ、剥離骨折が見つかった。
子供の骨には骨端線といって、骨が成長するための隙間があるため、組織的に脆弱である。A君の肘は、この部分が剥離してしまった。治癒のためには、最低でも半年間投球禁止と、医師から告げられたため、大会への出場は絶望的だった。A君は野球を続けることを断念し、退部の道を選んだ。
「A君はすごく野球が好きだったのに、ケガのために野球を辞めざるをえなくなってしまった。そうなる前に、なぜ自分が指導者としてもっと早く気づいてやれなかったのか──と、深く後悔しました」(織戸)
これ以上、A君のようにケガで苦しむ子を見たくはない。スポーツ界に蔓延する「痛みはあって当たり前」「気合があれば我慢できる」という悪しき常識を覆すためにも、障害を未然に防ぐ1次予防のためのシステムを開発して、世の中に普及させていかなければ──。
その思いに駆り立てられ、織戸は、知識習得のためスポーツ医学検定2級を取得するとともに、社内でフィジカルチェックシステムの企画を提案した。理学療法士として臨床業務を行うかたわら、法政大学大学院に進学した佐藤氏との共同研究と、NECソリューションイノベータのイノベーション戦略本部とタッグを組んでのソリューション開発は、こうしてスタートしたのである。
誰もが簡単にフィジカルチェックできるシステムを実現
「フィジカルチェック」とは、一人ひとりの柔軟性と筋力といったフィジカルコンディションを計測・評価し、ケガの予防やパフォーマンスの向上に役立てるための活動である。例えば、160キロの剛速球を投げるためには、それ相応の柔軟性や筋力が必要となる。柔軟性や筋力が不十分な状態で、無理に速い球を投げようとすると、身体に過度の負担がかかり、ケガをする可能性が高くなる。
この柔軟性を測る上で1つの指標となるのが、肩の可動域だ。肩の可動域の左右差が5度以上あると、肩の運動機能の不足をカバーするため肘に負荷がかかり、肘をケガする確率が2.8倍にまで膨れ上がる。つまり、選手のフィジカルコンディションを的確に評価・分析することで、ケガのリスクを「見える化」し、リスクを最小化するための対策をとることが可能になるのである。
「スポーツのケガには、(1)プレー中の転倒や衝突による外傷と、(2)オーバーユース(過度の負担の積み重ねによる痛みなどの慢性的な症状)の2つがあります。我々のフィジカルチェックシステムが対象としているのは(2)のオーバーユース。定期的なフィジカルチェックによって、可動域の悪化などの予兆をとらえ、痛みが出る前に適切な対応をして、ケガを未然に防ぐことを目指しています」と織戸は語る。
オーバーユースは、何らかの原因で、特定の部位に繰り返し負荷がかかることによって発生する。このオーバーユースによる障害を予防するためには、まずフィジカルコンディションが低下した箇所を特定し、その上で必要なトレーニングを行い、コンディションを改善させる必要がある。
そこで、織戸は、法政大学との共同研究を通じて、フィジカルコンディションをチェックするための評価項目を抽出。将来、障害が発生するリスクを見える化し、ケガの1次予防に役立てるシステムを開発した。3Dセンサを活用して身体の柔軟性や筋力を計測・分析し、改善が必要な箇所を特定。分析結果は選手のスマートフォンに送信し、機能回復に必要な改善トレーニングを動画で見られるようにした。
「ソリューション化にあたって一番重視したのは、計測と評価の容易性です。一般にフィジカルチェックを受けるためには、専門家を複数人投入し、数時間がかりで計測しなければならない。また、分析結果に1~2週間を要するので、すぐに改善トレーニングを始めたくてもできないという問題点があります。その点、このフィジカルチェックシステムなら、専門家の立ち合いが不要で、誰でも簡単に計測することができる。また、3Dセンサの活用によって、計測がわずか3分でできるようになり、評価・分析やトレーニング情報の配信も、ITとモバイルの活用でスピーディに行えるようになりました」(織戸)
IT活用により「新しいスポーツ文化の創造」を目指す
簡単・スピーディ、かつストレスフリーで使えること──それは、フィジカルチェックをスポーツ現場の草の根に浸透させたいと願う織戸にとっては、決して譲れない一線だった。まずは第1弾として野球版を開発。今後はジェフユナイテッド市原・千葉と提携しながら、サッカー版の開発も進める計画だ。
「将来的にはスポーツ選手だけでなく、職業病を抱えている方や、パイロット・警察官・消防士など常に100%のパフォーマンスを求められる方にも、このシステムを活用していただきたいですね」と、織戸は抱負を語る。
選手として味わった苦しみと、コーチとして味わった苦い悔恨。その人生経験から生まれた織戸の思いは、1つのソリューションに結実した。目標は、フィジカルチェックを世の中に広め、スポーツを楽しむ子供たちをケガから守ること──。だが、織戸が目指しているのはそれだけではない。その視線の先にあるのは、「新しいスポーツ文化の創造」だ。
「プロジェクトの合言葉は『ウォーミングアップ・レボリューション』。このフィジカルチェックシステムを活用すれば、選手一人ひとりがその時々の体の状態に合ったウォーミングアップを行い、より良いコンディションで練習や試合に臨めるようになる。それを当たり前の世界にしていきたい、というのが我々の思いです。スポーツを楽しむ全ての人々を、絶対に好きなスポーツから離脱させない。その一念で、我々はフィジカルチェックシステムの開発に取り組んでいます」と織戸は顔をほころばせた。
フィジカルチェックシステムは、2018年7月25日(水)~27日(金)、東京ビッグサイトで開催されるスポーツ・健康産業総合展示会『SPORTEC(スポルテック)2018』に出展いたしました。ご来場いただいた皆さまに、厚くお礼申し上げます。
当日の会場内での様子とともに、開発担当者二人の本システムにかける熱い想いをご紹介しております。